「先程はありがとうございました。」
 店番用の椅子に座り込んで、店先に並べられている久寿玉を眺めている若者の前に、茶を出しなが
らリツセは改めて礼を言った。
 あの後、野次馬達を追い払い、リツセは若者を店に通した。
 若者が何者であるかは知らないが、助けて貰っておいて礼をせぬのは気が退けたし、そもそも彼自
身が久寿玉師に用があると言っていた。なので、それを聞く事も兼ねて、店の中に案内したのだ。
「この店は、あんた一人しかいないのか?」
 戟を店の壁に立てかけて手を離した若者は、並べられている色鮮やかな久寿玉から眼を逸らし、茶
を持ってきたリツセに問う。
 リツセは首を横に振り、
「いいえ。私の母の二人で商いをしております。ただ、母は今、里帰りも兼ねた紙の仕入れの為、粟
の国に行っております。」
「つまり、今はあんた一人しかいないって?それなのに、俺みたいなのを店に入れて、不用心だな。」
 確かにその通りだ。
 しかし、店に入れなくては商いが出来ぬのも事実。久寿玉は紙で出来ているため、軒先に並べて置
くという事は、基本的には出来ない。防水として膠を塗り固める事もあるにはあるのだが、基本、店
の中に棚を敷き、そこに出来上がった久寿玉を並べるのだ。もしも出来上がった久寿玉の中で、客が
気に入った物があればそれを売り、気に入る物がない、或いはこういったものを作ってほしいという
依頼がある場合は、新たに作る事になる。
 ただ、客が何も知らずに久寿玉作りを依頼した場合、先程のような騒ぎになるのだが。
 そうした事を考えれば、なるほど女一人の商いというのは存外危険を孕んでいる。だが、その為だ
けに誰か男衆を雇うのも馬鹿らしい。それに、何か騒ぎがあれば、さっきのように途端に野次馬が出
来るのが、この町の良くも悪くも特徴である。
 だから、例えば目の前の若者がリツセに無体を働こうとした時、リツセが今一度、悲鳴を上げたな
ら、向かいの小間物屋のチョウノを始め、すぐにでも人が集まる事だろう。
 リツセがそう言うと、なるほど、と若者は肩を竦めた。同時に、若者の癖のある髪の先端が揺れ、
光がそこにだけ灯ったようになる。
 その様子を、リツセはふと何処かで見たような気がした。しかしそれを、明らかに初めて会ったば
かりの、そしてどう考えてもこれまでに何らかの形でも会うはずのない若者に言うほど、リツセは人
好きする性格ではなかった。
「それで、お客様。久寿玉師に御用があるとの事でしたが?」
「ん、ああ……。」
 少し、何かを考えるような素振りを見せ、若者はつと立ち上がる。くるりと久寿玉を見回し、つい
で番台の上に広げられている紙と小刀と、作りかけの久寿玉を見下ろし、最後にリツセを見る。
「あんた、この町一番の久寿玉師なんだって?」
「さて………私には分かりかねます。私の作った久寿玉に満足してくださるお客様は多いですが。」
「で、それ以外の奴らは、さっきみたいに喚き散らす客か?作るのが遅いって。いや、俺にしてみれ
ばあいつらの言い分も理解できる。なんだって、久寿玉一つ作るのに、一か月もなんでかかるんだ?」
 勿論、と若者は言う。
「商売をするくらいだ。子供の手遊びじゃすまされない。紙の選定や断裁やらにも気を遣うだろうし、
紙を折る時だって狂いがなく折るから時間はかかるだろう。でも、一か月もかかるか?一体どんなで
かい久寿玉を作るつもりだ?」
「……お客様も急ぎ新しい久寿玉を作らせるのが、目的でしたか?」
「いや。」
 若者は首を振る。これは、ただの疑問だ、と。自分の目的は別にあるが、その前に純粋に疑問を投
げてみただけだ、と彼は言う。
 その言葉に、リツセは小さく溜め息を吐く。若者の疑問、ひいては初めて瀬津にやって来る人々に
とっての疑問は、当然のものだ。
 久寿玉は確かに時間がかかるが、しかし適当に作れば簡単な物なら二、三時間で作り上げる事が出
来る。小刀から何から何までに祈祷を捧げたとしても、十二枚ほどの紙を使用する小さな物なら、一
日二日あれば十分だろう。
 だが、少しでも心の奥底に久寿玉から何らかの加護を求めたいと思ったら、それだけでは不十分な
のだ。
「久寿玉は、本来、人が人に贈る物です。例えば親が旅立つ子に、妻が海に出る夫に。安全と多運を
願い、一枚一枚紙を折り込み、組み立てていく事で折った者の想いが玉の中に籠り、贈られた相手を
護るのだとか。勿論、私もそのように久寿玉を作っていますが、所詮は他人です。買いに来る人ぞれ
ぞれの話を十分に聞き、その人の想いを受け取った上で折ったとしても、やはり敵わぬものがありま
す。それを補う為――いえ、例え親しい人が贈るのだとしても、更なる加護を得るために、一か月間
の猶予が必要です。」
 それは、この国を守護するヒルコ大神に、久寿玉を捧げ、その力を久寿玉に降ろす為の期間だ。
 本来、久寿玉とはヒルコ大神に捧げられたもの。故に、新しい久寿玉を作った際は、ヒルコ大神に
まずは捧げるのだ。一か月間、ヒルコ大神の元に置かれた久寿玉は、その神力に曝され、加護を得る
事が出来る。そうやって初めて、本当に久寿玉は完成する。
 だが、ヒルコ大神に捧げられた久寿玉を、いきなり取り上げてしまっては、ヒルコ大神に失礼だ。
なので、その時にはそっくりそのまま、同じ形の久寿玉を、ヒルコ大神に納めるのだ。
「全く同じ久寿玉をヒルコ大神の元に置く事で、更に加護の力が高まるとか。まあ、これは後付かも
しれませんが。」
 今でも、親しい者同士が久寿玉を贈り合う時、または儀式に使う久寿玉の場合は、こうして一度は
ヒルコ大神に捧げられる。リツセの場合、父親の影響もあってか、全ての商品がヒルコ大神に捧げら
れている。
「今、店に置いてあるものは全て捧げられた後のものです。なのでこれらは何の気兼ねもなく私も売
る事が出来ます。ですが新たな久寿玉を作るとなると話は別です。」
「なるほど、ヒルコ大神に捧げる期間が必要ってわけか。」
「ええ。そういった言い伝えを信じてない方にならば、確かにこういった儀式めいた事はする必要は
ないのかもしれません。ですが、あの方達は、わざわざ新しいものを、と言っていたので。」
 物見遊山の買い物客ならば、普通に店先にあるもので良いはずだ。
 だが、新しい物を、自分自身の為に特別な物となると話は別だ。それは、僅かなりとも縁起を担い
でいる証拠。ただの見栄であったとしても、縁起物を売るこちらには、間違いがあってはならない。
「なるほど……あんたは、縁起物作りに詳しいってわけだ。だから、俺が久寿玉を探してるって言っ
た時、この町の人間は皆、あんたの事を言ってたんだな。」
「久寿玉を探している……?」
 若者の目的がようやく口にされ、リツセは首を傾げた。
 久寿玉を探している、というのは、何か特定の御利益を求めているのだろうか。久寿玉には、その
形状によって祝い事が異なる事がある。
 けれども、そうではないと若者は頭を振った。
「俺は久寿玉を買いに来たわけじゃないんだ。いや、商いをしてる人間にこんな事を言うのもあれな
んだが。俺は、とある久寿玉を探してる。」
 懐から、折り畳まれた紙を一枚取り出し、それをリツセの目の前で広げて見せる。皺の多い、薄く
黄色がかった古い紙だ。それが広げられた時、そこには墨で一つの久寿玉が描かれていた。
 一見すると普通の、六十面体の久寿玉だ。ただし、意図してか、面に蛇の図柄が描きこまれている。
何匹も折り重なっている図なのだろうか、頭が幾つもうねっている。
「……この蛇が描かれた久寿玉を探していると?」
「ああ。」
 若者はリツセの座る番台の隣に腰を落ち着け、出された茶を啜る。
 温くなっているだろうが、気にもしない様子だった。
「この蛇の図柄が掛かれた久寿玉は、大陸の東沿岸部にある、今は祇国と呼ばれている土地なんだが、
その地方の豪族が代々受け継いで来たものだ。なんでも、遥か昔、当時暴れ回っていた大蛇を一人の
男が殺し、その首を久寿玉の中に封じたんだとか。」
「大蛇退治、ですか。こちらでも同じような話があります。こちらは八つの頭を持つ大蛇でしたが。」
 かのミノリノリツノヒメが大陸より連れてきた若者が、八つの頭を持つ大蛇を斃す英雄譚がある。 
 すると、若者は小さく笑った。
「何処にでも同じような話ってのはあるんだな。なら、その頭を久寿玉に封じ込めたっていう話は?」
「ないですね。蛇の腹から剣が出てきたというのは聞いた事がありますが。」
 斃された八岐大蛇は、静かに河の中に埋葬された。河に沈んだその身体からは、砂鉄が零れ落ち、
その地は葦原国では貴重な、有数の鉄鉱脈となったという。
 久寿玉で封じたという話は、ない。
 そもそも、久寿玉に蛇の図柄を使用するという事自体が、リツセにはあまり考えられない。
「……和紙に図柄が描きこまれていると言うのは珍しい事ではありませんし、それを使って久寿玉を
作る事も良くあります。ですが、龍ならばともかく、蛇というのは、珍しい。」
 蛇は、確かに神として祀られる事も多い。
 だか、決して御目出度い図柄にはならない。その本質が、荒ぶるものだからだ。大蛇も神である事
に間違いはないが、神は神でも荒神だ。蛇は、人に害なす一面がある故に、目出度い図柄には使用さ
れない。
「じゃあ、あんたも見た事はない?」
「ええ……。」
「そっか……。」
 何か、少し憮然としたような笑みを浮かべた若者に、リツセは申し訳ない、と頭を下げる。
 すると、若者は慌てたように首を横に振った。
「いや、こっちこそ、こんな図柄だけで分かるか分からないかとか、悪かったな。そんな簡単に見つ
かるとは思ってなかったし。それに、図柄もそういうふう柄がある紙を使ったってわけじゃないんだ。
後から描きこまれたものだしな。」
「後から描きこんだ………?」
 例えば一色だけで作った久寿玉に、筆を用いて絵柄を描きこむ。それ自体は多くはないがないとは
言えない。
 だが、それは酷く呪術めいた事だ。
 リツセは祝詞の為に絵を描く事はあるが、それが逆の目的で描かれる事も、ままある。その事を、
この若者は分かっているのだろうか。そもそも、祇国にあったという久寿玉を、何の為に探している
のか。祇国から、久寿玉は持ち出されてしまったのか。
 問うべきかもしれないが、問うたところでどうにもならない。
 若者が久寿玉を良き事に使うのか、悪しき事に使うのか、いずれにせよリツセは蛇の描きこまれた
久寿玉を作った事はないし、見た事もない。良きにも悪きにも、役に立つ事は出来なかった。
 邪魔をした、と言って壁に立てかけていた戟を手に取り、店から出ていこうとする若者に、何か助
言を下す事も出来なかった。
「そういや、この辺りに良い宿はないか?まだ宿をとってないんだ。」
 店から出ていく時に振り返った若者の言葉に、リツセはそれならば、と漁師町のほうを指し示す。
「漁師町にウオミという娘がいます。その娘の家は漁師の集会場ですが、民宿もやっているので、私
の名を出せば場所を空けてくれるかと。」
「あんたの名前……リツセって言うんだっけ。」
「はい。」
「そうか。俺はリショウ。色々とありがとうな。」
 リショウと名乗った若者は、ひらりと手を振ると、それっきり癖の多い髪は雑踏の中に姿を消した。
 その姿が消えるまで見送っていたリツセの足元に、ぽん、と軽く何かがぶつかる。見下ろせば、赤
子ほどもある水守が脚に擦り寄って、リツセを見上げていた。
「たま。」
 ぽってりとした白い、一見すると蜥蜴のように見える身体を、猫のようにくねらせている生物がい
る。蜥蜴というよりも、巨大なイモリに似ているそれは、瀬津郷のあちこちにある水路を渡って、時
々こうして人の住む場所に降りてくる。
 何かを強請るような仕草をする水守を、リツセは屈み込んで抱き上げた。
「どうした?昼間から人のいる場所に来るなんて、珍しい。お腹でも空いたか?」
 円らな眼を見ると、水守はリツセの眼を見返し、きぃと鳴いて、ひれのある尻尾を二、三度振った。
その仕草に小さく笑い、リツセは水守を抱え上げたまま、店の中に入った。