「たわけ者が!」
 領主が言葉と共に床に叩きつけたのは、白い紙細工だった。
 数十枚もの紙を幾重にも組み合わせて作られた紙細工は、子供の頭ほどの大きさもある物で、陶器
のようにつるりとした真っ白な表面には、息を呑むほど精緻な蛇が墨で描かれている。
 今にも暴れ出しそうにこちらを睨み付ける眼光は、しかし、床に叩きつけられた今や、紙細工と共
に歪み、組み込まれただけで、糊や膠での補強の一切なかった細工は解けてしまっている。
 主君に罵声を浴びせつけられた男は、刺青の施してある首を竦め、けれども崩れてしまった紙細工
を凝視する。
「祇国の豪族一族が代々守り続けてきた秘宝と言うから期待してみれば!何の価値もない紙屑ではな
いか!何か月経っても富も成さぬ!」
「しかし領主様!」
 男は拱手しながらも、叫ぶ。
「これを持ち帰ってから、確かに水害は減っております!」
「減っておる?例年通り今年も堰が崩れ、田畑を呑んだではないか!」
 この国は水害が多い。
 水はけが悪く、作物や木々も育ちにくい上、毎年秋頃になれば季節風に流されてきた雨雲が容赦な
く激しい勢いで水を落とす。数十日もかけて降り続く雨に、田畑は沈み、堰は崩れて嵩を増した河が
氾濫するのは、毎年の事だった。
 その度に、領民は全てを失い、田畑も沈んだが故に飢え、しかも堰を再び直す為に金も出さねばな
らない。あまりにも毎年の事なので、もしや堰の修理にかける金を惜しんでいるのではないかと、そ
の所為でますますもって堰が崩れやすくなっているのではないかと、民は囁き合い、役人達を不審な
眼で見る。
 堰の修理状況を見る為に町に降りれば、罵声を浴びせかけられる事も少なくはない。
 これが、何の根も葉もない言い草であるならば、唇を噛み締めて耐えれば良い。己とて精一杯やっ
ているのだと腹の底で叫ぶ事が出来る。
 しかし。
 たった今、肥え太った指先で紙細工を叩きつけた領主は、指と同じように腹もでっぷりとしており、
正に、贅を楽しんでいる姿をしていた。
 民草の噂話は、決して根も葉もないものではない。
 だからこそ、やるせないのだ。
 北方の異民の国である祇国を呈した際、祇国の将を打ち取ったという功績で、今の地位についた領
主は、その後、己が打ち取った祇国の将の郷を荒らし、その時に家宝として隠されていた紙細工を手
に入れたのだ。
 祇将の郷では、その紙細工には人が恐れる力が込められているのだと言い伝わっていた。それを一
笑し、ならば我こそは人が恐れたる者よと言い、郷の女子供共々持ち帰ったのだ。
 けれども、人が恐れたるその力というのは、領主の眼から見ればまるで発揮されていない。
 さっさと去ね。
 怒鳴り付け、もはや聞く耳を持たない領主に、男は唇を噛み締め、解けてしまった紙細工を掻き集
め、それを懐に抱くとその場を辞するしかなかった。
 領主には見えなかったのだ。
 紙細工が解けた瞬間に、そこから立ち昇った薄暗い煙を。
 そして紙細工の間から零れ出た、干からびた小さな蛇の頭を。
 追い出されるようにして城を出て、白い紙とその中に包まれた蛇の頭を抱え、男は城の外に広がる
青空を見上げる。
 すっきりと晴れ渡った青が何処までも続いていたが、たった今、紙細工の中から零れ出た暗い煙が、
領地を覆うように密かに立ち込めているような気がして、ならなかった。