リショウは目の前で、どうだ、と言わんばかりの顔でこちらを見上げる水守を見て、盛大に舌打ち
したくなった。
瀬津の郷に来て既に一カ月と半月が過ぎている。その間に分かった事は、この郷ではイモリやヤモ
リ、トカゲやサンショウウオといった生物が神聖視されていることである。要するに、トカゲめいた
輪郭を持った生き物はヒルコ大神の化身と言われているのだ。その中でも特に、ぽってりとした身体
が白い産毛に覆われた水守という生物は、それはそれは大事にされている。
犬や猫のように郷のあちこちで見かける事は当然で、下手をしたら勝手に家の中に上がり込んで、
縁側で日向ぼっこをしている事だってある。瀬津の郷はあちこちから湧水が湧き出し、それらを郷中
に行き渡らせる為に水路があるのだが、その水路を我が物顔で悠々と泳いでいる水守の姿を見るのは、
もはや日常茶飯事である。
リショウが今、世話になっている原庵という医者の家にも、三匹の水守が住み着いている。三時の
おやつが彼らの分あるのは、今更である。
ただ、原庵の家に住み着く水守達はまだ大人しい。まだ子猫くらいの大きさしかないというのもあ
るのかもしれないが、縁側に三匹揃って腹這いになり、円らな眼でこちらを見上げてくる様は、たし
かに可愛らしいものがある。ちょこちょこと後をついてくるのも、可愛いと言えなくもない。少なく
とも、リツセの家でふんぞり返っているたまのように、突然人の顔面に飛び掛かってきたりはしない。
というか、たまがふてぶてしすぎる。
白い身体に円らな眼、というのは他の水守と同じなのだが、物凄く馬鹿にしたような眼でこちらを
見る事がある。円らな眼で馬鹿にした視線を込める事も、ある意味凄いが。
「そりゃあ、変な男がうろついてるんだもの。眼付きも悪くなるわよ。」
リツセの家の向かいの小間物屋の看板娘であるチョウノなどは、明らかな悪意を込めてリショウに
そう言った。
ついさっき、表に走り去っていった塩屋の若内儀の悲鳴に、何事かと店先の掃除の手を止めてリツ
セの店に突撃してきた娘は、たまをひっぺがしたばかりのリショウを見るなり、手にしていた竹箒で
殴り掛かってきたのだ。
咄嗟にたまを盾にしたので、チョウノの竹箒は寸でのところでリショウにもたまにも当たらずにす
んだ。しかし、水守を盾にするなんて、と怒り出したチョウノに、理不尽めいたものを感じたリショ
ウは間違ってはいないだろう。
大体、チョウノが何故こうもリショウに冷たく当たるのかが分からない。そういえば、初めて顔を
合わせた時――あの時は顔を合わせたと言うか、リショウの話を聞こうとするリツセ、にチョウノが
警戒心が足りないとか文句を言っていたのだったか――もチョウノはこちらを睨み付けていた気がす
る。
リツセよりも二つほど年下で、店が向かいという事もあって、小さい頃から親しんできた仲なのだ
ろう。だから、リショウという闖入者が――長い長い歴史を経て帰ってきた、リツセと血を同じくす
るものではあるがチョウノはその事を知らない――リツセの元にやって来たのを見て、リツセを盗ら
れたと思っているのかもしれない。
そしてそれは、もしかしたら、たまも同じなのかもしれない。リツセが自分に割いている時間がリ
ショウに向けられた事で、機嫌を損ねているのだろう。
あとは、やはりリショウに対する警戒心か。
リショウは勿論、リツセに何かをするつもりは全くない。だが、リショウが若い女の家に上がり込
んでいる事は否応なしに事実である。それを、ちょっぴり反省する。
だが、たった今、リツセがリショウの為に出した饅頭六つのうち、二つをチョウノが、三つを水守
が掠め去っていったところを見ると、どうも奴らの行為は行き過ぎてはいないか、と思わずにはいら
れない。特に、餡子を口の端につけたまま、こちらを勝ち誇ったように見ている水守が。
以前リツセにも、たまの態度には含むところが多すぎると言ったのだが、その時リツセはリショウ
の髪を見て「巣だと思ってるんじゃないか」と失礼極まりない事を言った。その隣でたまがやはり勝
ち誇った顔をしていたのを思い出す。
そして今、リショウの顔面に脈絡なく飛び掛かり、ようやく引っぺがしたと思ったら饅頭を奪って
いった水守は、やはり勝ち誇った顔をしていた。
「このトカゲは、そんなに俺の事が嫌いか。」
「そりゃあそうよ。」
「トカゲじゃない。水守。」
チョウノの同意に、リツセの全く違うところへの突っ込み。リショウはそれに何らかの反応をすべ
きか少しだけ考えたが、止めた。
水守。トカゲよりも水に近く、イモリよりも太陽に強い。肌を覆うのは鱗でも粘膜でもなく、柔ら
かな産毛。仕草は犬や猫を思わせるが、リツセが言うには尻尾を振ったりする仕草は、犬や猫の真似
をしているのだそうだ。そうしたほうが人間との意志疎通が出来ると分かっているからであって、彼
ら自身は嬉しいからといって自然と尻尾が振れるわけではない。つまり、彼らは犬猫よりも頭が良い。
「たまは嫌いな人には飛び掛かったりしないよ。無視して終わりだ。リショウは気に入られてるから
そんなふうに飛び掛かられるんだ。」
「そして饅頭を奪われるわけか。」
自分に残された一つだけの饅頭を手に取り、リショウは自分の家であるかのように、腹を見せて寛
ぎきっているたまを見る。
「たまに飛び掛かられるなんて、今に始まった事じゃないだろう。叫ぶほどの事か。」
「お前ね。扉を開いたら横合いから突然白い腹が迫ってきてみろ。多少の予想はしていても驚くだろ。」
原庵がリツセに頼んでいたという久寿玉を取に来た時、たまに飛び掛かられるであろう事は予想し
ていた。いつ来るかいつ来るかと身構えつついたところに、リツセが人妻らしき人物を上げている事
に少しだけ意識が逸れた。だが、それだけでたまの飛び掛かり攻撃に対して防御が薄くなっていたわ
けではない。
いや、そもそもあの時の叫びは、たまの飛び掛かり攻撃に対してではなく。
「………さっきのあれは、なんだ。」
「塩屋の若内儀らしい。そろそろ旦那が店の後を継ぐのかもしれないって。」
「そうじゃねぇよ。」
リショウは、恐らく分かっていて答えをはぐらかしているリツセに顔を顰めた。
リショウは、あの人妻の事を言っているのではない。確かに良い所の人妻が、ほいほいと一人歩き
回っているところには面食らったが、別に人妻だからどうこうと言うほど、自分はおぼこいわけでは
ない。
「あの、赤ん坊は何だ。」
声が些かきつくなったのは、意図してではないが仕方がない。リショウの硬い声に、リツセがちら
りと視線を向けた。リツセはとうに、リショウの疑問など知っているのだ。今年十八になる自分に対
して、十七になるのだと言っていた少女は、しかし時に自分よりも遥かに達観した仕草をする。
達観したリツセの代わりに、むっとした顔をするのはチョウノだ。けれどもチョウノが何かを言う
前に、リツセが答えた。
「ヒルコ様に祟られた末路だろうね。」
酷く、不穏な言葉だった。
黒髪に指を絡ませながら、不穏な台詞を吐いた遠い遠い縁者に、リショウは顔を顰める。
ヒルコ大神の名は、瀬津の郷では否が応でも一日に一回は聞く。親神に捨てられた不遇の、しかし
それ故に偉大なる神。足腰立たぬ身でありながらも、海を渡り切り、瀬津の郷に富を齎した福の神。
暴れ者の弟の代わりに海を治め、岩戸の向こうに引き籠った妹の代わりに太陽を運んだ神。
ヒルコ大神は、人々の為に最も心を砕いた神である。少なくとも瀬津の郷ではそう言われているが。
その神が祟る。
それだけでもリショウには目を丸くする話なのだが、しかも祟りの末が、あの赤ん坊。どう反応す
れば良いかも分からず、饅頭を頬張るチョウノを見やれば、チョウノもまた饅頭を口に詰め込んだま
ま、動きを止めている。
「リショウには、あの赤ん坊はどう見えた?」
たまを膝の上に乗せて聞いてくる久寿玉師の視線は遠い。その視線を見つめながら、リショウは、
叫び声を上げずにはいられなかった赤ん坊の様相を告げる。
布団に寝かせられた、あの、赤ん坊。
いや、どう見ても赤ん坊には見えなかった。白い骨を見せた、頬と光のない眼窩。唇はなく、ただ
歯が剥き出しの身体に、やたら上等の着物を着せただけの物体。
「どう見ても、子供の骸骨に服着せただけだったぞ、あれ。」
「そう。私にも、そう見えた。」
頷くリツセは、ようやくこちらを見た。リツセの黒い眼には、信じられないほど真剣な色が灯って
いる。声は、瞳の色と同じくらい真剣だった。
「あの人は、マガツジに行き当たったんだ。」