チョウノは番茶を啜りながら、年上の二人を窺い見る。
 一人は、幼い頃から良く知っている、宮様の血筋を引くおひい様だ。耳の脇に生えている部分だけ
を長く伸ばした黒髪と、すっきりと涼しげな眼元が、遠目で見た事がある宮様に良く似ている。昔か
ら、チョウノはリツセの後について、ヒルコ様に久寿玉を捧げに行っていた。リツセがウオミやナチ
ハと何かを語りながら歩く時の、静かな声がとても好きだった。
 一方でもう一人を邪険に眺めやる。瀬津の郷の同い年の男よりもずっと上背のある青年だ。大陸の
人間だから、こんなに背が高いのだ。髪に癖のある青年は、つい最近、瀬津の郷に住み着いた。医者
の原庵のところで手伝いをしているらしいが、そのわりにはリツセのところに入り浸っている。
 一番最初にきちんと言葉を交わしたのがリツセだから、という事もあるのかもしれないが、それに
したって、馴れ馴れし過ぎるだろう。そしてそれを拒まないリツセもリツセだ。若い男と女が二人、
縁側で茶を啜っている様子を見て、誰も何も言わないと思っているのか。
 現に、チョウノの父親も「リツセもそろそろ年頃だしなあ」と意味深に呟いている。
 チョウノは小間物屋だ。職人街に小間物屋があるのも妙な話だが、瀬津の郷では職人が作った品を
問屋に卸すのではなく、職人達が作ったものを自分で売る事が多い。チョウノの家も、そうだ。父が
店の裏側の仕事場で作り上げた小間物を、表の店で売っている。
 チョウノの店の目の前には、小さな久寿玉職人の店がある。リツセの店だ。リツセの父親が建てた
その店は、リツセの父親が亡くなった後はリツセが跡を継いでいる。小間物とは異なる、紙だけで複
雑に織り込まれている久寿玉を、チョウノは目の前で見てきた。
 瀬津の郷の子供達は、皆、久寿玉を作る事が出来る。それは瀬津の神であるヒルコ大神が久寿玉を
いたく気に入っているからである。今でも、水守に混じって人里をうろついているのだと言われるこ
の不具の神の為に、子供達は遊び相手にするように久寿玉を作って捧げる。
 とはいえ、子供の作る久寿玉など、簡単なものでしかない。だから、自分よりも少し年上のリツセ
が、器用に複雑な久寿玉を作る様を、ぼうっとして見ていたものだ。
今も、リツセの店の中にはチョウノが作れそうにない久寿玉が飾られている。大陸からやってきた、
リショウという青年が引き取りにきたという、五色の糸を垂らした久寿玉もそうだ。目の粗い籠のよ
うな久寿玉は、この時期、瀬津の郷のあちこちで見られる久寿玉である。
 この久寿玉を飾る為に、瀬津からもそれ以外の郷からも、あちこちから人が来て、久寿玉師に依頼
をかける。リツセもさぞ忙しい事だろう。本当なら、こんなところで茶を啜っている場合ではないだ
ろうに。
 思って、チョウノは少し不機嫌な眼で、二人を見るのだった。
 しかし、リツセは相変わらずの表情で膝の上のたまを撫でているし、リショウは饅頭にかぶりつい
ている。
「マガツジってのは、なんだ?赤ん坊が骸骨になるのか?」
 饅頭にかぶりつきながら、リショウが瀬津の郷の者ならば誰でも知っている事を訊く。チョウノも
子供の頃から幾度となく聞かされてきた、言い伝えのようなものだ。
 悪い事をしたらマガツジに連れていくぞ。
 早く帰らないとマガツジに迷い込むぞ。
 瀬津の郷の子供は、そう言い聞かされてきた。リショウの言う、赤ん坊が骸骨になる、という言葉
の意味は分からないが、マガツジにはそういった得体の知れぬ事象を起こす場所なのだ。
 リツセが、ぬるんだ番茶に人差し指を入れ、その指で床に何かを書く。
「魔が辻、禍辻、曲が辻。………人の数だけその名前には色々な字が当てられてきたけれども、要す
 るに、此岸と彼岸を繋ぐ辻の事だよ。」
 水が流れるような声で、リツセが説明する。聞き取りにくいわけではないが、決して煩く思考の邪
魔をしない声だ。
「辻は人が行き来する。人が行き来する場所には嫌でも人の感情が蠢く。それは良いものだけではな
 く悪いものもある。そうしたものが溜まりに溜まった時、普段歩いている辻は、彼岸に向かう辻に
 変貌する。」
 偉大なるヒルコ大神が坐す瀬津の郷は、しかしそれ故に彼岸への路も近い。神の力が強ければ強い
ほど、彼岸は此方に近づいてくるものだ。また、神の力が強ければ人の往来も激しくなる。すると更
に辻には人の気が淀む。
 尤も、そうしたものを溜めこみ彼岸を此方に呼び出さぬように、辻には基本的には岐の神――即ち、
道祖神が祀られている。岐の神は、郷に入り込む厄災や悪霊の障壁となる神である。だから、普通に
暮らしている限り、辻に淀みが溜まり、人がマガツジに入り込む事はない。
「でも、あの女はマガツジに入り込んだんだって、お前は言っただろ。」
 リショウが、リツセの真似をして番茶に手を突っ込もうとしているたまを制止しながら言う。無理
やり番茶から引きはがされたたまは、今度はリショウの膝の上に落ち着いた。尤も、リショウの膝の
上でも、もぞもぞと動いてチョウノのほうを見たり、リショウの服を引っ張ったりしている。
 なんだかんだで、リショウに慣れている水守の様子に、チョウノは少しむっとした。たまは自分と
同じで、唐突に大陸から現れた異分子に、含むところがあるのだと思っていたが、そうではないよう
だ。饅頭を奪ったり飛び掛かったりしながらも、遊び相手として認めているようだ。
 むっつりとした様子のチョウノに気づかないのか、リショウとじゃれ合うたまの様子に眼を細め、
リツセは答える。
「年が明けてからは、ずっと人が多かったから。」
 人が多いと、辻に淀む気も大きくなる。まして、新年の祝いの為に瀬津の郷にやって来る者達は、
悉くが幸を願っている。むろん、神に祈るは普通は己の幸だ。
 けれども瀬津の郷のヒルコは、あらゆる神々の中でも最も富事を示す奇魂である。身代を大きくし
ようとする大店の主人がやって来る。豊漁を願う漁師がやって来る。一発逆転の賭け事の願掛けをす
るならず者がやって来る。
 人間らしい、激しい欲望が、そこには渦巻いている。
 祝い事の続く瀬津の郷は、ずっと人々の欲望の坩堝と化していた。そして欲望は、同時に時として
深い業を伴ってくる。願いは恨み辛みと表裏一体だ。
「岐の神だけでは、捌ききれなかったんだろう。」
 ヒルコの加護を求めて、ひっきりなしに訪れる人間の欲望は巨大すぎて、塞の神から零れ落ちた。
零れ落ちた欲望は、そのまま広がって転がって淀んで。けれどもそれだけでも、普通の人間はマガツ
ジには入り込まない。
「ヒルコの加護があるからか?」
「いや、そもそも彼岸のほうが人間を拒むらしい。」
 そういうリツセの声は、まるで賽の河原のせせらぎのようだった。彼岸にとって、人間の身体は重
たすぎて相容れない。いつもの涼しげな顔で答えた年上の幼馴染は、そうである事を知っているかの
ような口ぶりだ。
 チョウノは、リツセの語りが、いつもそうやって見てきたように言う事を知っている。それは、宮
様の血を引いているからかもしれない。
「あちらに迷い込むのは、大体においてこちらでも迷っている人間だ。あの若内儀は、元は漁師町の
 料理人で、そこから塩屋の大店に娶られた。所謂、玉の輿だ。何か思うところがあったとしてもお
 かしくはない。」
 それは、ありふれた話だ。華族が、士族が、大店が、庭先から次の世代に向かう血統を貰ったのだ
としたら、そこには嫉妬と侮蔑が入り混じる。家の中での当たりは相当強かっただろうと想像するの
は難くない。跡継ぎである息子を無事に産んでも、なにかと難癖をつけられたのではないだろうか。
 故に、彼女はマガツジに入り込んだ。
「ただ、気になるのは若内儀はマガツジで、どうやらヒルコ大神に逢っているようだ。」
 子供を残せば助かるぞ、と言った奇妙な男。ぬるりとした白いトカゲに変じたというその男は、間
違いなくヒルコ大神であろう。
 リショウの膝の上で、円らな眼をくりくりとさせている水守がその代表であるように、ヒルコ大神
は、トカゲやイモリやヤモリといった姿で描かれる。瀬津の郷で、まして人のいるべきではない奇妙
な場所でそれらの動物に出会ったというのなら、それはヒルコ大神であって間違いない。
「ヒルコってのは、人間を喰うのか。」
「残念、ヒルコ大神は人身御供を疎んじた神だ。」
 たまを見ながら真面目な顔で言ったリショウに、リツセが素っ気なく言い返す。
「海を荒れさせて、若い娘を生贄に捧げる事を強要した鮫を、ヒルコ大神が打ち取ったという伝承が
 残っている。調べてごらん。」
「………どうやって、こんなぽてぽての物体が鮫を打ち取れるんだよ。」
 たまを抱え上げて、リショウが呟いた。頭の中では、たまが鮫と向き合っている状況が展開されて
いるのだろう。
「ヒルコ大神は、多分、マガツジに迷い込んだ若内儀を助けにきただけだろう。」
 偉大なる、そして人間の為に心を砕いた神は、迂闊にも己が治める地にて彼岸に巻き込まれた人間
を、助けようとその姿を見せた。
「ただ、その時に人間を試そうとした。あの赤ん坊は、その顛末だ。」
 その子供を置いていけば、此処から出してやろう。
 迷える若内儀に、ヒルコ大神は囁いた。神々は時として、気紛れのように人を試す。ただし、普通
に考えれば試練の答えは決して難しくはない。神の望む答えは、いつだって人の中に息づいている。
しかし、時と場合と、そして人によっては、答えは酷く困難になるだろう。
 チョウノは、リショウとリツセが見たという骸骨めいた赤ん坊を見ていない。ただ、マガツジに本
当に行き合ったというのなら、いや、それ以上にヒルコ大神に出会ったのなら、そしてヒルコ大神の
意図にそぐわぬ結果を齎してしまったと言うのなら。
「つまり、その若内儀はヒルコ様の試練に失敗したって事?」
「でないと、ああはならないだろう。あと、たまを見て悲鳴を上げたっていう事は。」
 名前を呼ばれた水守が、きぃと鳴く。
「若内儀も、その結果が非常に障りのある結果だという事が分かっている。」
 その子供を置いていけば、此処から出してやろう。
 普通ならば、こんな言葉に乗ったりはしない。
 そしてそれが正しい。
 だが、身分違いの結婚に苦しみ、恐らく子育て一つについても夫の両親から口出しをされて、立つ
瀬もない若内儀が、出口のない辻の中で、普通の判断が出来ただろうか。今にも自分から取り上げら
れそうな、下手をすれば自分を差し置いて、大店の中では跡取りとして大事にされるであろう息子を、
置き去りにする事に、甘美さを覚えなかったか。
「若内儀は、子供を置き去りにできるわけがない、と言ったけれども、それなら、たまを見て必要以
 上に怯える必要はない。例え、自分達に危害を加えようとしたという事で怯えたのだとしても、あ
 の赤ん坊の姿は異常だ。」
「………子供を置き去りにした。」
 呟いた声は、リショウのそれと重なった。チョウノにとってそれは少し不本意だったが、横目で見
た青年のほうは、特に何も感じていないようだった。リツセを見て少し口を尖らせている。
「でも、あの若内儀が話した事が全部本当だなんて、どうして言い切れる?マガツジに行き合ったっ
 て事も、嘘かもしれないぜ。」
「ちょっと、マガツジが嘘だって言うの?」
 瀬津の郷に伝わる話を、信じていない様子の大陸男に、チョウノは噛みついた。
 マガツジは確かに言い伝えで、チョウノ自身行き合った事はない。子供の躾のために言い聞かされ
る話の一つであるとも認識していた。だから、嘘とまでは思っていないものの、本当にあるかどうか
と言われれば首を傾げていた。
 しかし、リショウに嘘呼ばわりされると、かちんとした。自分の郷の言い伝えを嘘という一語で一
蹴された事と、リショウ自身への含みが入り混じったが故の、苛立たしさだった。
「大体、あんただって変な蛇の頭を持ち込んだじゃない。それの呪いを信じて、こっちの言う事は信
 じないつもり?」
 リショウはチョウノの剣幕に目を丸くしている。リショウの膝の上に乗っているたまも、丸い眼を
くりくりさせてチョウノを見ている。まるで、チョウノのことが理解できないと言わんばかりの眼だ。
たまにまでそんな眼で見られて、チョウノは少しバツが悪くなってきた。なんだか、ヒルコ大神にま
で呆れられているような気がしたのだ。
 冷静に考えれば、異国の民の庇護者であるヒルコ大神が、大陸から渡ってきたこの青年を悪しざま
にするはずがない。その化身だからというわけではないが、たまとてリツセが言うように、リショウ
の事を嫌っているわけではないだろう。嫌っていれば、それこそもっと噛みついたりして、拒絶の意
志を見せるはずだ。
「まあ、信じられなくても無理はない。瀬津の郷にだって、マガツジに本当に行き合った人なんて、
 そうはいないし。私は偶々、マガツジに入り込んだ人を知っていただけだ。」
 目を丸くしたリショウと、唇を噛み締めたチョウノの間に割って入るように、リツセが言った。
「今回の、あの若内儀の話の内容が、以前聞いたものと同じだったから、私もマガツジに入り込むと
 いうことは、あるんじゃないかと思っただけだ。」
 そして以前聞いた話でも、やはりヒルコ大神と思われる奇妙な男が現れ、此岸に引き摺り戻してく
れたのだ。
「あたしは、そんな話聞いた事ないわ。」
「言いふらす内容でもないからね。それに、俄かには信じられる話でもない。」
 リツセも、同じ話が二度繰り返されたから、その詳細も同じだったから、本当の事なのかもしれな
い、と思ったのだ。
「でも、リツセに一番最初にマガツジに行き合ったって話をしたのは誰?瀬津の人?」
 チョウノの問いかけに、ああ、とリツセは気のない声を上げた。たまが、リショウの膝から降りて、
リツセの膝に戻る。見上げる水守を見下ろし、リツセはいっそ素っ気ないほどの口調で答えた。
「私の、母親だ。」