「もちろん、そんな言葉きけませんわよね。わたくしは、男にはっきりそう言ってやりましたの。そ
うしたら、その男は唐突に身体を崩して、見る間にぬるりとした、巨大な白いヤモリのような姿にな
って、何処かに行ってしまいました。」
 白檀の香りがする着物の袖を揺らしながら、塩屋の若い内儀はころころと笑った。首元まで塗り上
げた白粉は、上品な色合いだが少しばかり顔につけすぎな気もする。
 リツセは、空になった湯呑にもう一度茶を注ぎながら、そんな事を考えた。
 季節は、ようよう日差しが緩み始め、ちらほらと梅の花が咲き始めた頃合いである。蛍烏賊漁も本
格的に始まり、これまではちらほらとしか見えなかった夜中の漁火は、格段に増える。菖蒲の季節ま
では、夜半の海は沖に出る漁師達の灯す明かりで、幻想的な雰囲気が広がる事だろう。
 そしてこの時期、縁起物である久寿玉作りの職人達も忙しくなる。年末年始は、やはり年賀に飾る
久寿玉が必要という事で、瀬津国中の久寿玉師は目も眩むような忙しさに見舞われる。
 それに年始の十日間は、瀬津国の偉大なる神ヒルコが祀られている宮で、大祭が行われるのだ。マ
グロを奉納したり、福男選びなどの神事が相次ぎ、ヒルコ大神の利益にあやかろうと全国から福を求
める人々がやって来る。それを狙って瀬津国の商売人も屋台を連ねて客を集める。非常に賑わう十日
間、もちろん商売人達はこの日の為にヒルコ大神に納める久寿玉を依頼するし、やってくる全国から
の客も久寿玉を欲しがることが多い。それに応えるために、久寿玉師も正月を返上して働かねばなら
ない。むろん師走の時期にかなりの量の久寿玉を作ってはいるのだが、それでも足りぬ、という事は
ままあるのだ。
 そして、十日間の大祭が終わった、と思えば次は節分がある。元が魔除けである久寿玉は、やはり
この時も必要とされる。節分が終わってほっと一息つけば、桜が咲き揃う頃には、やっぱりまた別の
祭りがある、といった次第である。
 なので、久寿玉師の一人であるリツセも、悠長に他人の長話に付き合えるほど、暇ではない。今日
も、あと三つほどの久寿玉の形を作り、明日にはヒルコ大神に捧げねばならないのだ。その勢いで仕
上げていかねば、桜の咲く頃にはとてもではないが間に合わない。
 なのだが、その手を敢えて止めて、化粧の濃い若内儀の話に付き合ったのは、彼女が着物に似合わ
ぬほどの真っ青な顔をしていたからだ。
 キシオ屋といえば、リツセには久寿玉を作るなどの付き合いはないが、名前は知っている。確かに
明穂一の塩屋だ。屋号の入った半天を来た男達が、大方、何処かの料亭に塩を納めに来たのだろう、
忙しなく瀬津の郷を歩いているのを見た事もある。明穂の塩は、中でもキシオ屋の塩は別格なのだ、
とリツセの久寿玉を気に入って懇意にしてくれている『恵比』という名の料亭のご隠居が、そんな事
を言っていた。料亭の名は、もちろんヒルコ大神の異名である『恵比寿』からとったとの事だ。
 そのご隠居は、こんな事も言っていた。
「キシオ屋さんも、そろそろ代替わりかもしれねぇな。」
 リツセの友人であるウオミや、目の前の若内儀と同じように、元は漁師相手の食堂を営んでおり、
そこから料理の腕一本で大通りの料亭の主人まで上り詰めた、正に叩き上げのご隠居は、昔から変わ
らない漁師さながらの口調で言った。
「俺は今の主人と懇意にしていたが、最近どうも今の主人らしからぬ仕事ぶりをしてるようなきがし
てならねぇ。使用人どもの節々に、新しいやり方が匂うのさ。別にそれが悪いってわけじゃねぇ。た
だ、ああそろそろキシオ屋さんも息子に店を譲るんじゃねぇかって思っただけよ。」
 節々に感じられる新しい匂いというのが、どういうものなのかリツセには分からなかったが、目の
前の若内儀を見て、なるほど若内儀にヒルコ大神を参らせるという事は、確かに代替わりが始まって
いるのかもしれない、と思う。
 恵比のご隠居が懇意にしているのなら、おそらく今のキシオ屋の主人は瀬津の郷の言い伝えにも通
じている事だろう。この時期に子連れ――跡継ぎを瀬津に連れて来させたという事は、子孫繁栄を意
味する事でもあるのだが、しかしそれ以上にヒルコ大神の宮を参るというのは、それは店の発展を願
う事の他に、店の骨格となる者の神々への顔見せの意味もある。
 キシオ屋の主人が、跡継ぎも生まれた事だし、そろそろ店を息子に譲ろうかと考えているのは、あ
ながち間違いではないかもしれない。
 リツセは、若内儀の派手な着物を見ながら、つらつらとそんな事を考えた。なるほど、キシオ屋の
身代というのは大層なものらしく、着物も確かに余所行き物もなのだろうが、一張羅なんてものでは
ないだろう。きっと、この他にも余所行きの着物は沢山あるに違いない。
 だが、一方で、リツセには派手に着飾る若内儀の姿を、一種の虚勢のようなものとして捉えていた。
 漁師町の料理屋の娘が、いきなり身代の大きな塩屋の嫁に貰われたのである。別に漁師町の人間が
どうとか言うわけではない。事実、先に話した『恵比』のご隠居は若内儀と同じ漁師町の料理人だ。
 ただ、異なる点はご隠居が自分の腕一本でのし上がったのに対し、若内儀は嫁に貰われた玉の輿に
過ぎないという事だろうか。むろん、玉の輿は玉の輿で苦労したのだろうが。その事を彼女自身分か
っているから、虚勢を張って精一杯若内儀を演じているのではないか。赤ん坊を抱いて真っ青な顔を
していた彼女のほうが、よっぽどか、彼女の芯に触れていたような、そんな気がリツセにはするのだ。
 にっこりと笑みを作る若内儀から眼を逸らし、リツセはちらりと奥の部屋を見る。リツセが普段寝
床として使用している部屋には、今は若内儀の息子が寝かせられているのだが。
 泣き声など全く聞こえない静かな空気に、若内儀は何を思ったのか、散々泣いて疲れたのでしょう
ね、とやはり笑った。
 若内儀の言葉に、リツセが少し眉を顰めて、何を言うべきか言葉を選んでいると、店のほうから扉
が開く音がした。
 リツセの家の表側は、久寿玉を売る店となっている六畳一間の店の壁にはぐるりと棚がこさえられ
ており、棚の上にはリツセが作った久寿玉が並べられている。
 リツセの客は、基本的には色だの形だの、細かい指定をしてくるような者がほとんどだ。そうした
者は大抵が瀬津の郷の住人か、そうでなければ何処かの大店が自分のところだけの縁起物を求めてや
ってくるかである。だから、リツセの店に並べてある久寿玉は、観光客が買っていく以外には、まず
売れる事はない。
 今日はあまりにも仕事が忙しいので店を閉めていた。だから、まさか観光客が店をこじ開けて入っ
てきたという事はあるまい。ではその他の懇意の客かとも思ったが、懇意の客はこの季節、リツセが
春の久寿玉作りで忙しい事を知っているから、不躾に仕事の邪魔をするような事はない。自分の家の
春の久寿玉を忘れていて慌てて頼みにきたという事も考えられなくはないが、けれども可能性として
は低い。
 ならば。
「なんだ、いるじゃねぇか。」
 無遠慮に店の中を通り過ぎて、居住空間にまで入ってきた声は、居間の扉を我が物顔で開いた。黒
いくるりくるりと癖の強い髪が、ふわりと揺れる。
 不躾を体現したかのような青年は、つい先頃、瀬津の郷にやってきてそのまま住み着いた大陸の人
間である。リショウという名の彼は、久寿玉に惹かれて従者と共に瀬津に来た。だが、どうにもお調
子者のきらいのあるリショウは、実はなかなか職につこうとはしなかった。
 瀬津の郷では、異民であろうと丁重にもてなされる。それは、瀬津の神であるヒルコ大神もまた、
海を渡りやってきた神だからである。故に、瀬津の国で暮らす事を選んだ異民は、寝床から職の斡旋
まで、幅広い加護を得る事が出来るし、職がなかなか見つからなくとも、一年間は無償で保護を得る
事が出来る。
 それは異民にとっては限りなく有り難い事だろうが、一方で異民がぐうたらであれば、職も探さず
にぶらぶらしているという状況も生み出すのだ。尤もそれは一年しか続ける事は出来ないが、しかし
それでも真面目に働く瀬津の郷の者や異民にしてみれば面白くない。
 そんな面白くない事を仕出かしかけていたリショウは、けれども生真面目な従者によって幸いにし
て白い眼で見られる生活をする事だけは避けられたのである。
 リショウの忠実なる従者であり、しかしそれ以上にお目付け役としての色の濃いグエンという男は、
己が主人がぐうたらする事など、微塵も許さなかった。放っておけばリツセの家に入り浸ろうとする
――女一人しかいない家に入り浸るのもどうかと思う――リショウの首根っこを引っ掴んで、とにか
く何かの職につけさせようとしたのである。お調子者のっ若者も、グエンの逆鱗に触れるのは恐ろし
いのか、しおらしく職安所に向かっていた。
 そんなわけで、リショウは現在、原庵という医者のところで帳面をつけたり薬の材料を集めたりと、
忙しく働いている。はずであった。
 ずかずかと、まるで自分がこの家の主人でござい、と言わんばかりに上がり込んできた男は、間違
ってもこの家の主人ではない。だが、生憎とリツセとは少なからず因縁がある。
 しかし、いくら因縁があるからと言って、勝手に家に入り込んでくるのはどういう事か。しかもリ
ツセは客をもてなしている最中である。
「あ、客人か。」
 敷居を跨いで、ようやく若内儀に気が付いたようである。遅い。
 リツセの迎えている客人が若い女である事に、流石のリショウも怯んだようだった。しかも、見た
目だけならば若内儀はそれなりの身分に見える。身分が高いところの女の前に、男が姿を見せるのは、
リショウの郷里では、あまり好ましくないのだ。そのわりには、リツセしかいない店に入り込んで、
入り浸っているが。
 忙しく原庵のもとで働いているはずのリショウが、ひょっこりと現れた事について、リツセは思い
当たるふしがあった。別に暇なんだろうとか、そんな悪意に満ちたことは思っていない。
「久寿玉を取に来たのか?」
 リツセは原庵から春祭りの久寿玉を依頼されていた。医者である原庵にしてみれば、春祭りの久寿
玉は非常に大切な縁起物だ。春祭りは、赤ん坊や妊婦に関する祭りだからだ。春祭りの久寿玉を依頼
してくる人々は、往々にして妊婦であったり、或いは跡継ぎを欲しがっている家であったりする。後
は、原庵のように、妊婦や赤ん坊に関わる仕事をしている医者や産婆だ。
 原庵に渡す久寿玉は出来上がっている。白と桃の和紙を織り込んで作り上げた久寿玉だ。そこに、
五色の糸を垂らしている。
 出来上がった久寿玉は、若内儀の赤ん坊を寝かせている部屋に置いてあった。普通なら、客人がい
るのだから、後で持っていくと言ってリショウを追い払えば良いのだろうが、リツセはそれをしなか
った。持ってくのが面倒だったとかそういうのではない。ただ、なんとなくリショウに瀬津の郷の一
端を、少し見せてやっても良いかと思ったのだ。
 だから、若内儀に対する無礼は重々承知の上で、リツセはリショウに奥の間にあるから持っていけ、
と言って、奥の部屋を指差した。リショウはなんだか申し訳なさそうな顔で若内儀を見つつ、リツセ
の後ろを通って奥の部屋に向かった。忍び足であるところが、なんとも言えない情けなさを醸し出し
ている。
 あれは親戚のようなものなので、と若内儀に説明している間に、リショウは奥の間に踏み入れてい
る。
 そして、
「ぎゃっ?!」
 リショウが悲鳴を上げた。
 予想はしていたが、リツセは腰を上げてリショウを追って奥の間に向かう。が、途中でリショウが
引き返してきた。その顔を見て、リツセはそれは予想外だった、と思った。リショウの顔には、のっ
ぺりと白い水守がへばり付いていたのだ。リツセの家に住み着いている水守のたまは、引き剥がそう
とするリショウの手に逆らって、まるで吸盤でも腹についているのかと思うほど、ぺったりと張り付
いている。
 なんとも、間抜けな光景であった。
 だが、次の瞬間、耳を劈くような甲高い悲鳴が上がった。若内儀である。
 リショウの顔に張り付くたまを見て、ガタガタと震えている。
「あ、あの化け物!」
「化け物じゃありません。あれは水守といって、瀬津では見慣れた生き物です。」
「なんですって、此処は、あんな化け物たくさんいる郷だというの。」
 若内儀の声には、嫌悪と恐怖が入り混じっている。確かに水守は一見すると巨大なイモリであるか
ら、そちら方面が苦手な者にとっては身震いする生き物かもしれない。だが、恐怖を覚えるような存
在ではない。少なくとも、熊のように道で出くわして、命の危険を感じるなんてものではない。
 けれど、若内儀は既に立ち上がり、よろめきながら後ろ手で扉を探すような仕草をしながら後退り
している。
「帰るんですか?でも、息子さんをお忘れですよ。」
 リツセは飄々と奥の間に入り、布団に寝かされていた赤ん坊を抱え上げると、帰ると言うよりも逃
げると言ったほうが正しい若内儀の姿に、泣き声一つ立てない赤ん坊を差し出した。
 そこで若内儀は少し我に返ったのか、だが、奪い去るように赤ん坊をひっ掴むと、脇目もふらず店
の中に駆け下りた。そしてリショウが開けっ放しにしていた店の表戸から、土を蹴り上げながら走り
去っていった。
 同時に、ようやくたまを顔から外す事に成功したリショウが、呆気に取られたような表情で、走り
去る若内儀の後姿を見つめ、なんだあれ、と呟いた。
「瀬津の郷から弾かれた人間の末路だよ。」
 言って、リツセは小さく溜め息を吐いた。