ざわざわざわざわざわ。
 細胞一つ一つに根付く彼らが、主人の命を受けて、眼を醒ます。
 開かれた眼は、神のみに許された至極の青。
 腰から広がる羽根は、白鳥のそれよりも、恐らく天使のそれよりも美しい、白よりも銀に近い色。
それは通路を遮るほど、広く大きい。
「さあ、始めようやないか。」
 高遠は、そう、空気を震わせた。




 小父のバチルスを穿たれた小部屋は、外帝王の侵入を受け付けないらしい。その代わり、こちらか
ら外部に手を出す事も許されない。小父の命を受けた彼らは、強固に扉を閉ざしている。
「さて。」
 男は固く閉ざされた扉を見て、それだけ言った。その言葉に何の意味があるのかと智羽は男を見や
るが、それ以上の言葉を紡がないところを見ると、本当に意味のない言葉を吐いただけらしい。
 智羽はそんな男を一瞥し、代わりに言った。
「勝てると思いますか?」
 小父が持ち込んだ唯一の武器――外帝王を灰に還す刃は、今は『剣鬼』たる男の手の中にある。そ
れなしで勝てると思うのかと、この世で一番興味のない質問をしてみた。すると男は、武器がないか
らな、と答える。
「剣を持って戦うあいつなら見た事あるけどな。武器なしで戦うのは見た事はないな。」
 お前はあるんか、と。短く問うた男に、智羽はけだるげに頷いた。
「ありますよ、小父さんが戦っているところくらい。」
「嘘やろ。なんで地球で、しかも地球人の目の前であいつが戦ったりするんや。」
 地球はとりあえずは日本は平和ちゃうんか。そう驚いたように尋ねる男に、智羽は面倒臭そうに答
える。
「絡む酔っ払いと、場所代をたかろうとするヤクザほど面倒な敵はいないと思いますが。」
 千枚通しとお好み焼きのコテで戦ってましたよ、と言うと、男は微妙な顔をした。
「それは戦いゆうより、ただの喧嘩やろ…………。」
 関西弁で酔っ払いとヤクザを罵る小父の姿をリアルに想像できたのか、男は、更に微妙な顔をした。
「…………大体、あいつ、地球で何やっとんの?」
「たこ焼きとお好み焼きとたい焼きを作ってますが。あと、オプションでクレープとか。」
「完全に屋台やん…………。」
 男の中の何かが崩れたのか、彼は頭を抱えて呻いている。それとも想像が出来すぎて頭を抱えたの
か。
「確かにあいつは、たこ焼きもお好み焼きもたい焼きも好きやった。けど、それを生業にするか……
…?」
「生業なんて言葉、今では日本人でもほとんど使いませんが。」
 こういうのをジェネレーション・ギャップというのだろうか。そんな事を思いながら、凍りついた
ように動かない扉を見る。小父が負けるとは思わない。それは外帝王達の呪詛のような雄叫びからも
明白だ。他者を嘲笑するしかない傀儡の支配者が、あのように怨詛を吐き出すのだ。それだけフロル
人というのは憎々しく、そして苦い存在なのだろう。
 尤も。
「私は今日初めて小父の正確な種族名を知ったわけですが。」
 だから、外帝王とフロルの争いも、未だに完全には理解していないのだ。それが如何に重く険しい
事であるか、智羽には分かりきれない。
 すると、むっつりと床の上で体育座りをしていた『剣鬼』が、むっつりとした声を上げた。
「だから何やねん。だからって、それが徴がある事に傷を付けるわけやないやろ。」
 何故あの台詞だけでそういう考えに行くつく事が出来るのだ、この男は。というか、そんなに『徴』
とやらは重要なのか、宇宙人の常識では。
 呆れて物も言えない智羽を無視して、体育座りの『剣鬼』は、そのままのの字を書きそうな勢いの
声音で呟く。
「そりゃ、俺はお前よりもあいつとの付き合いも長いし、あいつの事はよう知っとるけど、それでも
徴は貰えんかった以上はその他の連中と変わらんし。」
「『変態』って呼ばれてる事は、多分、他の連中とは違ってると思いますよ。」
「でも俺の事『変態』って呼ぶのは、あいつだけちゃうし。」
 それはこの男の所為だろう。それ以前に『変態』と呼ばれる事に抵抗はないのか。
 男の完全にずれている思考は、正しく『変態』だと思う片隅で、何故それほどまでに徴に拘るのか
が分からない。
 徴。
 それはフロル人が他者に与える恩恵のように見える毒だ。智羽が今こうしてあるから、それが天恵
のように見えるのかもしれないが、実際は毒の果てに得られた異常なのだ。
 知らないのか、それを。
 バチルス・フロリアに感染する事自体が、伝説の域に達しているのなら、この男が知らずとも不思
議ではない。事実が伝説として、毒がただの恩恵に歪曲されてしまっていても、不思議ではない。フ
ロル人自身、それを忘れ去ってしまっている節があるくらいなのだから。
「あのですね…………。」
 智羽が、バチルス・フロリアに感染した生物の顛末を話そうと口を開いた時、閉じていた扉が空気
の抜けるような音と共に開いた。
 思わず二人して見つめたそこには、白いシャツの裾部分を破いた小父が、ぬっと立ち尽くしていた。
その手には黒いエプロンがぶら下がっている。それだけなら特に何も思わなかったのだが、二人がわ
ざわざ 一瞬息を止めた理由は別にある。
 げんなりとした小父の顔の中で、黒眼の部分が多い眼は、その黒眼部分が完全に青に染まっている
のだ。しかもそれは、智羽が今まで写真やテレビで見た地球人の青い眼とは全く異なっている。普通
の青い眼は、濁りのある青がほとんどだ。だが、今の小父が所有する瞳は、その濁りが全くない。透
き通る青は、正に神のみに許された青だ。
 そして――――。
「小父さん、一体何を腰に付けてるんですか?」
 見間違いかと思ったが、それは間違いなく見間違いではない。
 小父の破れた白いシャツの下から広がる、一対の羽根。白というよりも寧ろ銀に輝くそれは、背中
から広がっていれば天使のように見えただろうが、しかし残念なんだか何だかよく分からないが、小
父の羽根は腰から生えている。
 正直言って、とりあえず、何が小父の身に起きたのか、分からない。
 呆けていると、ようやく我に返ったのか、男が思い至ったように言った。
「………それが、フロル人の本来の姿か。」
 男が赤い三つ目を本来の形として持つように、腰羽を持つその姿こそが、フロル本来の形。ざわざ
わと蠢く空気は、バチルス達が主に歓喜の声を上げる音だ。それこそがフロル。
 それらを割って、智羽は自分の庇護者たる彼に近づいた。
「小父さん。」
 呼べば、夕日を浴びたステンドグラスのような瞳を動かして、彼は己の庇護すべき存在を認める。
そして大きく腕を開いて、そこに少女を迎え入れた。
「…………もう大丈夫や。」
 智羽を腕に囲い、小父は溜息を吐くと共にそう言った。腰から広がる巨大な翼がゆらゆらと揺れ、
狭い入口に当たっている事も気にならないくらい、彼は智羽を抱き締める。その小父の身体から漣の
ように感じられる彼らの鼓動以外に、それらしき気配がないところを見ると、どうやら外帝王達は食
い潰されてしまったらしい。
 小父と共に脈打つ徴だけが空気を震わせる空間で、智羽はただぼんやりと小父の背後で揺れる羽根
を見ていた。それは酷く軽そうに見えると同時に、小父には酷く重そうに見えた。
「………大丈夫ですか?」
 自分を抱いて、それ以上はひくりとも動かない小父に、智羽はくぐもった声をかける。すると小父
は智羽の肩に顔を埋めるようにして頷いた。
「久しぶりやってな。少し疲れただけや。」
 その言葉に、智羽は何故か腹の底が冷えるものを感じた。フロルの事はよく知らないが、それでも
今まで見せてこなかった――敢えて隠していたのかそれとも見せる必要がなかっただけなのか分から
ないが、後者だとすれば――羽根と眼の色を元に戻さずにいるという事は、元に戻すだけの体力がな
いという事ではないのか。
 ひやりとして小父を少し引き離し、その顔を見上げると、小父は困ったように笑った。
「心配せんでもええて。ホンマに久しぶりやって、ちょっと勝手を忘れただけやから。それに―――。」
 まだ終わったわけやないやろ、と小父は慈愛に満ちた光を消し去って、代わりに凍える刃のような
煌きを瞳に浮かべ、『剣鬼』を見やった。星一つを凍らせそうなその眼に射抜かれた男は、微かに身
動ぎしたが、それ以上の反応を見せずに、ただ視線を見返した。
 引き絞った弓の弦の如く張りつめた視線の応酬の後、小父が青い瞳で男の赤い三つ眼を睨んだまま、
宣言した。
「俺の眼が黒いうちは、何人たりとも地球に手出しはさせへん。」
 まるで智羽が地球そのものであるかのように強く掻き抱き、彼は銀の羽根を震わせて、宇宙の倫理
の一端を担う男を威嚇する。
「外帝王であろうと宇宙統括倫理機構であろうと、絶対に地球に手出しはさせん。もし『原本』に逆
らって地球を滅ぼす気やったら、その時は―――――。」
 お前であっても破壊する。
 躊躇い一つなく吐き捨てられた台詞に、『剣鬼』の顔が僅かに歪んだ。まるで捨てられた子犬のよ
うに。それでも無表情を張り付け直し、男は銀の翼を広げるフロル人に、何処か嘲笑する響きを込め
て言った。
「お前が俺を破壊する?出来んの?剣の腕やったら俺の方が上やけど?」
 あと体力もと告げる男に、小父はガラスのように透明な青の瞳で牽制する。見た物全てを氷の中に
封じ込めてしまいそうな瞳に男を閉じ込め、黙らせる。
「確かにお前は『剣鬼』。今の俺では確かに勝てへんやろな。でもそれは剣での話や。」
 震える彼の翼の大きさは彼の力の証でもある。自らと智羽の二つの身体を覆っても、尚余りあるそ
れが彼の中に内在する力を示しているのだが、その事に男が気づくだろうか。
 いや、気づかねばならない。
 仮にも『剣鬼』の名を背負う男が、小父の中で急速に膨らんでいく外帝王よりも遥かに荒々しいそ
れに気づかぬなど、あってはならない。
「お前は、俺には勝てない。」
 分かっているだろう?
「だから、くだらない、自分本位の正義感で星の命を潰すのは止めろ。」
 全てを見透かされたように告げられて、男の整った唇が震えた。地球が宇宙の倫理規定に引っ掛か
っている事も、それ故、地球を破壊するという選択肢が男の中にある事も、何もかも知られている。
それを知った上で、このフロル人は地球に沈んでいるのだ。
「わからん…………。」
 呻き声ともとれる声が、男から絞り出された。赤い三つの眼は、小父の眼に気圧されたかのように
光を失っている。その眼に相応しい、掠れるような声がじりじりと喉を焼いている。
「なんで、お前がそこまで地球に肩入れするんかが、分からん。あんなん、今でこそお前の故郷に似
とるんかもしれんけど、あと数十年もしてみい、絶対に見るも無残な姿になっとるて。そんな星に命
懸ける必要なんかないやないか。」
「だからなんやって言うんや。」
 焦がすような声に、小父も同じだけ焦がれるような声を上げる。
「お前は、自分の故郷がいつか沈むやろうからって、それを大義名分にした連中にみすみすと破壊さ
れるのを見とるんか。お前はそれで納得できるんか。」
 俺はそんなん嫌や。
 郷里を持たぬフロル人は、そう叫んだ。
「お前らは勘違いしとるやろ。俺が、俺らフロル人が、今でもフロル星だけを故郷としてしか見てな
いって。んなわけあるか。俺が生まれる数万年前にフロル星は死んだんやぞ。そんな星を故郷なんて
思えるか。確かに地球はあの星に似とるんやろうけど、俺はそんな理由で地球に固執しとるわけちゃ
うぞ。地球は。」
 自分と地球を繋ぐ、唯一の楔である少女を硬く抱きしめて。
 それでも彼は言い放つ。
「地球は俺の生まれ故郷なんやぞ。」
 正しく、その名の通り、この地球で生まれ落ちたのだ、と。この腕の中にある少女以外に、地球上
で自分を必要としてくれる存在がいなくても。
 地球生まれの生粋のフロル人は、そう言い切った。
「だから、何もせずに単に倫理規定に引っ掛かっただけで星を破壊するような連中に、故郷を滅ぼさ
せはせえへん。」
 フロル人の手から宇宙統括倫理機構が離れて久しい。その間、組織の体系は変わっていき、そこに
根差す考えも変わっていったのかもしれない。まだ百年程度しか生きていない男には分からないが、
あまりにも長い年月を生きるフロル人には、その変化は明白なものなのかもしれない。だから、フロ
ル人のほとんどが、機構から離れていったのかもしれない。目の前のフロル人も同様に。
 男が薄々感づいていた、機構の狂い。倫理を掲げながら、渋りながらも、結局は意に沿わない星を
破壊するという機構の、正に宇宙を統括するという傲慢。それと真っ向と対立しようとしているのだ。
この、青い眼をしたフロル人は。
 フロル人が作り上げ、そしていつしか狂ってしまった組織。
 それは、外帝王や銀の卵と同じ類の、フロルの枷だ。
 気づいた男は、もはや言うべき言葉を失った。過去のフロル人が作り上げた枷を、目の前のフロル
人が背負う必要はないと分かっていても、もうこれは、枷を作ったフロル人と同じフロル人である彼
しか背負うべき人物がいないのだ。
 彼が自ら選びとったこの宿命は、部外者である誰かが口を挟むには大きすぎる。
 びりびりと震えた空気に放たれた吐息が誰のものだったのか、それは分からない。空気に押された
男が零したものだったのかもしれないし、思いの丈を吐き出した小父が喘いだものだったかもしれな
い。或いは、小父の震えを感じ取った智羽が同調して落としたものだったのかもしれない。
 訪れた幾許の沈黙の中で、三つの影は彫像のように固まっていた。ただ、それぞれの吐く息だけが、
緊張しきった空間に、時折、漣を立てるだけだ。
「――――小父さん。帰りましょう。」
 押し潰されそうな世界で、ようやく智羽はそれだけを口にした。
 その言葉が、全てを動かした。
 智羽の言葉にゆっくりと頷いた小父は、銀の羽根を大きく震わせると、一気にそれを全て散らせた。
まるで噴き上がる蒸気のように舞い上がったそれは、一瞬のうちに視界を覆う。そして、まるで障壁
のように男の前に立ち塞がる。
「高遠!」
 羽毛に吸い込まれ損なった男の声が、微かに耳に届く。
 お前はそれでいいのか、と。
 それを掻き消すように、小父が呟いた。
「――――帰ろう、智羽。」
 幾万の星が、一斉に瞬いた。




 やがて銀白の羽根は全て消え去った。
一片の欠片もなく、今までそこにいた人物が夢であると告げるように。ただ、手に残された一振りの
剣だけが、その邂逅が夢でない事を主張していた。
 剣を抱えたまま、男は眼下に青い星を臨み、立ち尽くした。