不意に、腕から力が抜けた。
外帝王に囲まれたのは自分の不注意だ。蟲が連中に感染されているという事が考えなかったわけでは
ないが、だからと言って蟲をそのままにしておくわけにもいかなかった。外帝王と対峙した事は、今
までにもあったけれど、今現在、奴らに対抗する為の武器が手元にない。常ならば持っているのだけ
れど、私用だからと持ってきていなかった。
 ―――馬鹿が。
 苦々しげに呟く彼の声が聞こえる。
 ―――何処に行くにしても『細殺』だけは持って行けって言うたやろ。
 何度も言い聞かされていた事を聞かなかったつけが、ここにきた。いや、それ以前に公私混同して
宇宙船を飛ばしたのだ。それを含めても、この状態は自業自得だ。此処で死ぬのも、自分の所為だ。
身体を奪われるのは癪だから、連中に乗っ取られる前に自爆してやるけれど。
 けれど。
 すぐ近くにある、青い惑星の事を思う。
 此処で死ぬのなら、あの青い星も自分と共に死んでもらわなくてはならない。自分の眼から一瞬で
も外れる事は許されない。彼らに咎がなくても、庇護がなくては身を守れない星には、保護者なくて
は生きる権利がない。
 おかしな話だ、と思う。
 そして彼の事を思う。
 まだ、この星にいるのか、と。だとすれば、自分はやはり彼を殺す事になる。自分の、本当にどう
しようもないミスの所為で。不肖の生徒でごめん、と苦い胸の中で謝った。
 だが―――――。
 もはや異形の者となった蟲の向こうを『視』て、愕然とした。全てを見通す事のできる第三の眼が、
本来ならばこの場にいないはずの姿を捉えたから。
 三つの眼全てを見開いて、呆然と外帝王の向こう側を見つめる。今までも顔面蒼白になっているだ
ろうと思っていたが、今度こそ、冗談抜きで血の気が引く音がした。薄く開いた唇が何か言おうと震
えたが、それは静かに細い息を吐くに留まった。
 言いたい事も言うべき事も、いっその喉が張り裂けるくらいに叫び出したい事があったけれど、そ
れらは互いに鬩ぎ合って、喉を押しつぶしている。
 だって、まさか此処に来るとは思わなかった。
 どんな理由があれ、此処に来てくれるとは思わなかった。
 その姿は見え隠れしていたけれど、本当に実在しているとは思わなかった。
 だから、今、何を一番言えば良いのか分からない。
 閃光にも似た、鋭い響きが蟲達の背後で翻った。冗談のように消炭になる石の蟲。湧き上がる埃は、
全て外帝王の屍だ。
 舞い散る骸の向こうに、変わらぬ姿をした彼が立っていた。
 力の抜けた腕の中から、少女が彼に向けて飛び立っていく。




「小父さん。」
 智羽は、力の抜けた男の腕を振りほどき、通路を覆う蟲の一画を灰にした者のもとへと向かった。
立ち込める外帝王の破片の奥で、彼の者が腕を広げて待っている。
 その姿を隠すように、地響き一つ立てずに、灰褐色の蟲達が割り込んできた。舞い上がる仲間の屍
を振り払うように、智羽に向けて大きく鎌のような腕を振り翳す。風鳴りが起こるほどの勢いで振り
下ろされるその手は、風圧だけで少女の細い身体を砕いてしまいそうな勢いを孕んでいる。
 しかし、少女を攻撃した時点で、蟲の敗北は決まっていた。
 今にも振り下ろされそうだった蟲の鎌は、本体ごと灰に変わっている。
 それは、智羽が蟲に対して身の危険を感じ、立ち止まる暇さえ与えないほど、一瞬の出来事だった。
実際、智羽は一度として歩みを止める事なく、自分を待つ者のもとへ歩いていく。そして、その前に
立った瞬間、身を強く抱きしめられた。
「ああ〜っ!遅うなってごめんな!長い間動かしてなかったから、あのおんぼろ宇宙船、何回もエン
ストしやがったんや!奴がさっさと動けばもっと早う来れて、怖い思いもさせんで済んだのに!でも、
もう安心や!この俺が来たからには、お前には指一本触れさせへん!」
 一瞬で外帝王を灰に変えた、白いシャツに黒いエプロンを付けた明らかに仕事を放り出して来まし
た的な出で立ちの小父は、智羽に抱きつくなり、こてこての関西弁でそう叫んで、すりすりと頬ずり
した。彼の黒いエプロンにへばりついている蛸の切れ端が、仕事中だろうという智羽の予想を、図ら
ずも肯定している。
「怪我はないか?ホンマにないか?痛いところがあるんやったらちゃんと言え。よう効くおまじない
したるから!」
「大丈夫です。見事に健在です。」
 ホンマか!と肩を掴み、まじまじと智羽を見詰め、智羽に怪我がない事を自分の眼で確かめると、
彼は再び、良かったぁ〜と智羽を抱き締める。智羽の鼻腔は、さっきから小父から香り立つタコヤキ、
或いはお好み焼きの匂いで満たされている。放置されたそれらは今頃どうなっているのだろうという
智羽の懸念を、小父は汲み取ろうとしない。
「怪我がのうてホンマに良かった〜。嫁入り前の娘を傷物にしたら、俺は腹掻っ捌いてお前のご両親
に侘びなあかん。」
 そうして、智羽の頬に自分の頬をひっつけ、心底安堵したように溜息を吐いた。
 外帝王を灰にしたにも関わらず、それらに対して靴を食む蟻ほどの興味も示さずに捲し立てられる
関西弁は、周囲を呆然とさせた。外帝王達ですら凝然とする中、同じく興味を示されていない男が、
その事に対して腹に据えかねたのか、数回の深呼吸の後、叫び声を上げた。
「あわわわわわわ!」
 全く意味のない、正に注意を惹きつける事だけを目的とした叫び声は、男の狙い通り智羽と小父の
視線を掴み取る事に成功した。しかし男を見た瞬間、智羽を抱え込んでいる小父がその姿のまま凍り
ついたのだが、その理由が男の顔が知ったものであるからなのか、それとも男が奇妙な声を上げたか
らなのか、判断ができない。
 ただ、奇声を発し終えた男が小さく呟くのが聞こえた。
「高遠…………。」
 小父は自分の名を口にした男を、恐ろしく冷えた目で一瞥すると、智羽を抱く腕に力を込めて言い
放った。
「智羽に手ぇ出してないやろな、変態。」
 自分に向けられた第一声に、あんまりなものを感じたのか、男は絶叫に似た声を出した。
「なんもしてへんわ!」
「はっ、どうだか。変態の言葉ほど信用できへんもんはないわ。」
「そんなん差別や!偏見や!」
「やかましいわ。差別されるような事してきた己が悪いんやろが、ボケ。」
 吠える男に、叔父はぽんぽんと冷たい言葉を、凍てついた眼差しをオプションで付け、ぶつけてい
く。その姿を見て、智羽はほぼ確定している推測を、叔父に聞いてみた。
「小父さん、その兄さんと知り合いですか?」
 すると、ぐるんと音がしそうな勢いで智羽に視線を戻した小父は、それはもう素晴らしい笑みを見
せてこう言った。
「何をアホな事を言うんや、智羽。俺がこんな変態と知り合いなわけないやろ。」
 そうですか、そこまで変態って事を知っているという事はやっぱり知り合いなんですね。
 そう思ったが、後光を背負っている菩薩様のような笑みを浮かべる小父にそう告げるのは、いくら
なんでも恐ろしい。
 というか、それよりも。
 眼の端に写った、生き物のように舞い上がる灰。仲間の遺骸を撒き散らして、その中から突き出る
灰褐色の大鎌。今まで、関西弁に圧倒されていた外帝王達が動き出したのだ。
 小父は智羽を抱えたまま、まるで体重のない者のように、ひらりと身を空に踊らせ、外帝王の牙を
掻い潜る。そしてその右手に携えている、光のような粒子を固めた細身の剣で、眼前に迫っていた外
帝王の肩を貫いた。石化しても分子の中に潜り込み、死の牙を弾き返す外帝王が、たった一振りの細
い刃によって、いとも容易く灰に帰っていく。
『おのれ…………。』
 外帝王の声に、はっきりと苦いものが浮かんだ。おそらく、宇宙統括倫理機構などではなく、真の
天敵がこんな処に潜んでいたとは思わなかったのだろう。唾棄するように石の細胞から吠える声は、
崩れる仲間達の姿も相まって、もはや呪詛に近い。
『フロル……フロル………っ!』
『また、こんな処に『番人』を置いていたのか。』
『忌々しい……。その身、その知、全てが忌々しい。』
「忌々しいのはお互い様やろ。」
 恨むような外帝王の言葉に小父は喉の奥で笑い、まだ数十体残っている外帝王の器――蟲達に剣の
切っ先を向ける。彼の身体、そして知識は、本来ならば外帝王を殲滅する為にあると言ってもいい。
彼が手にする剣――『細殺』も対外帝王の為にフロルが開発し、宇宙統括倫理機構に与えた技術だ。
それらは全て、ただ、かつて自らの祖先が破壊できなかった外帝王を、今度こそ完全に滅する為に。
 今のフロルはそれだけの為に存在していると言ってもいい。 
「お前らは、お前らの邪魔をするフロルが忌々しい。でも俺らフロルは、俺らから、お前らを倒す事
以外の存在意義を奪ったお前らが、忌々しい。」
 小父は、まるで他人事のようにそう呟いた。尤も、と彼は智羽を抱え直し、人の悪い笑みを外帝王
に投げ付ける。常に智羽に向ける、あの慈愛深い笑みとは正反対の、心底楽しそうでありながらも冷
酷な笑みを浮かべている。
「今回は忌々しい以前の問題や。」
 宇宙最古の知的生命体の子孫の声は、その肩書きに相応しい、深く底知れぬ声を広げる。
「お前らは俺の射程距離範囲内で、この子を俺から奪おうとした。」
 愛しげに智羽の頬に己の頬を擦り寄せ、しかしその眼は宇宙の果てに漂う氷よりも冷たく。
「俺の、大事な、可愛い、この子を。」
 ざわりと宇宙船の空気が騒ぎだす。外帝王と同じ、空気にすら侵入するざわめきが、一人のフロル
から放たれている。
「恨むんやったら、お前らが狙った宇宙船にこの子を連れ込んだ、あの男を恨め!」
「なんでや!」
 一瞬のうちに外帝王の恨みつらみをなすりつけられた男は、なすりつけた小父に向かって叫んだ。
しかし小父はそんな男を眼に映す事はせず、外帝王に切っ先を向けていた剣を男に放り投げた。反射
的にそれを受け止めた男に、ようやく視線だけを向けると、小父は短く言い捨てた。
「何処に行くにしても『細殺』だけは持って行けって言うたやろ。」
 その言葉を受け止めた男の三つの眼が、大きく見開かれるのを、もう小父は見ていなかった。ただ、
独り言のように呟いただけだった。
「剣を持ってない『剣鬼』なんか、蛸の入ってないタコヤキみたいなもんやないか。」
「その例えは違うと思いますよ小父さん。」
 仕事を放り出して来ている事をすっかり忘れていると思ったのだが、一応タコヤキの事を記憶に焼
き付けているらしい事に安堵しながらも、智羽は小父の誤った例えに突っ込みを入れる。
『剣鬼』という言葉は聞いた事がないが、その名前からおおよその想像がつくというものだ。呆けた
顔をして剣を握る男が、果たして『剣鬼』という名に相応しいのかどうかは分からないが。
 小父もどうやら、男の腑抜けた顔に気付いたらしい。口元と眉間を苦々しげに歪めると、その表情
からはこれ以外の声は出せまいという声を男にぶつけた。
「お前、俺にばっかり戦わせるつもりか。」
 その言葉に、男は更に、ほけっとした顔をする。
「へ?俺、お前が来る前まで戦っとったんやけど。」
見とったよな、と男は智羽に同意を求めるが、智羽としては同意を求められても困る。確かに蟲とは
戦っていたけれど結局その戦いは何の意味もなかったわけで、そう考えると男は何もしていない――
つまり戦っていないという事になる。これは、まったくもって乱暴な考え方だとは思うが、そもそも
私情で宇宙船を飛ばした男が悪いのだから、自業自得というものだ。
おそらく、小父も同じ事を思ったのだろう。ややきつめの眼を一層きつくして、智羽を右手で抱え込
んだまま、ずかずかと大股で男に近づくと、その頬を左手で凄じい勢いで抓った。
「もとはと言えば、お前が組織の宇宙船を勝手に飛ばした事が原因やろが、ああ?その挙句、俺の大
事な智羽にまで手を出しやがって。お前、智羽にもしもの事があったらどないしてくれるつもりやっ
たんや。外帝王に代わって俺がお仕置きしてやってもええくらいやねんぞコラ。」
「なんやねん、最後の『月に代わってお仕置き』みたいなセリ……ふがぁっ!」
 余計な事を言いかけた男は、それを言い終える前に小父の鋭いアッパーを喰らっている。なんだか、
ごきゅっという、顎が外れましたよ的な音がしたが、これも自業自得の一環だろう。智羽に男を憐れ
む心は欠片もない。
「さっさと戦わんかい!せっかくの『剣鬼』の名が泣くで!」
「お前は戦わんの………?」
 顎をさすりながら、男はとりあえず剣を握り直しつつ、小父に尋ねる。小父は一瞬、俺はさっきま
で戦っとたやろがい、と言いたそうな顔をしたが、直ぐに外帝王達の恨み節を思い出したのか智羽を
抱く力を強めた。
「戦うしかないやろが。」
 お前に智羽と俺の命を預けるくらいやったら死ぬ、と言った小父は、同じ口で智羽向けの優しい声
を作る。
「智羽、安心せぇ。俺がお前を守るから。」
「はあ、そうですか。」
 そんな事より、そろそろ外帝王の忍耐が切れそうなんですが、小父さん。
 関西弁の知的生命体のやり取りを見ていた外帝王が、今まで口を挟まなかったのは恐らく永久に分
からない謎だろう。それとも、フロル人の操る関西弁には、外帝王を押しとどめる力でもあるのだろ
うか。
 智羽の考えが聞こえたわけでもあるまいに、今までおかしいくらい止まっていた外帝王達が、示し
合わせたかのように吠えた。一気に膨らむ雄叫びに、先程までの間に吠えていれば、あの不毛な関西
弁の会話をする必要はなかったのに、と思ってしまう。
 可愛がっている少女に、自分達の会話を不毛だと思われているとは露知らず、関西弁の知的生命体
二人は身構える。
 一人は恐ろしく目鼻立ちの整った、赤い三つ目の剣を構えた男。
 もう一人は、智羽を片腕で抱える、宇宙最古の知的生命体の末裔。
 こういうと非常に格好よく聞こえるが、先程の関西弁での会話が、やはり痛い。本当に、どうして
外帝王はもっと早く雄叫びを上げなかったのか。
 智羽がつらつらと考えていると、『剣鬼』と称された男が、智羽と小父の一歩前に出て、地響きを
立てて襲いかかる外帝王の群れを、剣先で一撫でした。そのようにしか見えなかった。だが、ただそ
れだけで一体の蟲に感染した外帝王は灰と化す。
 外帝王が分子に食い込むのなら、それ以下のレベルで切り裂く刃を造ればよい。そうして造られた
『細殺』を手にした男は、確かに『剣鬼』の名を与えられるに相応しい動きを見せた。舞うような動
作で、剣を閃かせるだけで、蟲達は切り裂かれ、そこから入り込んだ『細殺』の更に極小の刃が、小
さき魔王を灰に還す。『剣鬼』が剣と共に舞うだけで、その場には血の代わりに雪のような灰が降っ
た。
「お前、戦ってないやんか!」
 軽やかに舞いながら、男は全く動いていない小父を見て、そう叫んだ。
 動きと言葉が色んな意味で一致していない男に、小父は薄く、うすーく笑う。
「俺は登場した時に何体か倒したからな。それに俺が戦ったら、お前絶対にさぼるやろうが。」
「なんやねん、それ!」
 思わずと言った態で、男は思いっきり外帝王達に背を向けた。剣を構えたその姿のまま、小父に斬
り掛ってきそうだ。その頭上に外帝王に乗っ取られた蟲の大鎌が降りかかっている。
「後ろ後ろ後ろ。」
 小父が、別に切羽詰まった声ではなく、むしろのんびりとした声で男に危険を知らせる。その声が
届くよりも先に、『剣鬼』たる男は振り返りもせずに、肩越しに剣を跳ね上げて、落ちかかる大鎌を
下段から上段へと切り裂いた。
 もうもうと灰が立ち込めた。その中で、唯一『剣鬼』の牙が届かなかった蟲の影が、じりっと揺ら
いだ。その一体にも、当然の如く『剣鬼』は牙を向ける。ここで容赦をする事が、如何に愚かな事な
のか、『剣鬼』が知らぬはずはないのだ。
 しかし、男の構えた剣が外帝王の最後の住処を切り崩すよりも先に、その最後の蟲から呻き声とも
何ともつかない声が零れてきた。蟲の細胞の一片一片に乗り込んだ、無数の外帝王達がざわめいてい
るのだ。  
 呻吟、哄笑、呪詛。それら全てとも取れる声なき声が、確かに蟲の身体から周囲に飛び散っていく
のが分かった。
「逸見、来い!」
 先程まで薄い笑みを浮かべていた小父が唐突にそれを消したかと思うと、空いているほうの手を男
に差し伸ばした。周囲に霧散する外帝王達の気配は徴がなくても分かるのか、男も構えた刃を収め、
立ち込める灰の中から飛び退っている。
 小父の伸ばした手に男が自分のそれを差し込むや否や、小父は智羽と男を抱えて床を蹴っている。
二人分の身体を抱えているとは思えないほどの距離を背後に向けて跳躍した小父の目の前で、今まで
ぴくりとも動かなかった宇宙船の床が突き上がった。かと思うと、今度は壁が波打つ。
 生き物のように収斂する宇宙船の床や壁に、小父が舌打ちする音が聞こえた。
「乗っ取られたな。」
 小父の腰に手を回し、引きはがされないようにする男は、そうぼやいた。
 蟲の身体を捨てて宇宙船に寄生した外帝王は、今やこれでもかというぐらい、新たな身体を波打た
せている。いや、それはもう、最初からそうしておけよと考えるくらいに。
 まるで生物の内臓のように収縮する宇宙船は、いよいよ全体に外帝王を植え付けられたらしい。じ
ゅくじゅくと三人の逃げ場をなくそうと、その身に走る通路を潰しにかかっている。
「………この宇宙船、機構の備品なんやけどな。」
 潰れていく通路を見て、男はぽりぽりと頭を掻く。弁償せなあかんのかなぁと呟く彼に、小父は腰
に回された手を払いながら、忌々しげに言った。
「外帝王に寄生されたら弁償の事なんか考えんでもええやろ。」
 この中で唯一、外帝王に寄生される可能性があるのはこの男なのだ。小父は外帝王にとっては毒で
あり、智羽の血には、その小父の徴が刻み込まれている。
 それを忘れてどうでもいいぼやきを呟く男に、敢えて小父は辛辣な言葉を投げつけたのだが―――。
「…………。」
「な、なんやねん……。」
 突然真面目な顔に深い憂いを乗せて沈黙した男に、小父は狼狽したような声を出した。小父にとっ
て男が浮かべた表情は想定外のものであったらしく、縋りつくように智羽を抱きしめると不気味なも
のでも見るかのように男の美貌を見た。
 男は深い憂いを浮かべたまま――地球にいるありとあらゆる美形がひれ伏したくなるような表情を
浮かべたまま、小父の頬に己の整った手を添えた。ぎょっとして眼を見開く小父に構わず、男は頬に
添えていた手を一度外すと、今度は智羽ごと小父を抱き締めた。
 巻き込まれた智羽は、ふぇっ?!と思ったし、小父は小父で凍りついている。そんな二人を抱き締
めたまま、男は睦言のように囁く。
「…………なんで俺には徴をくれんの?」
 寝屋で女を口説く時のように甘く言われたそれに、小父は確かに呻いた。男と小父の両方に抱え込
まれる事になっている智羽からは見えないが、小父はきっと、苦く顔を歪めている事だろう。
「この子にはあげたのに。」
 男の視線が、智羽に落ちる。
「なんで俺にはくれんの?」
 抑揚のない、敢えてあるというのなら微かな震えのある声に、小父はいよいよ身を固くした。
 徴。
 それはフロル人が生命として進化した上で不可欠な、しかし同時に枷でもあるバチルス・フロリア
の事だ。外帝王の祖先でもあるそれを取り込む事で進化したフロル人の細胞には、はっきりとバチル
ス・フロリアの存在を認める事が出来る。
 外帝王とは違い、フロル人の体内でのみ生息するそれに、稀に他の生命が感染する事がある。そう
してフロル人以外の生命体と共生するバチルス・フロリアの事を、徴と呼ぶのだ。そしてその徴を刻
まれたものは、フロル人と同じく、外帝王の侵入を受けぬ身となる。
 だが、もはや伝説の域に達するその事実が、ほとんど起こりえぬ事実である事を、この男は知って
いるのだろうか。徴が欲しいと訴える男は、それが実は死を飲み込まねば得られぬものだという事を。
 だから小父は、男の訴えに身を固くしたのだ。己の不注意で徴を与えてしまった者が、結果、徴に
耐えられずに死に至った事を、小父は既に経験している。故に他者に徴を与えられないのだという事
を、男は知らないのだろうか。
 醜く収斂する銀の通路を、小父は男の肩越しに見る。このままこれを放っておけば、自分や智羽は
ともかく、この男は間違いなく乗っ取られるだろう。そして―――。
 そこまで考えて、小父ははたと思いついた事があったらしい。未だに自分と智羽を抱いている男に、
ことさら感情を消した声で訊いた。
「おい………今、この辺りの銀河系を管理してるんは、誰や。」
「俺や。」
 その瞬間、凍りついたままの小父が、一気に怒りを烈火の如く吹き上げた。
「おんどれ、なんでそれをもっと早う言わんのじゃ!己が死んだらあの機構は地球を滅ぼすやろがい!」
 男が死ねば、管理の隙を突いた外帝王に地球が感染されるかもしれない。故に宇宙統括倫理機構は、
男が死ねば地球を破壊するようにしている。つまり、今ここでこの男が外帝王に乗っ取られれば、地
球は木端微塵になるのだ。
 己が祖先の残した、今はもうない、しかしその断片があるかもしれない、銀の卵の所為で。
「くっそ……こんなん脅迫や。」
 この男を守らねば地球が滅びるなど。智羽だけ助けて終わりでは済まされないなど。
「脅しや、詐欺や。」 
 しかも、本来の原因は自分の祖先であるが故に、何に怒りをぶつければよいのか分からない。ふつ
ふつと怒りに身を焦がす小父を肌で感じて、智羽は何を今更と呟いた。ただし小父に気付かれぬよう
に。それに、ずっと思っているのだが、どうしてこの宇宙人二人は目の前の敵を忘れる事が出来るの
だろう。地球上ではお目にかかれない生物と化した宇宙船の床は、尺取り虫のように漣を起こしてい
るのに。
 だが、小父は――少なくとも小父だけは――外帝王の事を忘れていなかったらしい。
 おどろおどろしい気配を放っている小父は、その気配と同じくおどろおどろしい声で、自分に抱き
つく男に行った。
「……お前、智羽に手ぇ出さへんやろな。」
「出さへん。」
「傷一つでも付けたら殺すぞ。」
「やから何もせぇへんって。」
 俺は紳士なんやぞとのたまう男に、一瞬、骨の髄まで焼き尽くせそうな視線をくれてやると、小父
は智羽と男を背後で口を開いている扉に押し込めた。
 押し込められた扉の向こうは倉庫のような小部屋であり、何故だかその床と壁はぴくりとも動かな
かった。その場所だけ外帝王の侵食を受けていなのだ。しかしそれを不思議に思うよりも先に、小父
に仔猫のように放り投げられた二人は、その身体の何処に二人分の重さを投げ飛ばす力があったのだ
ろうと思った。
 尤も、それを小父に問いただしたくても、小父の姿は扉によって隠されてしまっている。
 どうやら小父は、行き場のない怒りを外帝王に向ける事に決めたようだ。