傾く西日を頬に当て、リショウは小さく溜め息を吐いた。
 この町にある久寿玉師の元を何軒か当たってみたが、やはり当てになる話は聞こえなかった。ほと
んどが、リツセの言った言葉と同じ、或いはそれ以下の事しか分からない。
 そもそも、絵だけで一つの久寿玉を探すこと自体に無理があったのだ。いや、他にも情報はあるの
だが、それを口にすればこの町にも禍が降りかかる恐れがあるし、何よりも久寿玉を持ち去った人間
の耳に入り、警戒される可能性がある。そうなると、ますます久寿玉を探しにくくなるだろう。それ
だけは、避けたい。
 リショウは、一族の責務を負って、この場所にいるのだ。なんとしてでも、蛇の久寿玉を取り返さ
なくては。
 ただ、このリショウの感じる責務は、実は酷く形骸化したものであるという事を、リショウは分か
っている。確かに祇国にあった久寿玉はリショウに縁があるものだが、けれども近しい遠ではない。
遠くにあった縁を、リショウが手繰り寄せて、それを勝手に親元を離れる理由にしただけだ。
 だから、リショウには実際のところ、久寿玉を探す責任はない。誰も探しにいかないから、探して
いるだけだ。
 しかし、あのリツセとかいう娘。
 ふと、黒い眼差しを思い出し、リショウが探している久寿玉が何を意味しているのか、気づかなか
っただろうか。
 気づかなければいい、と思うと同時に、もしかしたら何か知っているかもしれない、とも思う。蛇
の描かれた久寿玉など知らない、と言っていた。作った事もない、と。だが、意味するところは、も
しかしたら知っているのかもしれない。
 もう少し、しつこく聞いてみるべきだった。リショウは今更ながらに、早々にリツセの店を辞した
事を悔やむ。
 今からでも、戻って話を聞くべきか。だが、暮れなずんだ町は、既に店仕舞いを始めている店もあ
った。通りに面した物売り達は、暖簾を外そうとしている。煌々と明かりを灯して、今からが本番だ
という表情をしているのは、屋台や、食堂、民宿、後は芸妓がいるような店だけだ。
 こじんまりとしたリツセの店を思い出し、きっと店仕舞いをしている事だろうと思う。
 母親と二人で商いをしていると言っていたが、その母親も今は遠出しておりリツセ一人だ。ならば、
もっと早くに店仕舞いをしていてもおかしくない。今から行けば迷惑になるだろうし、それに夕暮れ
時に男が独り身の娘の元にやっていけば、妙な噂を立てられるだけだ。
 それはリツセにとってもだが、リショウにとっても、好ましくない。
 諦めて、明日出直そうと踵を返す。
 となると、向かうは民宿だ。
 リツセは漁師町に、リショウを泊めてくれそうな民宿があると言っていた。
 正直、長い船旅と、その後すぐに町を回った事もあって、少々疲れていた。元々長旅には慣れてい
るリショウではあったが、結果が乏しかったという事実もあり、なんだかがっくりきていたのだ。
 だから、リツセが宿を紹介してくれた事は、ありがたかった。
 脳裏の隅に、ちらりと待ち人の事が思い出される。実を言うと、リショウはこの町で待ち合わせを
している。同じ大陸から来た人間だが、生憎と同じ船が取れなかったので別々の船で行く事にしたの
だ。此処で待ち合わせようと言って。
 けれども、どうやらリショウのほうが早く町について、しかも待っている間に情報収集をしている
うちに、きれいさっぱり待ち合わせの事を忘れてしまったのだ。
 さて、さぞかし怒っている事だろう。かといって今から捜しだせるものだろうか、と既に暗がりの
深くなった遠くの船着き場を見やる。堅苦しく待ち続けているという可能性も少なからずともあった
が、それ以上にこちらに業を煮やし、あちらはあちらで何処か宿に行っているかもしれぬ。何となく
そちらの予感のほうが当たっているような気がして、リショウは一瞬、船着き場に向かおうとした足
をくるりと回転させ、漁師町へと身体を向けた。
 リショウが船から降りた港からほど近い場所に広がる漁師町は、潮と魚を焼く匂いが立ち込めてい
た。案外、待ち人もこの辺にいるかもしれない。
 遠くに見える水平線には、まだ漁から戻っていないのか、漁火がぽつぽつと頼りなく点滅している。
今夜も蛍烏賊の漁をしているんだね、という声を聴きながら、リショウはリツセに言われた宿を探し
た。
 ウオミという娘の家は、すぐに見つかった。名を出せば、誰もが、ああと頷いて、あちらだと指示
した上に、漁師の集会場となっているだけあって、一際大きな家だった。今夜も、漁師達が集会がて
ら一杯ひっかけているのか、家の前に立っただけで豪快な笑い声が聞こえてきた。
「なんだい、今夜はもういっぱいだよ。」
 リショウが扉を開けて覗き込むと、良く日に焼けて髪を短くした娘が、素っ気なく言い放った。
 この郷に降りて数刻と経っていないが、しかしあまり背が高い人々ではない事は分かった。けれど
も目の前にいる娘は、流石に男であるリショウほどではないが、ぐっと背が高い。日焼けした顔には、
額から頬にかけて、流れる水を思わせる刺青が施してあった。
 この娘も、漁師なのだ。そして男臭い部屋を切り盛りしている姿に、この娘がリツセの言っていた
ウオミなのだな、と思う。
 ウオミの言った通り、大きな部屋中に並べられた机は、どこもかしこも海の男達が腰かけており、
むっと熱気が立つほどに満杯だった。
 まさか、リツセはこの状況を知らずにリショウにウオミの所に行けと言ったのだろうか。それとも
知っていたとしたら、ただの嫌がらせに近い。
「あんたが、ウオミ?リツセが、此処なら泊めてくれるって言われたんだけどな。」
 すると、素っ気ないだけだったウオミの態度に、何か別のものが広がった。強いて言うなら、つっ
けんどんな頬に丸みが僅かに刺した。
 まじまじとリショウを見ると、そういえば、と
「リツセの家に、刃物を持った連中が押しかけたって言ってたね。」
「おい、俺は違うぞ。」
 刃物を持った連中が押しかけた、というのも少し違うのだが、そこは敢えて訂正しなかった。
 ウオミはリショウの言葉に、ふん、と鼻を鳴らす。
「知ってるよ。その連中は、オナデの所に行ったからね。オナデの奴も、刃物をすぐ出すような奴
を客にするなんて、馬鹿だよ。まあ、前々から金には汚い奴だったけど。」
 オナデというのは、リツセとは違う別の久寿玉師だろう。あの連中は、別の久寿玉師に仕事を頼
む事にしたのだ。
 しかし、ウオミの言い様は酷い。けれども、他の漁師達もそれに同調している。
「俺達なら、一か月待ってでもリツセに久寿玉を頼むがなあ。」
「オナデの久寿玉じゃあ、土産物にはなっても、漁に出る時に持っていきたくはねぇわな。」
「ヒルコ様の加護もなさそうだ。」
 笑いながら、酒を浴びるように飲んでいる海の男達の中にも、リツセが久寿玉師として優れている
という認識があるようだ。これまで逢った久寿玉師も、皆、リツセに一目置いている。
「リツセはそんなに凄い久寿玉師なのか?あんなに若い娘なのに。」
 リショウが言うと、そりゃあそうだ、と漁師達は一斉に頷く。
「なんたって、リツセはリヒロ様の娘だからな。」
「リヒロ様の娘なら、ヒルコ様の加護も一入だろうさ。」
「……リヒロ様?」
 きっと、リツセの父親の名前だ。
 そういえば、リツセの口から父親の事が語られなかった。母と二人で暮らしていると言っていたか
ら、恐らくなくなったのだろうとは思うが、しかし彼女の父ならばヒルコの加護が得られるとはどう
いう事だろうか。
 けれども、その問いかけは、ウオミの鋭い声で閉ざされた。
「あんた達、余計な事を他所の人に言うんじゃないよ。」
 あんたも、と漁師達を一瞬で黙らせた凛々しい眼差しをリショウに向ける。
「他国の事にいちいち首を突っ込むんじゃない。あんたは自分の国に帰れば良いんだろうけど、首を
突っ込まれたこっちは、此処で生きていくしかないんだから。」
 ほら、とリショウに、男のような固い手で鍵を渡す。
「部屋は二階に上がって右に曲がった突き当り。酒は持ち込んでも構わないけど、酔っ払って騒ぐん
じゃないよ。」
 その声に追いやられるように、リショウは宛がわれた部屋に入った。
 リショウが部屋に入ると、そこはとても清潔にされた、かなり広い部屋だった。
 客人用の部屋である事はすぐに知れ、リツセがこの事を言っていたのだとしたら、リツセもこの部
屋に泊まった事があるのかもしれなかった。どうであれ、リショウにとって有り難い事に変わりはな
い。
 戟を背中から下ろして、一息吐く。少し、とは思っていたけれど、こうして身を降ろすと案外疲れ
が溜まっていたのか、このまま動きたくなくなってくる。眠り込んでしまいたい。食事もとっていな
いが、それでもいいか、と思う。だが、何も胃袋に入れないままで寝たら、翌日フラフラになってい
る事は眼に見えていた。
 閉じてしまいそうな瞼をこじ開け、深呼吸して立ち上がる。多分、階下に行けば何か食べるものが
手に入るだろう。漁師達が豪快に飲み食いしていたのだから。
 頭を一つ振って、再び下に戻り、大部屋の中を見渡す。漁師達は相変わらず騒いでおり、ウオミは
その中を酒やら料理を持って行ったり来たりしている。ただ、騒ぎすぎる男達を鋭く制している辺り、
給仕には見えないが。
 リショウが降りてくるのと入れ替わりに出ていった男が座っていた席に、リショウは座る。騒ぐ漁
師達の間を渡るウオミをどうにか捕まえ、適当に酒と料理を頼んだ。ウオミはリショウを鋭く一瞥し
たが、何も言わずに目の前に荒っぽく酒と、何かの魚を蒸した物を置くと、さっさと別の席へ行って
しまう。
 食堂として機能している大部屋の中は梔子色の明かりが灯されている。天井を見上げれば、紙を織
り込んで出来た丸い籠の中に、蝋燭が吊るされているのだ。丸い紙の籠は天井の目を覆うように一列
に配され、明かりをそこかしこに広げていた。
 あれも、久寿玉の一つだ。
 リショウは紙の明かりを見上げて、気が付く。
 そう言えばこの民宿の看板にも、赤い久寿玉が吊り下げられていた。名産であるというだけあって、
人々が普通に生活の中に織り込んでいるようだ。先程、漁師達も久寿玉を船に乗せると言っていた。
 リショウも、久寿玉について多少の知識はある。大陸でも、今でも久寿玉は魔除けとして飾られて
 いるのだ。けれども、紙で折られた久寿玉は少なく、こんなふうに生活に密着するように作られる
事もない。
 大陸のものは、ほとんどが祝い事の祭に、盛大に飾られるくらいだ。瀬津の郷で見るような、子供
でも手慰みに作れるものはない。或いは、紙だけで飾り物を作ろうとする者もいないだろう。
 ぼんやりと頭上で揺れる久寿玉の明かりを見ているうちに、周囲の気配が変わった事に気づかなか
った。
「なんだ、あんた、久寿玉が珍しいのかい?なんなら俺が作ってやるぜ?」
 へらへらとした酒交じりの声に、リショウが視線を明かりから外すと、にやにやと酒で赤くした顔
で笑っている。その笑顔の周囲だけが妙に冷ややかなのは気の所為ではない。
 リショウが眼を瞬かせている間も、男からは濃厚な酒の匂いが立ち昇っている。男が何か口を開く
たびに、呼気から酒精が深まっていくようだった。
「この俺に任せりゃ、久寿玉なんぞ一日で出来上がるぜ。あんな紙の塊に、一か月も時間をかけるな
んざ馬鹿げてる。」
 かかと笑う男に、リショウは何故こんなに冷ややかな視線が凝っているのかに気が付いた。たった
今、男が吐いた台詞が明白な理由を示している。縁起を担ぐ漁師達の前で、わざわざそれを否定した
男が、爪弾き者なのは誰にでも理解できることだ。
 なのに、爪弾きにされている男は気づいているのかいないのか、へらへらと冷たい舞台で笑ってい
る。
「オナデ、あんた何しに来たんだい?あたしが見る限り、あんたは十分に出来上がってて、あたしん
とこの酒が入用には思えないね。」
 ウオミがこれ以上酒精を撒き散らされるのはごめんだと言わんばかりに、腕組みをして目の前に立
ち塞がる。或いは、男の暴言が更に繰り出され、血の気の多い男衆が乱闘に乗り出さぬようにと、早
いうち牽制する為かもしれない。
 リショウは、この男がリツセに刃を掲げた男達の仕事を請け負った久寿玉師か、と男とウオミを見
比べる。オナデは、その物言いからも、そして訛りがある事からも、生粋の瀬津の人間ではない香り
がした。
「俺は今日、仕事を請け負って金回りが良いんだ。気前の良い客だったぜ。対して難しくもない久寿
玉作りに金一粒寄越すんだからな。」
 金一粒。
 その言葉に、漁師連中達が眼を見開き、ウオミも絶句したようだ。
 久寿玉の相場などリショウには分からぬが、彼らの態度から見て、金一粒が想像を絶する対価であ
る事は想像に難くない。
「リツセも馬鹿だぜ。ヒルコなんぞの言い伝えなんか信じずに、とっとと作ってやりゃあ今頃は宮様
と同じように生活できただろうさ。」
 途端に、言葉を失っていた態であったウオミが我に返ったようだった。いや、怒りをかみ殺してい
るのが、米神のあたりがひくついている。
「どうだい、ウオミ。お前も俺に久寿玉を依頼したら。そうすりゃあ、久寿玉が出来上がるまで、ま
だかまだかなんて焦れずに済むぜ。」
「生憎だったね。あたしは漁師だ。漁師がヒルコ様の加護のない久寿玉なんか持っていくくらいなら、
その辺にある流木を持っていったほうが、まだましだね。そっちのほうが、難破しても帰って来れそ
うだ。」
 くい、と顎で出口をしゃくる。これ以上、話す事はないという仕草で。
「さあ、帰りな。帰ってヒルコ様をないがしろにした事を、精々謝ってお許しいただくんだね。ヒル
コ様のおかげで此処にいられる事を、忘れんじゃないよ。」
「俺は俺のいたい所にいるだけさ。」
 小馬鹿にしたように大袈裟に身を翻すと、オナデはふらふらとした足取りで刷り硝子の嵌め込まれ
た木の扉を開き、今にも看板に吊り下げられた久寿玉を引き千切りそうなくらいに手をふらりふらり
と揺れ動かして、夜の中に灯る提灯の向こう側へと沈んでいった。
 開けっ放しにされた扉は、ウオミが外を窺った後に、ぴしゃりと閉ざした。
「良かった。久寿玉があいつの手で叩き落されなくて。」
 無事だった看板の赤の久寿玉について、ウオミが独り言ちたのを切欠に、漁師達の声はオナデへの
愚痴とも不満とも陰口ともつかないものを吐き出す。
「あいつめ、ヒルコ様のおかげで此処にいられるくせに、なんて言い様だ。」
「全くだ。ヒルコ様がいなけりゃ、あいつなんぞ叩き出されていてもおかしくねぇんだ。」
 此処でも、ヒルコ様、という言葉が出てきた。リツセも口にしていたが、この地ではヒルコという
神は相当に信奉されているらしい。だが、リツセの言っていた利益と、男達の言う利益はどうも違う
ようだ。
「ヒルコってのは、」
 リショウは愚痴る男達に声をかける。
「何か?こちらの居場所まで保証してくれる神なのか?」
 男達の口ぶりはそんなふうだった。
「あたし達じゃない。あんた達みたいな、異人の居場所を保証してんのさ。ヒルコ神は、海を渡る神
だからね。遠い地の人々にも優しくあれ。それがヒルコ様の考えなんだろう。だから、瀬津の国では
異人も、この地と同等の扱いを受ける事が出来る。仕事の斡旋だってしてやるし、家だって探してや
る。」
 オナデも、そうした保護を受ける異人の一人なのだ、とウオミは言った。大陸から着の身着のまま
やって来た、襤褸を身に纏った異人だった。
「手先は、まあ器用だったから久寿玉師としてやっていけてんだけど、まさかああも性根が曲がって
るとは思わなかった。」
 全ての異人がそんなふうではないとは分かっているが、一人そういう人間がいれば、どうしても元
からの土地の者は警戒するのだ。
 頷くリショウに、だから、とウオミが腰に手を当てて睨み付ける。
「あんたも、いくらヒルコ様の加護があるからって、無体な事しでかすんじゃないよ。」
 弱者であるが故の強みを振り翳すなと釘を刺され、リショウはもう一度頷いた。