リショウは、肩越しにちらとリツセを振り返ると、昼間の人好きするような笑みを消し、固い声を
出した。
「無事か、リツセ。」
 そして、槍を構えている男を見て、
「此処にいたのか、グエン。」
 グエンと呼ばれた男は、少し眉を顰めた。何か言いたそうに眉間に皺を寄せている。だが、何も言
わない。だから代わりに、リツセが口を開いた。
「リショウ………どうして。」
 呟くと、固かった声に、微かな苦笑が混ざった。
「探し回ったんだぜ、結構。ウオミの宿からあんたの店、そこから職人街を突っ切って、人気のなさ
そうな場所を虱潰しだ。」
「どうして。」
 もう一度、問うた。
 すると、再び笑みが消える。
「こいつらを客にした男が、死んでるのが見つかった。喉元を食い千切られて。おまけに同じように
千切れた別の腕が落っこちてると きたもんだ。だったら、昼間こいつらを追い払ったあんたが危な
いって思うのは、普通じゃねぇ?」
 この男達が、リツセの元に再びやって来ると思った。リショウの言葉に、リツセはならば、と思う。
「知っていたのか?彼らが、貴方の探している物を持っている事に。」
「ああ、ついさっきな。食い千切られて死んでたっていうのを聞いてな。昼間目の前にいたってのに、
みすみす見逃すなんて、俺もどうかしてる。」
「どうして。」
 三度目の問いかけだった。何に対する問いなのか、リショウには分からなかったのだろうか。掲げ
た戟をそのままに、少し眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。
 代わりに、何か言いたそうなまま口を閉ざしていた男――グエンというのか――が答えた。
「その男が、私の主君だからだ。」
 だから、九頭玉を探していた。リショウとグエンの目的は、故に同じなのだ。
「だが、今まで何処にいた?」
 グエンの声に微かに剣呑な色が混ざる。詰問口調の声に、リショウは少し肩を竦め、
「今はそんな説明している場合じゃねぇだろう。」
 と言って、手の中にある戟を回転させた。
 足元にある赤い蛇は鱗の光を暗いものにして動かないが、藪を踏み締める男達は未だに白刃を掲げ
たままだ。特に、今や片輪となった男は――左腕は、もうないのだ――血の気のない顔に噛みつかん
ばかりの形相を張り付けて、こちらを睨み付けている。
「さっさと片付けちまおうぜ。お喋りはその後だな。」
 リショウの言葉にグエンも頷き、再び槍を構える。
 だが、頷けないのはリツセだ。相手に殺意がある事は明白なので、それに対抗するというのは分か
るのだが、しかしその前に、リショウとグエンと、男達との戦いの技量には差がありすぎる。にも拘
わらず、これ以上の事をする必要があるのか。大体、まだ蛇が鎮まっているわけでもないのに、此処
で争いをしてどうする。争いは、鎮めとはまるで正反対の行事だ。
 その時、リツセが二人を制止するよりも早く、リツセの膝の上から白い塊が歩き始めた。
 たまである。
 子供ほどの大きさの水守は、ぽてぽてと白刃が構えられている前を平然と通り過ぎ、リショウの足
元に転がる赤い蛇の首に近寄った。
 突然、視界に入り込んだ白いトカゲのような物体に、リショウがなんじゃこりゃ、と小さく叫ぶ。
他の大陸の人間も、叫びはこそしなかったが、確かに今までいるにはいたが此処でいきなり存在感を
示してきた水守の姿を改めて見て、凝然としている。大陸にはこんな生物はいないのかもしれない。
 人間達の視線など興味もないのか、たまは蛇の首に鼻を近づけ、ふんふんと匂いを嗅ぎ始める。蛇
はぴくりとも動かない。ただ、赤い鱗を暗く反射させている。その鱗を、たまは、ぺろりと舐めた。
その行動に、リショウが、おい、と焦ったような声を上げるが、むろん水守にはどうでも良い事であ
る。たまは、蛇のちょうど金色の眼の下を、何度も何度も舐める。
 おぞましい九頭大蛇の首の一つを、何度も舐める白いトカゲのような生物に、大陸の人間は絶句し
ている。先程まで纏っていた殺気も忘れてしまったようだ。
 その間にリツセは崩れた九頭玉を持って立ち上がり、たまを見て立ち尽くしているリショウとグエ
ンの間をすり抜けて、祇国から九頭玉を奪い、そして葦原国に持ち込んだ男達の目の前に立った。
 そこで、ようやく我に返ったリショウが、たまから眼を離し、リツセを止めようと手を伸ばす。白
刃は未だに納まっていない。その前に若い女が一人で立つのだから、焦りもしよう。
 だが、リツセはようよう九頭玉についての諸々に合点がいったので、もはや彼らも蛇も恐れる必要
がなかった。
「二人とも、刃を納めるように。縁起物の前で刃を抜くのは、祭りで剣舞を披露する時だけだ。それ
に。」
 片輪の男を見て、その唯一残る手を見て、小さく溜め息を吐く。
「この人達ではどうしたって、貴方達には敵わない。だって、剣を持つような人ではないから。」
 日に焼けてはいるが、けれどもその手には豆の一つもない。刺青はただ土地の慣習に倣っただけで
あって、彼らは漁師でもないだろう。そもそも領主の元にある九頭玉も持ち出せる者が、漁師などで
あるはずがない。役人か、少なくとも城に仕える人間だ。そして手に豆がないのなら、武官ではない。
文官だ。剣は嗜むかもしれないが、本業ではない。
 指摘され、男達が微かに狼狽えたように視線を彷徨わせる。図星だったのか。片腕の男も、物言い
たげに唇を動かしている。
 そんな彼らにリツセが訊きたい事は一つだけだ。
「何故、九頭玉は壊れた?」
 葦原国に来たのは、壊れた九頭玉を直す為だろう。しかし、何故壊れたのか。
「蛇が食い破ったんじゃないか?」
 思いつきのように言ったのはリショウだ。リツセは首を横に振る。
「これは、食い破られるような封印じゃないから。蛇がこれを壊すという事は、有り得ない。」
「そんなに強い封印なのか。それは。」
「封印なんかしてない。九頭玉は、本当にただの久寿玉だ。何の力もない。」
「へ?」
 蛇を封じている玉ではないと言われ、リショウだけではなく、九頭玉に蛇が封じられていると信じ
ていた大陸人は全員が、怪訝な顔をする。
 リツセは、ばらばらに解けた九頭玉を赤の袱紗で包み込んで片手で持ち直すと、屈み込んで力なく
地面に転がった赤い蛇の首を見る。たまの赤い舌で舐められているその首に手を伸ばした。蛇は暗い
光を鱗に反射させるだけで、何の反応もない。
 たまを脇に退けて、リツセは子供の頭ほどの大きさの蛇の首を抱え上げ、その眼と目線を合わせる。
ぎらついていた金の眼は、今はただ暗い光を弾く以外、反応はない。
 いや――。
 リツセは、蛇と眼を合わせて、微かに眉根を寄せた。意に反する事が起きたのではない。ただひた
すらに憐れみを覚えたから、困ったように眉を寄せたのだ。
 蛇の金色の眼からは、とめどなく透明な液体が流れ出ていた。
「この久寿玉は、一つ切り離された首を慰める為に作られただけであって、封印するような力はない。
まあ、慰めて結果的に鎮めているのだから、確かに封印していると言えなくもないけれど、特別な力
は何も働いてないよ。」
 ただ、久寿玉に、他の首を描いただけで。彼以外の、今も葦原国で眠っている他の首を描いただけ
で。
 だから、描かれた蛇の首は八つ。離れ離れになった、残りの首を描く事で、一人ぼっちになってし
まった首を、孤独ではないのだと慰めた。
「だから、蛇が自分の仲間である他の首を描いた久寿玉を壊す事はない。これを壊したのは、人間だ
ね。」
「………そうだ。」 
 何かを堪えるように、唾を飲み込み飲み込み、片輪の男が頷いた。額からは脂汗が絶え間なく浮き
出ている。痛みが酷いのだろう。それでも崩れ落ちる事なく、声を出す。
「九頭玉を壊したのは我らが領主だ。祇国より奪い取ったは良いが、如何なる富も与えぬと言って、
地面に投げつけた。」
 金銀財宝を湧かせるわけではない九頭玉は、領主にとってはただの紙屑でしかなかったのだ。九頭
 大蛇の力を封じているなど、所詮は迷信だと言って。
 リショウは鼻先で笑う。
「そのくせ、あんたらに九頭玉の修理を命じたわけか。祟りでも降りかかったか?」
「祟りなどはない。我等は、ただ自分の意志で此処にいる。」
 壊れた九頭玉を持って、領主に黙って城から出奔した。九頭玉を直す為に、海を渡った。結果、腕
をなくす羽目になった。しかしそれでも、明らかに敵わぬ相手に剣を振るってでも、蛇と久寿玉を取
り戻そうとした。
 富が与えられるわけでもない、祟りがあるわけでもないのに、何故。
「金銀財宝は確かに湧き出て来ない。だが九頭玉を手に入れてから、確かに水害による被害は減った
のだ。」
 巨大な河口は、年に数回氾濫を起こす。前触れもなく、唐突に起こるのだ。領主は氾濫を防ぐため
の堰を、費用が嵩むという理由で作ろうともしない。河が一度氾濫を起こせば、漁に行けぬだけでは
なく、田畑は水に沈む。逃げ惑う人々を、容赦なく水が飲み込んで海へと引き摺りこむ。
「氾濫の回数が減ったわけでも、規模が小さくなったわけでもない。ただ、河が氾濫する前に、必ず
大量の蛇が河を遡るようになった。」
 一番初めの時は、大量の蛇に皆、気味悪がるだけだった。だが、二度目の時は、何か関連があるの
ではないかと思い始めた。三度目は、民は皆、高台に逃げおおせた。それからはずっと、蛇が河を遡
るたびに民は高台に逃げるようにしている。
「おかげで、ここ数年間は、氾濫による犠牲者は出ていない。民は喜び、九頭玉を拝むようになった。」
けれども領主はそれを富であるとは思わなかった。吐き捨てるように男は言った。
「領主はあてにならない。だから、民は氾濫の前触れを告げる九頭玉をいっそう大切にする。我等役
人も、九頭玉さえあれば、民の命だけはなんとか守れるから、頼るようになっていた。」
「もしかして、九頭玉の世話をしてきたのは、貴方では?」
「世話というほどの事はしていない。」
 リツセの問いかけに、脂汗をびっしりとかいて、白刃を握り締めたままだった男が、微かに苦笑め
いたようだった。
「ただ、溜まった埃を払ったり、そういう事をしていただけだ。」
「けれども、それは確かに蛇の琴線を捉えた。でなければ、この国に来る時に、船ごと沈められてい
たはず。」
「だが、結局は腕を食い千切られた。」
「それは、貴方が、九頭玉を解いてしまったから。」
 荒ぶる神の怒りは、激しい。まして蛇は水の神。海や川の近くなら、一瞬で飲み込まれていた事だ
ろう。九頭玉を壊された怒りを堪えていたのは、ただ信頼できる人間が傍にいたからだ。しかしそれ
も、オナデの手によって九頭玉が完全に解かれてしまった事で崩れてしまった。
 領主に叩きつけられた時は、それでもまだ繋がっていた兄弟達が完全に離れてしまい、怒りを買っ
たのだ。だからオナデは首を食い千切られ、男は片腕を失った。そして蛇の首は、今、滔々と涙を流
し続けている。
 リツセは両手で抱え上げていた蛇の首を、くるりと男のほうへと向けた。
 ほろほろと透明な液体を零し続ける金の眼とぶつかって、男の眼が大きく見開かれる。流れる涙は
リツセの手を伝い、服の袖を濡らすほどだった。
「はっきり言っておく。荒ぶる神を鎮める為の久寿玉は、簡単に作れない。貴方がその辺で買った久
寿玉に蛇の首を入れておいても、怒りは、悲しみは深まるだけだ。」
 これは、単純に、荒ぶる神を鎮めるだけの話ではない。
 決して意図したわけではないが、結果的に男は神の信頼を失ってしまった。失われた信頼を取り戻
す事が如何に難しいか、それは人間ならば誰でも知っているだろう。そして裏切られた時の傷がどれ
ほど深いかも、知っているだろう。蛇が眼から流す液体の意味が、分からぬはずがない。
 どうしても信頼を取り戻したいと言うのなら、神との繋がりが必要だと、失われたままは嫌だと言
うのなら。蛇の涙を止めたいと言うのなら。
「神と人との間を繋ぐ縁起物の作り手として、この仕事を引き受けるが。」
 ようよう昇ってきた朝日が、竹藪の中にまで辿り着いた。薄く白い帯のような日差しを受けて、蛇
の涙が小さく光った。