リツセが投げ出されるようにして地面に降ろされたのは、職人街から少し離れた場所に植わってい
る竹林だった。
 この表に、寺と墓があり、夜は不気味だという事で誰も近づかない。
 肩にへばり付いていたたまが、きぃ、と鳴いたのを切欠に、突然の事で声も出なかったリツセは、
ようやく自分の状況を見回す事が出来た。と言っても見回したところであるのは、地面から突き出た
竹の緑と、目の前に立ち尽くす背の高い影である。
 見た瞬間に、大陸の人間だ、と思った。大陸の人間は背が高い。だが、リツセがこれまで見た中で
も、目の前にいる男はぐっと上背があった。切れ長の鋭い眼光に、厳めしい顔立ち。手にしている長
物は、先端の鋭く尖った槍だった。
 夜明け前の深い闇がまだ残る竹林の中で、男はリツセを今一度睨み付けると、その視線を周囲に滑
らす。肩から予断を許さぬ気配が立ち昇っている。
 声をかけるのも躊躇われる男の様子に、リツセは途方に暮れて、膝の上で丸まったたまと、一緒に
持ってきてしまった崩れた久寿玉を見下ろす。赤の袱紗に包んでいたおかげで、一片たりとも失われ
はしなかったようだ。
 その事実に安堵しているリツセの耳に、抑揚を欠いた男の声が飛び込んできた。
「……お前は、その久寿玉が何なのか、知っているのか。」
 顔を上げれば、リツセを見ないまま周囲を警戒している男が、遠い国の誰かと話しているように問
うてきた。
 男の問いに、リツセは首を横に振る。リツセが推定で口に出来るのは、これは蛇の頭の一つを封じ
 た久寿玉だろうという事だけだ。リツセがそう言うと、男は頷いた。
「その通りだ。それは九頭大蛇の頭の一つを封じた久寿玉であり、我が主君の祖先が祇国に持ち込ん
だものだ。だが、それを何故お前が知っている?」
 知ってはいない。リツセはリショウから聞いただけだ。けれども、問いかける男のほうにも、厳め
しい中になにやら戸惑いめいたものが含まれている。
 リツセが九頭大蛇の事を知っている事実に対する警戒と、戸惑いと、そして微かに感じたのは期待
だろうか。だが、一体何を期待するというのだろうか。
「その久寿玉が壊れた事で、封じられている蛇の首が害なすものとなると、知らなかったのか?」
 知るわけがない。そもそも、本当に蛇の首が封じられているだなんて、誰も思わないだろう。
「まさか、オナデが死んだのも、その所為だと?」
 蛇が封じられている久寿玉に手を出したから、殺されたのだと。オナデは首を何かに食い千切られ
ているようだと聞いている。まさか、封じられていた蛇が、オナデを食い殺したのだと。
「私は、」
 男が槍を構えたまま、九頭玉を探していたのだ、と言った。
「九頭大蛇の頭を封じた久寿玉。葦原国よりやって来た主の祖が祇国に下し、それが濁って、祇国で
は九頭玉と呼ばれていた。」
 九頭玉はその後、祇国から奪われた。戦乱の最中に戦利品として奪われたのだという。しかし元来
呪物であるそれは、きちんと祀っておかねばならぬもの。だから、探し出して、正しく祀ろうという
事になり、九頭玉の本来の持ち主である祇国の豪族の末裔が、九頭玉を探し始めた。
「私の主君は、その豪族の末裔でもある。我々はある領主が九頭玉を奪ったという話を聞いた。」
 だが、既にその地からも九頭玉は持ち去られ、持ち去った男達は葦原国へ向かった。
「巨大な河口で漁をして暮らす者達だ。人々は身体に刺青をしているが、珍しい事ではない。だから、
足取りを得るのは困難だったが、それでもどうにかして男達の行方を突き止め、ここまで来た。途中、
船の空きがなくて主君や他の仲間とははぐれてしまったが。」
 オナデの客となった男達は、昼間にリツセのところで騒ぎを起こしている。身体に刺青があると聞
き、もしかしたらと思った。刺青のある人間は珍しくはないとはいえ、怪しければ調べてみるのが性
分だった。男達の事を調べようと、オナデの家の周辺を探っていたら、オナデの家の中から泡を喰っ
たように逃げ出す男達を見かけた。
 何がと思い、最悪の状況を予想して男達が逃げた後のオナデの家に入ってみれば、案の定、オナデ
の死体と、腕が転がっていた。腕はきっと、逃げ出した男達の中の誰かのものだろう。
 そして、闇にぎらつく一対の眼が。
「首だけの蛇だった。」
 跳ねて飛び掛かる蛇は、咄嗟に飛び退った男が先程までいた場所を噛み、町中に出てしまった。
「九頭玉の封印は解けていた。放っておくわけにはいかない。私は、首を追いかけた。そして衛兵が
お前の家に九頭玉を持ち込むのを見て、もしかしたら九頭玉に惹かれて戻ってくるかもしれないと思
い、お前の家の近くに潜んだ。」
 行く宛のない蛇は、果たしてやってきた。リツセが見た、跳ねるような影は蛇の首だったのだ。封
 じられていた蛇の頭は、寄る辺を探している。あまりに荒ぶる魂であるが故に、人に仇なしながら。
そしてそれを探しているのは、目の前の男だけではない。リショウもだ。人好きのする笑みを浮かべ
た青年を思い出す。
 リショウは、自分が探しているものが、荒ぶる神を本当に封じこめているものだと、分かっている
だろうか。九頭大蛇の頭の一つを封じたと彼自身も言っていたが、本当にそうだと、荒れ狂う力があ
ると知っているのか。
 不意に、ゆっくりとした動きで、槍を構えたままの男が首を捻って視線を巡らせる。
 未だ九頭玉はリツセの膝の上にあり、蛇は此処にやって来るかも知れない。いや、やって来るのは
蛇だけではなく。
 濃厚な血の匂いが、朝靄のひやりとした空気の中に一筋流れ込んでくる。竹藪を掻き分ける喧噪を
伴った血臭は、蛇の首ではなく、人間の気配をしていた。
 取り囲むような足取りの音に、槍の穂先がすらりと煌めいた。水のような動きで男が足音のする方
向に槍を突き刺そうとしたのだ。
「待って。」
 咄嗟に止めた理由を説明せよと言われたら、リツセには上手い具合に説明できる自信はなかった。
ただ、何の躊躇いもなく足音を突き刺す事は、普通に考えればしてはならぬ事であった。自分達の今
の状況が、命を狙われた状況であって、先手必勝をすべきであるのかもしれぬが、それを踏み止まら
せる何かがリツセの頭の中で訴えていた。
 リツセの制止は、その一言だけであった。男にしてみれば、それこそ踏み躙って無視してしまえば
良いものだ。けれども、男はそうせず、走らせた槍をぴたりと空で止めた。何故、と言う疑問を孕ん
だ視線で振り返った男に、むしろリツセのほうが何故止まったのかと奇妙な気分になった。
 だが、二人の間に流れた不可思議な疑問はそう長くは続かなかった。竹藪を踏み締めた足音の主達
は案の定二人を取り囲み、そして畳みかけるようにその姿を現した。身体に刺青を入れた大陸の男達
が竹藪の中から飛び出してきた時、一筋漂うだけだった血の匂いが、一気にその場に立ち込める。
 昨日リツセの店で刃物を抜いた、大陸の男達だった。男達から濃厚な血の匂いがする。 まさか誰
かを手に掛けたのか、と思うのだが、その割には男達の姿は小奇麗だ。ふと、男達の中の一人が、仲
間に肩を貸してもらっている事に気づく。左腕をきつく布で巻いた男は、よくよく見れば昼間、真っ
先にリツセに刃物を向けた男だった。竹の影による暗い視界の中でも、その顔色が酷く悪い事が分か
る。
「九頭玉が。この久寿玉師の家に渡ったのを知り、我等を追いかけてきたか。」
 ぐい、と槍持つ男がリツセの脇まで身体を引いて、半身を前に出して槍を構えて、取り囲む刺青達
に言った。残りの半身の影にリツセの身体が入り込む。ちょうど、リツセを庇うようなかっこうだ。
「それとも、蛇の首に追いかけられたか?祇国から奪った事で、蛇の怒りを買ったか。それとも蛇の
塒である九頭玉に無暗に手を出して、腕を食い千切られたか。」
 オナデの死体の近くには、腕が一つ転がっていた。それの持ち主が、刺青の男のものなのか。九頭
玉に手を出した事による報いを受けたのか。
 だが、男達はその言葉にはぴくりとも反応しなかった。片腕となった男も。代わりに、歯を食いし
ばるようにして叫ぶ。
「もう時間がない。それと同じ物を、今すぐにでも作れ!」
 リツセを睨むように見つめる片輪となった男は、今や再び剣を抜いている。刃物で脅してでも、己
が要求を通すつもりのようだ。
 だが、リツセと片輪の男の血の色をした声の間には、鋭い槍が一つ立ち塞がっている。
「作り直して、それで怒りを鎮めるとでも言うつもりか?」
 問い詰める声は冷ややかだ。九頭玉の本来の持ち主を君主とする男にとっては、九頭玉を奪い去っ
た男の言い様など吐き捨てるべき言葉なのかもしれない。リツセを庇いながら、切り伏せる瞬間を見
定めているようだ。
 しかしリツセは、血を吐くような叫びを切って落とすには少し躊躇いがあった。それは先程、男を
制止した時と同種の躊躇いだった。膝の上にあった崩れた九頭玉を敷いていた赤の袱紗ごと持ち上げ、
影から片輪の男を見上げる。
「同じ物を作れ、と言うが、これを新たに組み直すのでは駄目なのか?」
 組まれていた紙が解けただけのように見えるが、それを汲み直すだけでは駄目なのか。新たな物で
なくては駄目だという理由は。
「オナデは組み直そうとはしなかった?」
「そのつもりだった!だが、その前に死んだ!あれほど注意しておけと言ったのに、不用意に手を出
して首を食い千切られた!」
 左腕を押え込み、蒼白となりながらも顔全体を口のようにして叫ぶ男の声は、真っ赤だった。
「貴方の左腕も?」
 血の匂いを垂らし続ける左腕を、リツセは見た。
 手順を間違えて触れてしまえば、人に害をなす。組み直しても元には戻せない。気難しい、荒魂だ。
故に、同じ物を作るしかないと彼らは言うのだ。
「俺の腕の事など、どうだって良い!とにかく、同じ物を作れ!」
「そう言われても、此処には道具も何もない。それにそんな事よりも、貴方の怪我の治療のほうが先
では。」
「どうでも良いと言っているだろう!」
 何をそんなに。
 問いかけは、言葉にする前に白刃を突きつけられて霧散する。片輪の男がリツセの鼻先に突き付け
ようとした刃は、槍の穂先で一瞬にして弾き返された。
「奪った挙句、封印を解き、しかも己らで始末もつけられんか。」
 低い、厳めしい声で槍が翻り、今度と言う今度こそ、臨戦態勢に入った。刺青の男達よりも、もっ
と上背のある男は、切れ長の鋭い眼で、藪に散る人影を睨み付け、白刃と対峙する。
「血を流すつもりはなかったが、我が主の祖に仇なし、更に今再び刃を向けると言うのならば話は別
だ。」
 くるりと弧を描く槍は、まるで生き物のよう。リツセを庇う為に半身下がっていた身体が、ぐっと
前に出る。
「一つ聞く。お前達は主の祖の墓を暴いて九頭玉を持ち出した。それはただの小金稼ぎが目的か?そ
れとも、それが何であるのか、知っていたのか?」
 ある豪族が、守り続けていた久寿玉。荒ぶる大蛇の首を押え込んだ、圧倒的な大蛇の怒りを孕む、
紛れもない呪具。
 それを持ち出したのは、何の為か。いや、何の為であっても、その先には破滅しかない。呪いとは、
そういうものだ。祇国の豪族も、それを知っていたのだろう。だから、豪族の末裔たる者は、それを
取り返そうとするのか。呪いが世に暴かれぬよう。しかし槍を振るう男を見る限り、彼らもまた呪い
の鎮め方を知っているようには見えなかった。鎮め方も分からぬのに、取り返そうとするのは、やは
り酷く危険な事だった。
 その思いは、リツセだけではなく、男達の中にもあった事だろう。
 しかしそれを口にする暇もないほどに、決着は着きかけていた。力の差は歴然としていたのだ。周
囲の男達は、翻しざまの槍の柄で振り払われていたし、右腕だけで戦う男は既に槍を受け止めるだけ
の力もない。
 いや、最初から刺青の男達は刀を振り翳しても、目の前の槍を止めるほどの武術がないのだ。
「待って!」
 リツセは、もう一度、今度ははっきりと鋭さを持って止めた。
 男達の刺青に眼を奪われていて、なんとなく荒事にも長けているのだろうと思ってしまったが、違
う。彼らでは、槍持つ男に敵うわけがない。
 リツセは、この刺青の男達の事も豪族の末裔の事も知らないが、少なくとも刺青の男達は戦い方を
知らず、一方で豪族の末裔を主とする男は戦い方を知っている事は分かる。
 彼が男達を殺してしまう事だけは、止めなくては。理由は、半ば自分の所為で人殺しにしたくない
事と、既に一人死んでいる事と、後は、久寿玉は縁起物であるから決して血で穢してはいけない事と。
 血で穢された久寿玉が、一体どうなってしまうのか。いや、そうではない。久寿玉の中に封じられ
ていた蛇が、塒を失い彷徨う蛇が、血の匂いを嗅いでしまったら、どうなるか。
 既に、血は流れてしまっている。
 これ以上は。
 リツセの声に、一瞬だが再び男が躊躇い、動きが鈍る。
 だが、その時には遅かったのか、血の匂いは充満してしまっていたのか。いつの間にそこにいたの
だろうか。鈍く光る金色の眼が、笹の間で煌めいていた。
 ぞっとするような滑らかさで、竹藪の地面に落ちた色の褪せた笹の間を何かが掻い潜っていく。町
中で見た、跳ねるような動きではない。在るはずのない胴体を取り戻したかのように、文字通り蛇行
しながら蛇の首が這う。生前の時の滑らかな赤い鱗のままに、金の眼を爛々と光らせていた。
 子供の頭ほどの大きさもあるそれは、信じられない素早さでうねり、白刃が舞う下を這い、首だけ
で跳ね上がった。
 大人の背丈ほどの高さを一気に飛び上がった、蛇の首は、赤い舌と白い牙が捲れ上がるほどに口を
割いて、絹を裂くよりも長く細く鋭い声を上げた。
 狙うは男の首元。
 振り返りざまに槍を動かした男のほうが早いか、それとも空を駆け上がった蛇の牙のほうが早いか。
 生々しいほどに白い牙が毒を孕んだ液を撒き散らす。垂れ流される毒液が、今にも男に降りかかり
そうになったその時。
 竹林を薙ぎ倒すような音が突風のように突き抜けて、はっとした時にはリツセの目の前を逞しい茶
色の毛並みが覆い隠していた。
 そして鈍い打撃音。馬の隆々とした身体はそのまま通り過ぎ、再び視界が開けた時には、リツセを
庇うように戟を構えた若者の背中があった。
 その足元には、叩き落された赤い鱗の蛇が。