次の日、リショウは随分と早くに眼を覚ました。
 枕が変わったからといって、眠れるものが眠れなくなるような性質ではないし、そもそも長旅をし
てきた身体だ。枕なんぞなくても眠れる。
 にも拘わらず夜明けのすぐ後に眼を覚ましたという事は、実は瀬津国にやってきた事で少々気持ち
が昂ぶっているのかもしれない。
 ぱかりと眼が覚めた後、さりとて再び布団に潜り込んでも睡魔は訪れず、リショウはそのまま起き
上がって身支度を整える事にした。治まりの悪い髪を御座なりに撫でつけ、歪んでいた櫛を差し直す。
 もしも此処に、本来なら昨日のうちに落ち合う約束だった待ち人の一人がいたなら、リショウの身
形がぞんざいに整えられている事に顔を顰めただろうが、いない以上は口出しは出来まい。鬼の居ぬ
間に、というわけでもないのだが、リショウは普段よりも遥かにだらしのない恰好で、肩に戟を担い
で、ふらふらと階段を降りた。
 外からは既に人の声が行き交っている。おそらく、漁師達はもう目を覚まして働いているのだろう。
ならば、職人街の人々も起きているかもしれない。
 リツセにもう一度会いに行こうと考えていたリショウは、朝食もそこそこに宿から出かけようと考
えていたのだった。
 けれども、階段を降りて食堂に入った時点で、どうも様子がおかしい事に気づく。
 外から聞こえてくる声は、仕事をして掛け合う漁師のものにしては、妙に切羽詰まっていたし、ウ
オミも食堂の事など放りっぱなしで民宿の引き戸をめいっぱいに開け放って、こちらには背中しか見
せない。
 ウオミの肩越しに、宿の前の往来を見れば、どうやら漁師達も立ち止まって何やら硬い表情をして
いた。
 総立ちになっている彼らを見て、リショウは嫌な予感がした。
「どうしたんだ?」
 なるべく、声を抑えて穏やかに問うたつもりだったが、ウオミは何かに弾かれたような勢いで振り
返った。そこにあった表情は、ぎょっとした驚愕と、それとやはり酷く硬い。
「人殺しだ。オナデが殺された。」
 リツセに絡んでいた男達を客に迎えた、昨日の異人の男の名だ。
 なに、と顔を顰めれば、ウオミは額に荒く巻いた手ぬぐいの下にある表情と、同じくらい硬い声で
言った。
「オナデが住んでる長屋の差配が、家賃の取り立てに行った時に見つけた。」
 昼間は仕事があるから来るなと言われ、夜はへべれけに酔っているオナデに、まともに話が出来る
のは、明け方くらいのものだ。寝ていたとしても、その時は叩き起こしてでも話をする。そうでもし
なければ、オナデは家賃を払おうともしないのだ。
「誰が。」
 知るもんか、とウオミは吐き捨てるように言った。
 その声の裏に、どうせ異人の仕業だろう、という言葉が聞こえたような気がした。
「だから刃物を抜くような連中を客にすべきじゃないんだ。」
 苦々しげなウオミの言葉は、おそらく、オナデに仕事を頼んだあの男達が殺したのだろう、という
事なのだろうが、微かに異人に対する警戒が見え隠れしている。
 まだそいつらが犯人と決まったわけではない。しかし、ウオミの中では仮にその男達が犯人ではな
くとも、異人が何か絡んでいる事は確定しているようだ。
「昨日の夜、オナデの家のほうから物凄い勢いで走っていく背の高い奴がいたんだってさ。差配が言
うには、オナデの死体の近くには、崩された久寿玉があったみたいだよ。オナデの商品じゃないみた
いだから、昨日の男達の依頼物かもね。」
 確かに、それだけ聞けば異人が犯人かと思えてくる。オナデの家から駆け去ったという人影は、背
が高かったのならば、瀬津国の人々が低身長である事を考えると、やはり異人の可能性が高い。
 けれども、その人影と、昨日の久寿玉を依頼した男達が同一人物かと言われれば、そうではない気
がする。大体、久寿玉を依頼した男達に、オナデを殺す理由がない。オナデを殺してしまえば、久寿
玉は作れないのだ。
 では、殺したのは背の高い人影のほうだろうか。こちらについては情報が何もないので、何とも言
えないが、けれども人に姿を見られている事を考えると、随分と無計画だ。
 どうも、妙におかしい。
 リショウが、状況の奇妙さに居心地の悪いものを感じていると、漁師町の入口の方から、
 夜明けの薄い光の中でもはっきりと分かるほどの土埃を上げながら、馬蹄を響かせて薄い甲冑を付
けた女が駆けてくる。
 道で総立ちになっていた漁師達が、わっと左右に分かれて、馬の通る道を空ければ、駆ける馬は開
かれた道を通り、ウオミの前で手綱を引いて、馬にたたらを踏ませて止まらせた。
 ウオミの前で止まった馬上を見上げれば、まだ若い女だった。
 軽装とはいえ武装した女は、恐らく軍か何かに所属しており、この辺りの治安を任されているのだ
ろう。
「ナチハ。」
 その姿を見て声を上げたウオミに、女武者はまだあどけなさの残る顔を、くっと引き締めた。
「ウオミ、今はまだ、皆を外に出さないで。」
「なに………?どういう事だ?犯人について何か分かったのか?」
 ナチハは、唇を噛み締めて首を横に振る。
「いいえ、犯人は分からない。というか、何が起こっているのかが分からない。」
 女武者の声は、凛としながらも、どこか困惑した響きがあった。その響きはウオミにも伝わったの
か、どういう事だ、ともう一度問うた。
「何が起きているのか分からない、だと?オナデは異人に殺されたんじゃないのか?オナデの死体の
近くには、異人から依頼された久寿玉があったんだろう?」
「オナデの近くにあったばらばらの久寿玉が何処から来た物なのかは、まだ分からない。さっきリツ
セに届けて、検分して貰っているところ。それに、オナデは多分、異人に殺されたわけじゃない。」
 言ってから、ナチハはますます困惑したように、表情を歪めた。
「そもそも、人間に殺されたのではないのかも。」
 なに、とウオミの眼が見開かれた。
「少なくとも、オナデは刃物で切られたわけじゃない。オナデは首筋を、何かに食い千切られていた。
傷については今、原庵先生が検分してくださっているけれども、ただ、見た限りは犬や猫ではないの
ではないか、と。」
 犬や猫にしては、歯の形が曲がっているような気がするから、
「むしろ、蛇とかに近いのではないか、と。それに、オナデの死体の近くには、オナデ以外の誰かの
右腕が、やっぱり食い千切られている状態で転がっていた。誰の物かは分からないし、そもそも正直、
何が起きたのかは、まだ誰にも分からない。だから、今はまだ、外に出ないで。」
 ウオミは、ナチハの説明する奇妙なその状況に言葉を失ったようだ。
 だが、リショウは別の意味で血の気が引いた。
 蛇。 
 人を食い千切る蛇など、いるにはいるがその辺に転がっているわけがない。しかも、それがよりに
もよって、藪とはいえ久寿玉師の家に現れた。しかも、大陸から来た人間の依頼の久寿玉が近くにあ
っただなんて。
「なあ、オナデの近くにあった久寿玉ってのは、どんなだった?」
 突然、話に割り込んできたリショウを見て、ナチハは少し驚いたように眼を見開くが、すぐに、良
く知らない、と言った。
「私は久寿玉の事は良く知らない。ただ、白い地に黒で何か描かれていた。リツセが修復しているだ
ろうから、それを待てば分かると思う。」
 それでは、遅い。
 ナチハの言に、リショウは思わず歯を食いしばった。
 もしも、リショウの考えている通りならば、オナデが大陸人から依頼された品がリショウが探して
いる物と同じならば、次に危険な眼に逢うのは、リツセだった。あの久寿玉には、人に害なすものが、
封じられている。
 もはや、一刻の猶予もない。
 無言でリショウは、目の前に留まっているナチハの乗る馬に、一息に飛び乗った。
 突然の負荷に馬が嘶き、ナチハもウオミも眼を白黒させている。
 その間に、リショウはナチハから手綱を奪い取り、暴れる馬の上でぐらりと揺れたナチハを、出来
る限り穏やかに地面に落とした。
「お前!」
 穏やかに、と言っても突き落とされた事に変わりはなく、あまりの無体にナチハとウオミが悲鳴の
ような声を上げて睨み付けた。
「なんのつもりだ!」
 しかし、突き落とされたナチハよりも、ウオミのほうが何故か怒っている。
 親友なのかもしれないが、今はそんな事はどうでも良い。
 また、説明している時間も惜しい。
「リツセの所に行く。」
 言い置いて、リショウは手綱を引いて馬を主導下に置くや、その腹を蹴り飛ばし、疾風となる。
 馬の嘶きが響き終った後の余韻だけが、砂埃の合間で木霊していた。

 


  リツセは、たった今持ち込まれたばかりの久寿玉を前に立ち尽くしていた。
 明け方、水守のたまの寝息で眼が覚め、その後どうにも再び寝入る事が出来ず、結局そのまま起き
たのだ。家の外にある湧水で顔を洗い、髪を結えている時に警邏隊の騎馬がやってきたのだ。
 オナデが殺された。
 リツセが断った大陸人の仕事を請け負ったばかりだったという。その死体の近くで、久寿玉が崩れ
ていた。大陸人から依頼された久寿玉かもしれない。いずれにせよ、他に手がかりもないので、久寿
玉から読み取れるだけの事を読み取ってほしいと、そう依頼がきたのだ。
 何か、怪しい出来事に拘わった久寿玉について修復やら調査する事を頼まれる事は、そう多くはな
 いがないわけではない。久寿玉には凝った物も多いので、そこに何か細工がないか調べる事は、現
 役の久寿玉師が一番適している。
 けれども、そんな事よりも、別の事実がリツセの心臓の裏側に凭れている。
 オナデが、死んだ。
 リツセは、額に手を当てて、少しばかり眼を閉じた。
 自分が仕事を断った男達がこれをオナデに持ち込んだのだとしたら。そう思えば、腹の底が冷え込
んだ気分になる。自分が仕事を受け入れていれば、オナデは死ななかったのではないか、と。
 むろん、すぐに刃を抜くような人間の持ち込む仕事が、真っ当な物ではない事は多く、それを引き
取ったオナデの責任はあるだろう。
 けれども、それを止めなかった自分に責任はないのだろうか。
 考えても仕方がない事だが。
 リツセは小さく溜め息を吐いて、膝の前に置かれた崩れた久寿玉を見る。赤い袱紗の上に置かれた
久寿玉は、きちんと組まれていれば子供の頭ほどの大きさだろう。白い陶器のような、つるりとした
紙で出来ている。
 ふんふんと、起きたばかりのたまが匂いを嗅いでいるが、そのたまの白い毛並みと同じくらい、白
い。だが、真っ白というわけではなく、黒い墨で何か模様が描かれているようだ。
 そっと紙に触れてみて、もっと間近で見ようとそのまま躊躇いなく持ち上げる。触れた指先からは、
何も感じない。冷えた紙特有の、少し吸い付くような感触があっただけだ。
 一見すると格子模様に見えた絵柄は、まじまじと見れば、格子模様ではなく、一つ一つが尖った硬
質な形を備えていた。くるりと久寿玉を一周させて、濃淡だけで表されたうねるそれを眺めれば、不
意に視線とぶつかった。
 ぎょっとして身を引けば、そこには黒々と、するどい眼差しが描かれている。しかも一つではない。
うねりの中に、幾つもの視線がぎらついているのだ。
 むろん、これは墨で描かれた眼だ。本物の眼ではない。がだが、まるで、墨で描かれたとは思えな
いほどにこちらを睨み付けている。何処までも何処までも追いかけるように。平凡な言い草だが、ま
るで生きているよう。
 そしてリツセはこの視線を、つい最近、見た。
 昨日、大陸から来た男達に絡まれるリツセを助けた、同じく大陸から来た若者。リショウが、これ
を探していると言っていた。白の地に、幾つもの頭を持つ蛇の絵が描かれた久寿玉。
 リツセは久寿玉から睨み付ける視線の数を数え、ふと気づく。
 リショウは九つの頭を持つ蛇の一つが封じられていると言い伝えられていると言った。そして描か
れた蛇の頭は、八つ。単純に、一つが封じられているから、描くのは八つだけで良いと思ったのか。
絵柄と封じられている首と、合わせて九つという、面白くもない意味合いを持っているだけなのか。
 蛇の眼と見つめ合っているリツセは、しばし周囲の事に対して気がそぞろになっていた。膝の上に
よじ登るたまにも、御座なりに頭を撫でるという反応しか出来なかった。
 だから、唐突に店と母屋を繋ぐ扉が勢いよく開かれてもすぐに対応できなかった。
 勢いよく扉が開かれ、久寿玉を広げて座り込むリツセの前に、ぬっと黒々とした背の高い影が落と
しこまれた。聳え立った黒い影に、リツセが一つ瞬きをした瞬間に、影の手にある長物が勢いよく振
りかぶられた。
 眼を閉じる暇もない。呆然としたリツセの目の前を、長物が空を切って通り過ぎていく。同時に、
視界の端を何かが跳ねるように飛び去って行った。
 何か、と思う間もなく、リツセの身体は宙に浮く。ぐらりと反転した世界の中で、一緒に反転した
たまの姿が見えた。そして最後、地面に視界が向かう。しかし、地面がそれ以上近づいてくる事はな
かった。それどころか、一度、大きく地面から引きはがされた。
 長物を持った背の高い影の肩に担ぎ上げられたのだ、と気が付いたのは、リツセを抱えたまま飛び
退った影が店の扉を突き破るようにして表に出た、壊滅的な音が響いた時だった。
くっと首を曲げて地面から視界を外すと、粉微塵となった店の扉が、薄らう朝靄の中を飛び散るのが
見えた。
 そして、素早く跳ねる、子供の頭ほどもある黒い何かが。
 ぽんぽんと跳ねるそれから、逃げるように、自分を抱える影が職人街の道に背を向けて駆け出した
のだ。リツセも肩に乗せられたまま、跳ねる何かから逃げる事となる。
 遠くで、物音に気付いて飛び出してきたのだろう、朝の準備をしていた職人達の叫び声が聞こえた。
その中に、チョウノの悲鳴も混ざっていたが、リツセにはどうする事も出来なかった。