葦原国は、大きな四つの島、そしてその周りを土地囲む幾百もの小さな島からなる国である。
 近くにある大陸から見れば、広々とした青い海の中にあって、それはそれは小さく思えた事であろ
うが、小さいなりに島々には毛糸で編んだような緑の山々が幾垣にも連なり、その周囲を青い海が取
り囲む、鮮やかな色合いをしていた。
 温暖湿潤な気候は四季折々に島の姿を彩って、その時節に沿った野菜やら果実が実り、海ならば季
節によって変化する海流に従って、魚がやって来る。風にも恵まれ、風に流された雲が山に引っかか
り、定期的に雨を齎す為、水にも食べ物にも、さほど困らぬ国であった。
 ただし、金や銀、鉄などの鉱山は少なかった為、貴重ではあったが、使い古した道具も手直しして
使うような物持ちの長い人々が多かった為、この事が特に大きな問題となった事はない。
 鉱山資源は乏しいが、豊かな水源と土壌は、他国から見れば羨やましい事この上なかったに違いな
い。だが、大陸から島国攻め入るには偉大なる海原がその進行を阻んでおり、また、大陸と島を隔て
る海原はいつも波が高く、晴天であっても船を操るには気が張るという、荒波であった。
 過去、何度か大陸が挙兵して島にやって来ようとした事があったらしいが、海が余りにも荒ぶって
いた為、断念せざるを得なかったという記録が残っている。
 なので、葦原国は他国からの侵入というものを、貿易以外では基本的に受けた事がなかった。大陸
から渡ってきた人々が技術を伝えただとかいう記録は、過去何百年にも遡って何度もあったし、今で
も港町には大陸からの貿易船が引っ切り無しに入ってくる。
 だが、それ以外の、所謂戦で他国が土地を踏み荒らしたという事は、ない。
 まこと、幸せな事である。
 そんな幸せな島国の中で一番大きな島の中に、瀬津という土地があった。
 一年中穏やかな海に面し、その海に流れ出る河の口の畔にある土地である。南側は、その穏やかな
海があり、北を向けば八重垣の山がある。山と海を繋ぐのが、巨大な河川であり、河口には漁師達の
船が幾つも停まっている。
 元来は、漁で生計を立てていた郷であったが、この河口からは山から流れつく物もあり、特に山か
ら流れ出た肥沃な土が流れつく事は、郷を葦の生い茂る湿潤な土地とし、田畑に従事する者もやがて
は住むようになった。
 更には、近年は穏やかな海を幸いとし、大きな港を建設した。これは大陸からの渡来人を迎える為
である。漁や畑は、確かに腹をくちくするが、しかし狭い島国故、全ての人間が多くの土地を得て富
を得る事は出来ないし、皆が巨大な船で海に出ることができるわけもない。土地も船もない者は、な
らばどうやって富を得るか。大陸より珍しい物、有益な物を集めて、それを売ればいいのである。そ
うやって、交易を進める者もいて、元々大陸とは交易はあったのだが、それがますます盛んになった。
 大陸から珍しい物を集め、この地で作られた作物、捕れた魚を売りに出し、そこから貨幣が回り始
める。
 新しい人々、新しい文化は、郷をいっそう賑やかにする。故に、この地は漁師、農民の町であると
同時に、商人の町であり、だからこそ大いに潤っている町なのである。
 葦原国を統べる尊、即ち帝がおわすのは、瀬津の国から見て東にある都である。
 しかし、都よりも交易が盛んで人口も多く、文化的にも物質的にも潤う瀬津郷を、人々は東の都で
ある東宮に対し、西の都――西宮、つまり在宮と呼んでいる。
 要するに、西の宮にこそ宮在り、である。
 事実、瀬津の郷を治めるのは帝の血を引く一族でもあった。
 ただし、帝が己の権力を誇示する為に、瀬津に己の血を引く者を派遣したわけではない。
 最初から、この地が瀬津の郷となった時から、そこには彼女がいたのだ。
 それは既に記憶を辿るのも及ばない昔、神代ほどではないが、古代の出来事である。
 時の帝の娘であるミノリノリツノヒメが、この地に降臨し、そしてこの地に住む人々に様々な知恵
を与えたのが、瀬津の郷の始まりとされている。
 ミノリノリツノヒメ――少し長いので皆は、リツヒメ様と呼んでいるが、彼女は神代よりも少し手
前の古代、皇の長女であった人である。名前から察するに、恐らく実りを、即ちその年の作物や漁の
成果を管理する立場の人であったのだろう。
 そしてミノリノリツノヒメが降臨された際、それを迎え、この地を治める事を許可した神が、ヒル
コである。
 今でも、瀬津の人々は、口々にこう言うのだ。
 この富は、ヒルコ様のおかげだ、と。
 ヒルコ様とは。
 この国にも、国というものには往々にして神と人との繋がりを示す物語があるように、神話がある。
最初の男女二柱から、国が生まれたという神話である。
 彼らは国の礎となる島々の神を生み、遂には天を照らすオオヒルメ、ツクヨ、そして海神であるス
サを生んだのだが、一番最初の長子こそが、ヒルコである。
 ただし、長子ヒルコは、三年経っても足腰が立たぬ故に、葦船に乗せられて海に流されてしまった。
 そんな哀れな境遇に陥ったヒルコが流れ着いた場所こそ、瀬津郷であるという伝説が、まことしや
かにあるのだ。
 脚萎えでありながらも、葦の船だけで海を渡り切ってみせたヒルコの偉業は、元来は漁師であった
瀬津の人々にとっては、あやかりたいほどであったし、それは交易船が行き交う今でも同じ事。海と
共に暮らす人々にとって、航海を無事に終える事は、何よりもの願いであった。
 また、その名からどうしても水を連想させるが故に、その力は海だけではなく川に、そして川に通
ずる山にも及ぶとされている。もしも山で獣に襲われても、山の中を流れる川に飛び込めばヒルコ様
が助けて、郷にまで連れて帰ってくれると言うのだ。
 その他にも、長子であるが故に、実は一番最初に太陽を背負うはヒルコ様であっただとか、だから、
日の神であるオオヒルメが磐戸に隠れた時には代わりに太陽を運行しただとか、暴れ者のスサが海を
全く治めずに荒れさせた時は代わりにに治め、だからヒルコ様がその後も治めるようになった瀬津の
海は穏やかなのだとか、とにかく様々な伝説が残っているのである。
 しまいには、海から山から物が流れ着いてくるのはヒルコ様の力のおかげ、流れ着く物は基本的に
は民の懐に入る僥倖であった為、ヒルコは富事さえも操る奇霊に成り上がったのである。
 根っからの瀬津の民は、成金となったものであってもヒルコを祀るものは多く、郷のあちこちには
ヒルコ様を象ったとされるイモリやサンショウウオ、水守の像が置いてある。
 また、漁師も貿易商も猟師も、必ず葦船の飾りを身に着けている。葦船の飾りはヒルコが海を渡っ
た時に使用した船を模したものであり、これを身に着けていればどんな危機に陥っても、必ず家に辿
り着く事が出来ると言われているのである。
 この葦船は、今でも女衆が手で一から作っており、これを特産物の一つとして、土産物として売る
店もある。
 瀬津の特産物は、このように神話に根差したものが多いため、交易、つまり大陸の人々にとっては
珍しい物として人気があるらしい。
 特に、人気があるのは久寿玉である。
 久寿玉は、本来は大陸から渡ってきたものだ。薬を五色の布で包んだもので、薬玉というのが当初
の名であった。これを伝えたのは、先に述した瀬津の最初の当主―ーミノリノリツノヒメであったと
いう。
 彼女は瀬津の郷を治める前、一度大陸へと渡っている。そして数年後、大陸から一人の若者を連れ
て帰ってきたのだ。
 この若者は、瀬津の郷を潤す為の知識と技術を携えていたのだが、その中の一つが薬玉であった。
 五色の布で出来た薬玉を、二人は無事この地にやってこれた事――リツヒメにしてみれば国に無事
帰ってこれた事――の感謝として、航海の神でもあるヒルコ様に奉った。
 この薬玉をいたく喜ばれたヒルコ様に、人々は毎年美しい薬玉を捧げるようになったのだ。薬玉の
素材は、布から徐々に鮮やかな色にも染める事ができる紙へと変化し、子供でも折る事の出来る簡単
なものから、酷く複雑な久寿玉まで、様々に広がった。
 ただ、ヒルコ様に捧げる久寿玉は今でもリツヒメの血を受け継ぐ家系が作っている。
 この家系の本筋こそが、瀬津の郷の領主である。
 だが、むろん、観光客や交易用の久寿玉を、そのような方が作るはずがない。作るのは、町中に住
み、職人達と共に工房に籠っても差し支えない、そんな人々なのだ。
 そんな人々の中に、リツセという久寿玉師の娘も入っていた。
 リツセという名は、父が付けた。
 その名は、紛れもなくリツヒメからとってつけられたものだ。
 なんて不遜な、と思われるかもしれないが、瀬津は東にある帝自身がおわす都に比べれば、そうい
った事には寛容であったし、そもそも、実を言えばリツセは少なからずとも帝の血を――リツ姫の血
を引いている。
 リツセは、今の瀬津の郷の領主の従妹に当たるのだ。リツセの父は前領主の弟だった。
 父が、何を思い市井に下りたのか、リツセは知らない。母であるエンヤは何か知っているのかもし
れないが、口にした事がない。
 むろん、父も。
 そして父は何も語らぬまま、二年前に病で亡くなった。
 その死を、自分達家族だけではなく、町中の者が、そして領主一族までもが悼んでいるのを見て、
リツセは父が本当に当主の血を引いているのだと理解した。
 父が前当主の弟である事は、誰もが知っている事だったし、リツセの耳にもそれは届いていた。だ
が、市井に下りた父の生活は、質素であり、奥宮の領主一族のそれとはかけはなれたものだったし、
それに町人達も父に対しては敬意を払っていたものの、必要以上に恭しくする事もなかったから、領
主一族の血を引いているという話は、リツセには実感できぬところがあったのだ。
 ただ、長い歴史の観点から見て、領主一族が民に紛れて生きる事はままあったようで、父の弟など
は出奔してしまって行方不明だというから、そもそも気取らない家系なのかもしれないが。
 時折、祭りの儀式の為に町に下りてくる領主の姿は、遠目に見ても美しく、父がもしもそこから抜
け出さなければ自分も同じ姿をしていたのに、と子供ながらにリツセは少し恨みに思ったこともある。
 尤も、長じた今となっては、領主の宮家として生きるのは、儀式やらしきたりの事を考えれば並大
抵のことではないと理解しているが。
 領主としての振る舞いが、町人とは異なる事は、父の久寿玉作りが他の久寿玉師のいずれとも違う
事からも分かる。
 父の久寿玉作りは、神への祈りから始まるのだ。祈りから始まり、祝詞を口ずさみながら紙を切り
分ける。ヒルコをはじめとする神々に捧げる久寿玉を作る時でもなければ、普通の、物見遊山向けの
久寿玉を作る職人達は、そんな事はしないだろう。そんな、古い古い久寿玉作りの作法だ。
 市井に下りて、久寿玉師として生きる事を決めた父は、けれども祭具である久寿玉を作る時は、誰
よりも神に訴えかけていたのだ。
 父の作り方が、他の職人達と違うと知ったのは、一体いつの頃だったか。
 だが、父を見て育ったリツセが、では他の職人達のように手早く作る事を目的とした作り方を真似
るかと言われれば、そんな事あろうはずもない。
 結局、リツセは父と同じように祈りから始まり、祝詞を口ずさみながら紙を切り、紙を組み立てて
いくのだ。それはリツセだけではなく、妻であるエンヤも同じだ。
 久寿玉の材料である紙売りの子であったエンヤは、久寿玉には馴染みが深く、その縁があって市井
におりた父と知り合ったのだという。
 瀬津では帝の威光がそれほどまで強くないとはいえ、まさか自分が帝の親戚関係である瀬津領主の
血筋に当たる人間と結婚するとは思わなかっただろう。あっけらかんとしたところのある母は、その
時の驚きが通り過ぎ去ってしまえば、父と暮らす事になんら怖気づきもしなかったようだが。
 そして紙作りにも神への祝詞があるため、父の久寿玉への祝詞にも、なんら奇妙さを感じなかった
ようだ。むしろ逆に、手を抜いて作る事には、何か躊躇いのような、自分の指を一つ何処かになくし
てしまったかのような欠落感を覚えるのだ。
 だから、今すぐにでも特注の久寿玉が欲しいとかいう注文は、リツセもエンヤも断っている。
 今のように。
「ですから、わたくしどものところでは、そのような短期の仕事は請け負っておりません。こちらに
 並べられている商品以外には、直ぐに売りに出せる商品はないのです。」
 リツセは、昂然と顔を上げて、黒い眼で男達を睨み付けた。
 先程、大きな船が港に入ってきた。交易船だろうが、大きな船には交易に係る者以外の、海を渡り
たい者を乗せていく事がある。
 リツセの前にいる黒地の着物を着た、男達も、そういった人々だろう。彼らには首から顎にかけて、
黒々と刺青が施してある。
 刺青を身体に入れるのは、海を潜る男達によくある、海蛇除けの風習だ。都では最近、罪人の顔に
刺青をさせようという動きがあるようだが、瀬津では刺青に対してまだそのような意識はなかった。
だが、男達の刺青の形はリツセの知るどの蛇避けとも違っている。ねじくれた鱗のようで、素潜りの
漁師のする刺青ではない。
 しかし、何者かは知らないが、リツセは自分達の仕事を捻じ曲げるわけにはいかなかった。
「新たな久寿玉を作るには、一か月は必要です。」
「ふざけるな!たかだか紙を折るのに、なんでそんな時間が必要なんだ!」
 一番前に立っている、上背のある男は、今にも腕を振り回して、辺りに置いている商品を叩き潰し
てしまいそうだ。如何に継ぎ目がないほどに丁寧に織り込んでいると雖も、所詮は紙で出来たものだ。
拳で叩けば、一瞬で潰れてしまうだろう。
 だからと言って、リツセにも矜持がある。
「紙を折る程度、と仰るならば、どうぞ他所の店に行けば宜しいでしょう。何を言われようとも、わ
 たくしどもは、三日という期間で新たな久寿玉を作る事はできません。」
 店の前には人だかりが出来ている。
 他の職人達が面白がっている。稀代の久寿玉師が、新しい久寿玉を作らぬというのは、彼らにとっ
ては初めて聞く話ではない。
 いや、作らぬのではない。一か月の期間が必要なのだ。
 職人達はその理由を知っている。
 彼らは一か月などかけずに久寿玉を作るが、しかしリツセの一か月の意味も知っているのだ。だか
ら、意味が分からずに怒鳴る男を笑い、昔ながらの古い作り方に固執するリツセを笑うのだ。
「この、小娘が。いい気になりおって!」
 遂に、のたうつ蛇を首に刻んだ男が、腰に帯びていた刃を抜き放った。白刃が鞘から抜き放たれる
時に、ぎらりと凶暴に煌めいた時になって、ようやく野次馬達の間から悲鳴のような声が零れ始めた。
笑うだけだった職人達が、慌てたように割って入ろうとする。
「いやいや旦那!それなら俺達のところに来てくれよ!」
「ああ、三日と言わず、一日で久寿玉くらい作ってみせるぜ。」
 如何にリツセを笑おうとも、リツセは彼らにとっては敬愛の対象である。
 リツセの父が亡くなってからは、特にその傾向が強まった。
 職人達は、リツセの仕事の丁寧さをからかっても、それこそが紛れもない真であると分かっており、
それを貫いて生きたリツセの父は、領主の血を引いているという事もあるかもしれないが、敬うべき
存在だったのだ。
 その対象は、むろん娘であるリツセも含まれている。
 父のように恭しく扱われたりする事はほとんどなく、同じ町人の子のように話しかけられるが、こ
うやって本気で刀傷沙汰になるほどの時は、口を出して助けてくれる。そういう時に、リツセは己が
やはり他の人間よりも恵まれた生き方をしているのだと思うのだ。父の培ったもので、生かされてい
るのだと。
 だが、今回の危機はしつこかった。
 普通ならばこうやって、他の職人達がなら自分達に仕事をくれと割り込めば、それならそちらのほ
うが勝手が良いという事で客はそちらに流れていく。
 なのに、この刺青のある男達は、リツセ以外の職人に見向きもせず、抜き放たれた大刀を収めよう
ともしない。
 偏見かもしれないが、大陸の人間はこうやって刃物を振り回せばなんでも道理が通ると思っている
人間が多いように感じる。あと、島国の人間を小馬鹿にしている態もある。
 リツセは、そんな人間の矜持に付き合ってやる必要はない。だから、どれだけ男達がしつこかろう
と、刀を突きつけてこようと睨み付けてやるだけだった。
 遂には胸倉を掴んで来ようとした男に、流石にリツセが身構えた時、
「いい加減にしろよ、あんたら。」
 何処か軽みを帯びた、若い男の声がすとんと野次馬達を割って、男達の背中にぶつけられた。思わ
ず足がぶつかってしまったのだと思うような、あっけらかんとした声に、全員がそちらを向く。
 刃物を抜いた男達も、一様に。
「いい歳して女相手に刃物を振り回すなんて、みっともねぇなぁ。それともそうやって女をひっかけ
 るのが、あんたの故郷じゃ流行ってんのか?だったら、この国にはそれは通じないみたいだな。」
 若い男だった。
 リツセと同じ頃、もしかしたら少しは年上かもしれないが、しかし刺青をしている男達に比べれば、
遥かに若い。
 少し日に焼けた闊達な顔と、黒い眼。そして堅そうな髪は強い癖があり、所々が跳ねている。一目
見て大陸の人間だろうと思ったのは、不思議な訛りが言葉にあった事と、何よりもその背に負う得物
が、瀬津郷はおろか、葦原国の何処にも見られない武器の形をしていたからだ。
 戟、と言ったか。
 一見すれば槍のように見えるが、しかし突く為の刃の他にもう一つ、柄の片側に斬る為の刃が付い
ている。こちらでは、その様な武器はほとんど使用しない。しかし、大陸でも最近は使われないと噂
で聞いたが。
 身の丈ほどもある戟を背負った若者は、口元に笑みを湛えて、刺青男を見つめる。
 その笑みが気にくわなかったのか、刺青男は蛇の刺青を歪める。
「お前には関係ないだろう、ひっこめ!」
「関係なくはないな。俺も久寿玉師に用があるんでね。あんた達にそうやって騒がれちゃ、こっちの
 用が出来やしない。」
 ヘラヘラとした声音だったが、それは同時に他人を酷く馬鹿にする。
 苛立ったのか、刺青の男達がとうとう若者に向き直り、その刃を突きつける――突きつけようとし
た。が、見る間に、その刃が叩き落される。
 くるりと、若者が背負っていた戟が魔法のように若者の手の中に納まったかと思うと回転し、柄で
男達の手を強かに打ったのだ。ガラン、と石畳と鉄の打ち合う音がした時には、若者は戟の柄を男達
の中の一人の首元に突き付けている。
 素晴らしい速さだった。息をつく暇もない。
 若造だと思っていた相手に、あっさりと得物を叩き落された男達は、到底敵わぬと見て取ったのか、
苦々しげな表情と舌打ちと共に、こちらに背を向けた。
 諦めたのか、一旦退くだけなのかは分からないが、とにかく落とされた得物を拾い上げると人ごみ
を怒らせた肩で割り裂いていった。そこに、何人かの商売魂逞しい職人が纏わりつくように追いかけ
ていったが、大半はあんな物騒な人間に関わり合いになりたくないのか、その場に留まって立ち去る
足音を追いかけている。
 姿が完全に見えなくなって、リツセはようやく溜め息を吐いた。
「リツセ!」
 野次馬の中から、向かいで小間物屋の売り子をしている娘が飛び出してくる。顔なじみである娘は
リツセに飛び掛かるようにして跳ねてきて、頬を紅潮させていた。
「なんなの、あいつら!いきなり刃物を出すなんて!」
「チョウノ。」
 男達が消えたほうを睨み付ける娘に、リツセは小さく嗜める。
 その声が、万が一にも男達に聞こえたら、チョウノにも因縁を付けられる事になる。流石に、騒ぎ
の間中はそのお転婆を堪えてくれていたようだが、騒ぎの時に割って入られていたらと思うと、ぞっ
とする。下手をしたら叩き斬られていたかもしれないのだ。
 少し声を抑えろ、と男達の消えたほうを窺いながら嗜めると、チョウノは愛らしい赤い唇をつんと
尖らせ、あたしは大丈夫よ、と全く根拠のない事を言う。
「それより、リツセこそ大丈夫なの?あいつら、また来るかもしれない!」
「その時はその時だ。お前までそれに巻き込まれる必要はないよ。」
 何か言いたげなチョウノを制し、未だ人垣を作る野次馬になど興味はないと言わんばかりに背を向
けた。
 そして、戟をゆっくりと背に戻している若者に向き直った。