幾つもの鎖と枷に縛られたその姿が忘れられない。
 たかだか三百年程度の寿命しかない自分には、彼の過ごす時は悠久にも近い。
 外帝王と戦い、そして共に進化してきた祖先が彼に課した使命は、他の星の生命体から見ればもは
や無効のもので、しかしそれ故にその重さは計り知れない。
 何処にも留まらないように見えた、無属性の彼が唯一拘った星。
 彼の身を沈める為に、星が彼の祖先から与えられた重石は、彼を引き留めるには十分すぎた。
 知らなかったのだ。
 幼い自分には、その細い背中に背負わされた宇宙の歴史が見えなかった。そしてそれを身体に縛り
付ける鎖と枷が、まさか心臓に直結しているなんて、考えられなかった。
 けれど、それは今も同じ。
 彼一人が、あんなものに囚われる必要はないと思っている。
 だから、自分を置いて、この星に自ら吸い込まれていった彼が、分からない。




 だって、そうとしか考えられない。
 信じられないとでも言うかのように自分を見る男の視線に、智羽は溜息を吐いた。
 この男が銀の卵が破壊された事に非難の声を上げないのは、それに縛られるフロルの青年の子孫の
意識に自分の意識を依り合わせているからだ。同情に似て非なるそれは、確かに男が本気で銀の卵よ
りも、そのフロル人に重きを――勝手に――置いている証拠だ。
 宇宙の全てが掛かっている卵よりも一個の命に拘っている者が、その、拘っている命に向ける想い
は、おそらく並大抵のものではない。恐ろしい考えだが、正に恋に落ちた者の情熱と同様のものが働
いている。
 そんな、無駄に有り余る想いが満たされていないから、この男はあんな顔をして見せたのだ。
 途方に暮れた、迷子のような。
 そのフロル人を、この男は何処かで見失ってしまったのだろう。故に、半ば私情で宇宙船を飛ばし
てでも、探しているのだ。
 しかし――――。
「そのフロル人と最後に会ったのって、いつですか?」
「三十年くらい前。」
 三十年間も想いというのは満たされんもんなのか。というか、廃れるだろう普通。なんだ、この、
恋愛映画も真っ青な感じわ。
 薄っすらと宇宙の神秘について思いを馳せていた智羽に、男はずいっと歩み寄る。
「で、お前の番やぞ。」
「は?何が?」
 真っ赤な瞳で見下ろす男の顔を、智羽は怪訝な顔で見つめる。すると、男の米神が、ぴくりと動い
た。いや、米神をぴくりと動かせていいのはこの場合、拉致された智羽であって、間違ってもこの手
前味噌な男ではない。たぶん。
 しかし、智羽の思いなど微塵も汲まず、男は怒ったように――それも智羽の特権だ――乱暴に言い
放った。
「お前の知っとる地球外生命体!」
 そうだった。それが話の核でした。
 だが、と智羽は逡巡する。この男に、『彼』について話してよいものか、と。
 血潮の中で眠る、『彼』が智羽に付けた徴は、男の気配を窺うかの如く、息を潜めている。『彼』
から流れ込んだそれらは、『彼』から離れても未だに『彼』に忠誠を誓っているかのようだ。この男
が、『彼』の周囲を脅かす素振りを見せれば、そして『彼』の意向に逆らい智羽の平穏を壊そうとす
るならば、この徴は稲妻よりも早く、目の前の男を打ち砕くだろう。
 そんな凶暴な徴が智羽に刻まれている事を、目の前の男も違える事なく、あの赤い第三の眼で見極
めている。だからこそ、智羽の知る地球外知的生命体が、フロル人であると見当をつけたのだろう。
 しかし、それ故に智羽は簡単に『彼』の名を口にする事はできない。智羽の血に刻まれた『彼』の
徴は、恐らく、この男を含める宇宙統括倫理機構が嫌悪と恐怖を以て迎え撃つ、外帝王に酷似してい
るのだろうから。それが地球人に刻まれているとなれば、智羽と『彼』の愛する平穏は忽ちのうちに
突き崩されていしまう。だから、みだりに、『彼』の事を知る、或いは知っているであろう者に『彼』
の事を教える事は出来ない。
 如何に『彼』に並々ならぬ情熱を傾けている者であっても。
 というか、そっちのほうが問題だ。刻み込まれた徴を危険視するだけならば『彼』が捻じ伏せて終
わりだろうが、異様な好意とも言える情熱を傾けられた場合、好奇からくる質問攻めから逃げる術は
如何に『彼』といえど不可能に思う。
 その質問攻めの為の説明が―――――――――面倒臭い。
 行き着いた智羽の心境に、身の内で徴がいくつか苦笑し、またいくつかは、ずっこけた。智羽に馴
染んだそれらは、当然のように智羽の思考に相槌を打つ。しかしそのようにしていても、この状況が
彼らの眠りを妨げている。
 ―――やはり。
 気を抜こうとしない徴に、智羽は問いかける。
 ―――やはり、お前達はこの男を知っているのか。
 返事はない。しかし、息を潜めるそれらの仕草が、肯定の意を示している。ならば、余計に説明は
面倒臭い。
 智羽は、今頃、宇宙船でこちらに向かっているであろう小父の事を思い浮かべた。
 自分を引き取り、今も共に暮らしている小父が、その捜し人であるとこの男に知れた時の混乱は、
想像に難くない。
 智羽が今後の事を想像し、げんなりするのと、外帝王に操られた昆虫のような連中が壁を突き破る
のと、宇宙船に何かがぶつかり視界が揺れたのは、ほぼ同時だった。




 何をしているんだ、お前らは。
 智羽は、壁を突き破って、そのまま向い側の壁に激突している節のある巨体を見て、身内に潜む徴
に毒づいた。それらはどうやら、目の前にいる男にばかり気をやっていて、迫りくる侵入者達を忘れ
ていたらしい。血潮の中で徴が土下座をするのが、眼球の裏側に映ったような気がした。そして、あ
たふたと臨戦態勢に入る姿が。
 些か間の抜けた徴の姿の想像図に、破壊された壁からぞろぞろと這い出す蟲達が重なる。あまりの
多さに智羽の気分が悪くなりかけた時、その軍団の前衛が、ギャギャっと悲鳴を上げてのけぞった。
 何事だと思っていると、智羽の身体は赤い眼の男の背後に押しやられてしまった。
 智羽を庇うかのように蟲達と対峙した男の背後から、未だ悲鳴を上げながら身もだえている蟲の様
子をこっそりと伺う。
 蟲達の鋏のような口の両側に、丸い眼が離れて付いている。倒れている蟲達は一匹の例外なく、そ
のつるりとした眼に、何やら鋭い棘のような物が突き刺さっているのだ。
眼に何かが突き刺さるというのは、普通の感覚を持つ者ならば誰しも、それを想像するだけでも嫌悪
を抱くものだ。眼という最も無防備で、しかも攻撃物を見る事ができるという器官だからこそ、その
部分への恐怖は他の部分へのものよりも遥かに大きい。
 しかし、蟲達が騒いでいるのは、そんな単純な攻撃の所為だけではなかった。
 それは、音がしない事がおかしいと思えるような光景だった。
 崩れた蟲達の眼に突き刺さった、何処からともなく現われた細い棘。それを中心として、まるで染
みが広がるように、灰色が蟲の身体を覆い尽くそうとしているのだ。つるつるとした眼からはあっと
いう間に光沢が失われ、何かに抗うように動かしていた口もいつの間にか止まっている。節のある手
足も、その先端にある、ささくれのような外殻一つ残さず灰色に変わっていく。
 灰色の染みが蟲の身体を完全に飲み込んだ時、その巨体はぴくりとも動かなくなっていた。床に倒
れ伏したその姿は、まるで彫像―――。
 そう思って智羽は、今、掌から体液を流している男の事を、一瞬でも原型がアンコウであると思っ
た事を、微かに後悔した。掌をぱっくりと裂けさせて、流れ出る己が体液を蟲達にぶつけた三つ目の
男は、何をどうひっくり返しても、アンコウのような可愛げのある代物ではない。まして、自分の体
液を一瞬で硬化させ、棘のように形作った挙句、突き刺した相手を石化させるなど、地球上の生物で
は不可能だ。この男ではなく、この男と同列に捉えてしまったアンコウに謝りたくなった。
 ねっとりとした自らの体液を、辺りにぶちまける男に、蟲達は恐怖を抱いたようだ。それは、燕の
眼から逃れようとする蜻蛉にも似ている。だが、此処にいる蟲達は、智羽の知る蜻蛉ほど小さくはな
い。男の三つ目から逃れる為に何処かに身を潜めようと思っても、見る者に恐怖を与えるその巨体が
邪魔をして、逃げる事が出来ない。
 畢竟、狭い隠し通路に雪崩れ込んだ蟲は、男の棘に貫かれ、石像としてその後の人生を送るしかな
い。
 しかし―――。
 智羽は石像だらけになりつつある通路を見て思う。
 此処からどうやって脱出する気だ、この男。石となった蟲に通路が塞がってしまっては、命が助か
っても此処から出るに出られないではないか。というか、これだけ戦う力があるのなら、なんでわざ
わざ隠し扉の中に逃げ込む必要があったのか。
 ふつふつと湧き上がる疑問は、騒がしさが消えた静寂音によって打ち消された。
 男の背後から見る事のできる通路は、折り重なり、所々互いの重量で脚や触角を折った趣味の悪い
石造で埋め尽くされていたのだ。正に、智羽が危惧した光景が広がっていた。
 がっくりと肩を落とした智羽に気付かず、腕に纏わりつく自身の体液を拭った男は、蟲達の襲撃に
よって褪せてしまった宇宙船の揺れを、遠い眼をして、
「なんか、ぶつかったな…………。」
 と称した。
 その男の台詞に、智羽は落としていた肩を引き上げた。
 ぶつかった『何か』が何であるか、智羽は知っている。この宇宙船を包囲する、幾重にも張り巡ら
されたセンサをかいくぐる事のできるものなど、今この宇宙船を襲っている蟲共を除けば、ごく僅か
しかしかない。
そして、出来る事なら、この男を置いてその何か――きっとこの宇宙船にめり込んでいるであろう―
―の元に向かい、この男の前から姿を消したい。そうせねば、非常に高すぎる確率で――いやもう、
確率ではなく既に予定運命だ――混乱が起きる。だから、早くこの場を逃げ出したい。が、その為の
逃げ道は蟲の石像で埋まっている。
 この時ほど――この男に拉致された時以上に――己の運命を呪った事はない。
 もしやこれも、フロル人会いたさに練られた男の策略なのだろうかと思いもしたが、当の本人は、
自分が倒した蟲の石像を動かそうとして、上から落ちてきた石の欠片で頭を打ち、呻いている。どう
やら、この状況は男が意図したものではないらしく、単に男のミスによって齎されたものであるらし
い。
 この男、天然ではないのだろうが、ベタなミスをする性格のようだ。
「あかん、動かん!」
 自分で作り出した石像の群れに、彼は遂に根を上げた。なんとなく予想していた結論であるが故に、
智羽も特に何かを言おうとは思わない。ただ、心中で問いかけてみた。
 ―――どうする、と。
 徴からの返事はなかった。それは常日頃からある事なのだが、それどころか血潮の中で騒ごうとも
しない。そんな徴の様子に、智羽は眉を顰めた。気配はあるのだが眠っているわけではない。ただ、
直立不動の軍人のように、ひくりとも動こうとしない。
 もう一度、どうした、と問いかけようとして、智羽はそれを止める事を余儀なくされた。石像に凭
れかかり、あへあへと息を吐いて休憩をしていた男が弾かれたように飛び退り、ついでに智羽の腕を
掴んで引き寄せ、蟲だった者達から距離をとったのだ。
 男に抱え込まれた智羽の上で、男の呻き声が聞こえた。それは先程の、痛みに耐えている余裕のあ
る呻きではない。徹底的に余分なものを削ぎ落した、それ以外に現状の苦さを表現できないという呻
吟だった。
 徴に向けるはずだった、どうした、という問いかけを男に向けようとした時、その答えが返ってき
た。ただし男からではない。彫像と化した蟲達からだ。
 その身を動かすのに必要な節と節の間どころか、おそらく、その身の内にある内臓までもを硬化さ
れているはずの蟲達が、それこそ先程まで動いていた時以上に、滑らかにその身を起したのだ。ただ
し、その身からは不気味なほどに生命の色がしない。
 否―――。
 ざわざわ、と。
 数え切れないほどの鼓動が聞こえる。ただ、それを生命と捉えてよいのかどうなのか。
「やられたわ。」
 苦い声に混じるのは、追い詰められた者だけが零す笑い。男の秀麗な顔に、はっきりと冷や汗とわ
かるそれが伝い落ちる。
「奴ら、既に感染済みやったわけか。」
 時には蛇のように、時には岩のように、変幻自在に動き立ち上がる、石の蟲。だがその動きは蟲と
は言い難い。それはもはや、別の生き物。硬いはずの外殻でさえ柔らかく波打つ時がある。まるで、
細胞一つ一つに別の何かが入り込んで操っているかのようだ。
 そう。それは確かに何かに感染されている。しかも、蟲達を一瞬で石化させた男が身震いするよう
 な、おぞましい何かに。そして、そんなおぞましものは、この世に一つしかない。
「外帝王――――。」
 生命の有無に係わらず、ありとあらゆる物質に忍び込み、それらを支配する極小の魔王。分子レベ
 ルで寄生する彼らには、細胞が石化したところで感染を止める障害にならない。
 ざわざわ。ざわざわ。
 智羽は、男の腕に抱え込まれたまま、蟲達の中で蠢く生命の音に眉根を寄せた。自分の中に刻み込
まれた徴に良く似た音を放っているが、確実に違う鼓動。それは宿主たる蟲の身体を破り、今にも己
の分身を空に巻き散らかしそうだ。そしてこの宇宙船全てに寄生するつもりなのだろう。
 なるほど、確かに宇宙全てに忌み嫌われているだけの事はある。
「あれは、意識にまで潜入してるんですか?」
 男の腕の中で囁くと、ゆっくりと頷かれた。
「ああ………。あれにとって意識を乗っ取る事なんか朝飯前や。意識のある状態であっても配下に置
けるんやから、意識のない――死んだ身体なんか、屁でもない。」
 だから、やられた、と。
 男の力で蟲共が石になる事など、奴らは端から分かっていたのだろう。だが、前もって蟲に忍び込
んでいれば、蟲が息絶えた時に、再び奴らの力で蟲は蘇る―――ただし、奴らの完全なる下僕として。
 呵々と。
 口元に苦渋の、しかしそれでも笑みを浮かべる蒼白の男に、蟲だった者達―――今は外帝王たる者
達が嘲笑を投げつけた。次第に大きくなっていくそれは、遂には哄笑となり、逃げ場のない二人に突
き刺さる。そしてその嗤笑の所々に侮蔑の声が混じっていたらしい。貼り付けた笑みの奥で、男が歯
噛みする音が聞こえた。だが、男は敢えて軽薄に連中に言葉を吐き出す。
「残念。お前らの声は俺には届いても、この子には届かんぞ。」
 いや、別に聞きたくないからいいですけど。
 だが、智羽の想いを無視して、男の言葉を聞いた外帝王はふっと口を閉ざした。そしてわざわざ―
―お前ら馬鹿だろうと言いたくなるくらい、わざわざ地球の言葉で、しかも日本語で喋り始めた。
『そうやって我らと話す事で、味方が来るまで時間を稼ぐつもりか。』
 せせら笑うような口調は、幾つもの声が重なり合っていて、一体何処から聞こえてくるのか分から
ない。というか、この男みたいに関西弁じゃなくて良かった。連中まで関西弁だったら、きっと、こ
の場の緊張感は、地に堕ちる。
 そんな恐ろしく緊張感に欠ける事を考えながら、智羽は、笑顔を消さない男の顔を見上げる。外帝
王に時間稼ぎと揶揄された軽口に対し、彼は如何に切り返すつもりなのか。
 が、彼は切り返すつもりなんぞ、毛頭ないようだ。
「はっ、時間稼ぎ?私情で飛ばした宇宙船に援軍が来るわけないやろ!」
 いっそ清々しいほど堂々と言ってのけた男に、智羽はもう慣れてしまった。公用の宇宙船を私情で
飛ばした時点で、男の味方はこの宇宙からは消え去っていたのだ。
 ただ―――
 男は知らないだろうが、直立不動の徴が、外帝王の言葉が強ち間違っていない事を示している。そ
の事に、自分と一番近いはずの外帝王は気づいていない。
 ざわざわ。ざわざわ。
 こんなにもある鼓動のどれ一つとして、自分に近しい鼓動に気づかないのか。
 だからこそ、奴らはこんなに哄笑していられるのだ。嘲笑の声は、止まらない。
『いずれにせよ、貴様らが我らの新たな器になるという事実は変わらない。』
『どれだけ仲間を呼ぼうとも、器が増えるだけの事。』
『我らは全てに潜む意志。』
『誰にも我らの侵入を阻む事は出来ぬ。』
 ざわざわざわざわ。
 自由に動く肉体を持たない宇宙の帝王は、無数の声を宇宙船の中に響き渡らせた。全てに入り込み、
全てで存在できる彼らにとって、たった二つの生命体など、小指の爪先ほど――いや、それ以下の大
きさのコロニーを体内に侵入させれば、後は如何様にもできた。
 宇宙船にいるのが、たった二つの生命体であったなら。
 智羽の体内に刻まれている徴。それらもまた、無数の生命体であるが、しかしそれらを除いても、
この宇宙船にはまだ、生命体が存在している。智羽が、外帝王が時間稼ぎと言ったのは間違いではな
い、と思ったのは、それ故だ。
 外帝王は、騒ぎで掻き消されてしまった宇宙船の揺れを忘れてしまったのか。その揺れが、何によ
るものなのか、考えようとは思わないのか。それとも、そこからやってきた何者かも、乗っ取る事が
出来ると考えているのか。
 だとしたら――――
 見くびりすぎている。
 あの人を。
 彼は、もう、すぐ後ろに迫っている。