瀬津郷は水の郷である。
 穏やかな瀬津の海に面し、郷の中を向日川が流れている。向日川の巨大な河口には幾艘もの船が繋
がれ、時には海を隔てた大陸からの船もやって来る港がある。
 その港周辺に広がるのが漁師街である。一年中、魚と男臭い熱気が充満する、瀬津の稼ぎの柱でも
ある。
 漁師街に、交易用の倉庫を挟んで隣接するのが商業街であり、此処で大陸からやって来た貿易商か
ら買い付けた品物の売買や、瀬津郷の特産品などを売っている。外国からやって来た人々の宿も、こ
の周辺に多い。
 さて、港から出ると目の前は、漁師街の中でも一番人通りが多い大通りになっている。この大通り
を真っ直ぐと見やれば、嫌でも目に付くのが大きな朱色の鳥居である。漁師街の大通りは、そのまま
真っ直ぐに進めば門前町に変化し、そこは参拝客で賑わう神の御前だ。
 瀬津郷に辿り着いた者が真っ先に目にする朱色の鳥居が示すように、鳥居の向こう側は神社となっ
ている。こんもりとした緑色の木々に囲まれたその神社こそが、瀬津郷に坐し、ありとあらゆる幸を
司るヒルコ大神の社である。
 この社を管理しているのは、その昔、大陸から一人の若者を連れて帰った、時の帝の娘と、その若
者の血を引く宮家である。長い時の間、絶やすことなく連なってきた血脈は、ヒルコ大神の元で今も
根付いている。
 このヒルコ大神の社の向こう側に、職人街と庶民街が広がっている。職人街は、瀬津郷の特産品を
作る人々が住まい、働く場所である。
 瀬津郷の特産品と言えば、海産物や酒の他に、ヒルコ大神が瀬津郷にやって来た時に乗っていたと
言われる葦船や、久寿玉がある。葦船は航海のお守りに、久寿玉はあらゆる慶事の際に飾られる物と
して、今も瀬津郷のあちこちで見られるものだ。
 その久寿玉を作る職人の一人のもとに、十数年前、一匹の水守がやって来て、そのまま住み着いた。




 水守とは、瀬津郷周辺に生息している、白いトカゲのような姿をした生物である。
 トカゲよりも身体は丸みを帯びており、背中から尾にかけて、ひれがある。手足に爪はなく、泳ぎ
が達者である。これらの特性を考えると、トカゲよりもイモリやサンショウウオのほうが近いのかも
しれない。だが、イモリのように水がなければ干からびるということもない。
 何よりも、これがトカゲやイモリとの大きな差なのだが、彼らの手足は犬猫のように真下に向いて
付いており、そしてその肌はふかふかと柔らかい。
 そうなると、身体つきはともかく、トカゲよりも犬猫のほうが近いのではないかと思われるのだが、
水守は蛇のように脱皮をする。毛が抜け代わるのではない。綺麗に皮ごと脱ぐのである。どうやら、 
ふかふかの肌は、鱗であるらしい。
 なんとも、珍妙な生き物である。
 そしてこの珍妙な生き物、人の言葉はしっかりと理解しているようなのだ。犬猫もそれなりに人の
言葉は理解し、躾けることができる。しかし水守のそれは犬猫の比ではない。水守は、人間に躾けら
れることを、厭うのだ。水守に向かって、お手を強要した場合、馬鹿にしくさった顔で見つけられ、
挙句の果てには、尻尾でぺしりとはたかれるだろう。
 古い文献では、木の洞に住んでいた人の身長ほどもある大きさの水守は、人の言葉を喋ったそうな
ので、彼らは人と同じだけの頭があるのかもしれない。
 いずれにせよ、珍妙な生き物である。そしてその珍妙な生き物は珍妙であるが故に、瀬津郷ではそ
の体躯のこともあって、ヒルコ大神の化身であるとまことしやかに囁かれ、いつしか大事にされるよ
うになっていた。
 イモリやヤモリが住み着くと、家に良いと言われているが、水守も同様、いやそれ以上だ。幸の神 
の化身である水守が住み着くことは、瀬津郷では喜ばしいことだ。 
 だが重要なのは、彼らが自らの意志で住み着くことだ。水守を生け捕りにしたり、首輪をつけて繋
ぎ止めることは、決してしてはならない。それは島流しになるほどの重罪だ。瀬津郷の者であっても
なくても、水守を捕えることは許されざる罪になる。 
 そもそも、水守が家に住み着くというのが、どういう状態であるのか判じるのは難しい。水守自体
は瀬津郷のあちこちで良く見かける。
 瀬津郷は、郷のあちこちで水が湧き出る湧水群であり、湧水を郷の隅々にまで行き渡す水路が縦横
無尽に走っている。水守達はこの水路を活用して、瀬津郷を好きなように泳いで移動している。さっ
きまで職人街を歩いていたと思っていたら、今は漁師町で魚を食べている、なんてことも良くある。
今日はこの家で寝たけれど、明日はこっちの家に行こう、ということもあるだろう。
 一匹の水守が五軒くらいの家を渡り歩いている、という話も無きにしも非ず。
 ただ、久寿玉職人の家に住み着いた水守は、家を掛け持ちするつもりはないようだった。




 その職人の家に住み着くことを決めた水守は、まだ小さかった。
 水守の年齢を推し量るのは、難しい。産まれたばかりの彼ら、というのを誰も見たことがないから
だ。彼らがどのようにして産まれるのか――トカゲのように卵なのか、犬猫のように腹から産まれる
のか――誰も知らない。 
 彼らの出自は、向日川の対岸に広がる葦原であろうと言われているが、それも定かではない。聡い
水守達は、己の身を守るために本当の幼少の頃は、決して人に近づかないのだ。 
 だから、職人の家に住み着いた水守も、小さいとはいっても、産まれて二、三カ月ほどの子猫ほど
の大きさはあった。それくらいの水守ならば、瀬津郷では珍しくもない。 
 小さな水守は、久寿玉職人の家の一室で、手足を身体の下に入れてちんまりとしていた。
 円らな視線の先には、布団が一組敷かれており、その上には小さな人影が寝ている。
 職人の家には、数か月前に女の子が一人産まれたばかりだった。その子供が、布団の上で何も知ら
ぬ顔立ちで寝ているのだ。赤ん坊が来ている真っ白い産着は、水守の肌と同じくらい白い。
 小さい水守は、身体の下から手足を伸ばし、とことこと赤ん坊のほうに向けて歩き始める。トカゲ
のように物音一つ立てず、素早く赤ん坊に近づいた彼は、鼻先を赤ん坊の丸い頬に引っ付けた。 
 ふよっとした赤ん坊の頬と、ふかっとした水守の鼻先。
 水守はしばらくの間、赤ん坊の頬を、ふよふよと突いていたが、不意にくるりと振り返った。彼の
背後で物音がしたのだ。物音がした、ということは別の水守がやって来たわけではない。彼らは物音 
なんて無粋なもの、必要時以外立てることはない。 
 振り返った先には、一匹の猫がいた。白地に黒と茶色の斑がある。三毛猫というやつだろう。なん
でも、この辺りを縄張りにしている野良猫らしい。額には縄張り争いで付けたのか、傷跡が残ってい
る。その所為で随分と眼付きの悪い印象を受けた。
 小さい水守は、ふん、と鼻を鳴らし、勝手に縁側に上がっている自分よりも身体の大きい不躾な三
毛猫を見た。
 水守は縄張り争いなどしない。縄張りを示すために糞尿を垂れ流すなどという、迷惑千万な行為も
しない。水守は自分達を迎え入れる家を選び、そこに住み着くのだ。その家に他の水守がいても、折
り合いをつけてやっていく。 
 居場所を求めて争うだけの犬猫など、歯牙にもかけない。
 だが、三毛猫のほうはそうは思わなかったらしい。己の縄張りに水守がいることが気にくわないの
か、或いは水守をただのトカゲ同様格好の玩具と思ったのか、かっと牙を剥いて威嚇し始めた。下半
身がもぞもぞと動き、此方に飛び掛かる様子を見せている。
 水守としては此処で争うことは本意ではない。何せ自分の背後には赤ん坊がいる。あの三毛猫が飛
び掛かってきたら、赤ん坊にも害が及ぶだろう。それはこの家で恙なく暮らしている水守にとって、
非情に芳しくない出来事だ。
 ならば。
 水守は、猫のように飛び掛かる前に足踏みなどしない。なんの予兆もなく、さっと猫に駆け寄り、
その顔面目掛けて飛び掛かった。
 突然視界を覆われて、ぎゃっと猫が鳴き、そのまま縁側から転げ落ちる。転げ落ちる間際、水守は
猫から離れて地面に着地する。 
 転げ落ちた猫は、どうにか地面の上で反転して身構える。
 睨み合う、猫と水守。
 大きさだけならば三毛猫のほうが有利だ。水守はまだ子猫ほどの大きさしかない上に、その手足に
爪はない。
 しかし、動作だけならば、水守は猫に勝るとも劣らない。
 再び勢いよく猫に飛び掛かると、今度は背中に着地した。後ろ向きに。ここからならば、猫の尻尾
が良く狙える。水守は猫の背中から尻尾に飛び付いた。かぱりと口を開いて。
 水守に爪はない。
 だが、見事な牙がある。
 その気になれば、猫の尻尾など引き千切れるくらいの、素晴らしい牙が。
 ふぎゃーっと、凄まじい鳴き声が響き渡った。水守が、尻尾に噛みついたのだ。ところで動物の尻
尾というのは非常に敏感な器官であるらしい。そこを噛まれたら、ひとたまりもない。
 三毛猫が、脱兎のごとく逃げていく。
 その後を追いかける水守。
 追われた三毛猫は、周囲を良く見てなかったのか、途中でどぼんと水路に嵌った。少し流された後、
慌てて這い上がって、そのまま逃げ出すのが見えた。それを見届けて、水守は満足してゆうゆうと家
に帰る。
 家に帰る途中、
「さっき水に濡れてた猫って、たまじゃないかしら?」
 そう話し合っている近所のおかみさん達の声が聞こえてきた。どうやらあの三毛猫は、たまと呼ば
れていたらしい。まあ、しばらくは此処には来ないだろうが。
 しばらく此処に来ないであろう猫のたまの代わりに、水守はおかみさん達に返事をした。
 きぃ。
 その声に、おかみさん達がおや、とこちらを見る。
「ああ、どうしたんだい?」
 水守と分かると、おかみさん達の顔がにっこりと笑う。ちょっとお待ちよ、と言って懐から干菓子
が出てきた。
 きぃ。
 有り難く受け取って、鼻先を擦りつけると、
「ああ、あの猫のたまも、あんたくらい可愛げがあったならねぇ。」
 きぃ。
 一声、返事をした。


 
 
 それから、たま、と何処かで誰かが呼ぶたびに、水守は返事をするようにした。
 此処にいるのは、三毛猫のたまではなく、水守のたまであると刻むために。 
「おい、たま。」 
 そして眼の前にいるのは、大陸から渡ってきた一人の青年である。癖のある髪が、鳥の巣のようで
ある。
「聞いたぞ、お前、昔、猫を苛めた挙句、その猫の名前を奪ったんだってな。」
 リツセがそう言ってた。
 水守が小さかった頃、赤ん坊だった彼女は立派な久寿玉職人になっている。だが赤ん坊だった彼女
には、水守が猫を追い払っていた記憶はないはずだ。大方母親か誰かに聞いたのだろう。 
「えげつないぞ、お前。」
 猫が可哀想じゃないか。
 責めるような口調の青年に、水守は、ふん、と鼻を鳴らした。たまとてあらゆる猫を苛めるわけで
はない。あの猫は自分を苛めようとしたのだ。だから追い払っただけのこと。猫がトカゲを苛めるの
は良くて、トカゲが猫を苛めるのは良くないのか。
 青年の顔をちらりと見やり、水守はその脇を通り過ぎる。日課の散歩に行くのだ。
 てくてくと歩き出した水守の背後に、何処からか出てきた何匹かの猫が付き従う。水守の後につい
ていけば、餌に有り付ける可能性があるからだ。
 あの三毛猫はとうに老いて死んでしまったが、生きている間は後ろの猫達のように水守の後をつい
て、餌にありついていた。勝てぬ相手に喧嘩を売るよりも、そちらのほうが賢い。
 火の粉を払う以外の争いなんか無意味なことだ。
 たまは、歩きながら欠伸を一つした。