『私達が大人になったら、きっと戦争のない星にして、地球をもっともっと、大切にするわ。』
 二十年前、男はひとりの少女と約束をした。
 打算の響きのない言葉は今でも耳に残っている。他人の名前を積極的に覚えようとしない男だった
が、その声の広がりに惹かれ、更に女好きの性分も手伝って、心の中にその名前を書き留めた。そう
でもなければ、わざわざ地球を抹消させるのを先延ばしにしたりはしなかっただろう。
 けれど、それは結局無意味な事だった。
 二十年後、再び眼にした地球はほとんど変わっていなかった。いや、むしろ悪化していた。しかも、
己の病の原因が分かっているのにその原因を断とうとしない性質の悪い患者のように、だらだらと争
い事を繰り返していた。
「別に、期待なんかしていなかったけどな。」
 そう。少女の声に心打たれるほど女好きではあったが、それで地球の今後に希望を持つほど男は考
えなしではなかった。地球という名前の星一つの所為で宇宙全体の秩序が乱される恐れがあるのに、
少女一人の声如きで判断を狂わせるほど、男は愚かではない。地球という星が嫌いなわけではないが、
地球以上の美しさを持つ星も多々あるのだから、惜しむつもりもなかった。己の立場と宇宙の秩序が
かかっているのに、たった一つの星の破壊を躇う理由など何処にもない。
 けれど、あの少女以外にもう一人、男が地球を破壊するのを躊躇させる者がいた。
『この星は、俺も見た事のない、今はない祖先の故郷に似てる。』
 男が宇宙連邦の研修の為に初めて地球に来た時、彼を受け持った教官は、緑の毛糸のような山々を
見て、そう言った。
 地球の人類と全く変わらぬ外見を持つその教官は、宇宙で最も古い文明を持つ人類の末裔だった。




 今までの安定感が嘘のように激しく揺れる宇宙船は、さながら乱気流の中にいる飛行機のようで、
あまりの揺れに智羽は立っていられず、そのまま倒れそうになる。反転する視界の中で、白い床が
物凄い勢いで迫ってきた。顔面からぶつかると思った瞬間、今度は床から引き離された。
激しい揺れの中、微動だにせずにいた男が智羽の腕を掴み、床に叩きつけられる前に引き上げたのだ。
 智羽を抱えた男は、突然の警報と揺れに戸惑いを見せたもののすぐさま立ち直り、赤い眼を吊り上
げて警報の鳴る宇宙船の中、一人声を響かせた。
「―――−−――−−−!」
 響いた声は、聞いた事のない音の羅列だった。発音の仕方も声の抑揚も、地球上のそれとはかけ離
れている。響き渡る男の声に答えるように、何処からともなく無機質な音が落ちてくる。しかしそれ
もまた、智羽には理解できない音色だ。
 智羽には加わる事のできない、理解できない声の応酬の最中、何もない虚空に突如としてオレンジ
色の輝線が引かれる。時には折れ曲がり、所々謎の模様を残していくそれが全て集まった時、この宇
宙船の大まかな設計図である事が分かった。点々とまぶされた模様は、宇宙船の異常個所を告げる文
字なのだろう。 自分達の現在位置と思われる点から離れて右端で、異常を知らせるようにそれが点
滅している。
 とはいっても、智羽には何がどう異常なのか分からない。長く続く揺れは確かに異常なのだろうが、
だからそれがどうなのだと聞かれても困る。とにかく智羽にはこの宇宙船の造りどころか、至る所に
刻まれている文字すら理解できないのだ。
「兄さん兄さん、何が起こったのか私にも教えてくれませんか。」
 智羽は男の腕に抱え込まれたまま、その端正な顔を見上げて、とりあえず日本語で話しかける。先
程までふざけたように関西弁でしゃべくっていた男は、その片鱗すら窺えないような厳しい顔つきで
宇宙船の内部図から眼を逸らさずに、口を開いた。
「船尾に何か突っ込んだ。」
「突っ込んだ?」
 宇宙空間に漂う星屑でもぶつかったのだろうか。
 すると男は、それやったらぶつかる前に気づくわ、と呟いた。それにしてもこの男、何故日本語を
関西弁で覚えているのだ。
 智羽の至極真っ当だがどうでもいい疑問は、男の声にかき消される。
「俺らクラスの宇宙船には、基本、宇宙船から何メートル以内に何かが入ったら分かるようにレーダ
ーが仕込んである。で、そいつに対して自動で警告なり何なりする機能がある。味方やったらパスを
提示して通す。敵、或いは漂流物やったら数回の警告の後に爆破する。」
「漂流物が重要なものだったら?」
「爆破の前に一回スキャンするわ………って、それは別の話やろ。」
「はあ。つまり星屑なら警告に引っ掛かって爆破されるから宇宙船にぶつかったのは別の何かである、
と。」
 話を僅かに逸らされて少し機嫌を悪くした男を無視して、智羽が男が言いたかったであろう事を述
べると、彼は機嫌の悪さを一転させて、お前賢いなあ理解が早うて助かるわと智羽を褒め始めた。こ
の男の相当の調子の良さは作られたものではなく、関西弁同様、自前のものであるらしい。
「でも星屑にぶつかってないんだとしたら、それって相当危ない状況なんじゃないんですか?」
 調子に乗り続けている男を現実に戻って来させる為に、智羽は異常事態の危険度を訪ねてみる。す
ると、男は至極真面目な顔をして頷いた。
「うん。ほんまに危険や。」
 宇宙船の迎撃をくぐって激突したのなら、それは迎撃を躱すほどの速度と制御を持った物質であり、
即ち何らかの意思が働いているものだ。或いは、宇宙船の警備網をかいくぐるほどの偽装がされたも
のならば、やはり何らかの意思が働きかけている。それは間違っても味方ではない。明らかに、意図
的な悪意をもってこの宇宙船に追突したのだ。
 しかし、それを知っても、そして赤く点滅する警報の下にあっても今一つ緊迫感が湧かない。
 ――――何故だ。
 眼の前には端正な顔を真面目に固くしている男が一人。
 しかし――――。
「こんな事しでかす奴、そんなにおらんから犯人の予想はつくんやけどな。けど、その予想のつく相
手やったら、最悪や。」
 口から放たれる言葉が関西弁の所為か、真面目さが三割引きである。この緊迫感のなさは、恐らく
彼の流暢な関西弁にある。
 何故この男は日本語を関西弁で覚えたのかともう一度心の奥で問いかけた後、智羽は男の赤い眼を
見上げた。
「その、予想のつく相手っていうのは?」
 訊いた後、そういえばまだ抱え込まれたままである事に気づき、もぞもぞと男の腕の中から抜け出
す。男は温もりの消えた自分の腕を見て、少し――というかもの凄く残念そうな顔をしたが、それで
も智羽の質問には答える。残念そうな顔を正して、その端正な顔を笑みに歪めて。
「宇宙の落とし子にして、最狂の混沌。不定形であり盲目であるが故に、傀儡たる万物の支配者。姿
を持たぬ、忍び寄る暗闇の大帝。そして奴らの毒呀に跪く奉仕者ども。」
 歪められた艶美な唇から吐き出される言葉の羅列は理解しがたい、しかし理解せずともそこに含め
られた悍しさを感じさせるには十分なものだった。
 不気味さに眉を顰めた智羽をなんと受け取ったのだろう。男は歪めた笑みを少し薄め、敵の名を口
にした。
「我々、宇宙統括倫理機構の敵―――宇宙の秩序を乱す事を良とする者達。『外帝王騎士団』。」
「外帝王…………?」
 聞かぬ言葉に智羽の眉間の皺は一層深まる。その皺をほぐすように、男の細い指がうっとりと智羽
の額から鼻梁にかけてをなぞる。その眼差しは何かを憐れむように光っている。それが悍しい相手と
出会ってしまった者へのものなのか、それとも無知な者へのものなのか、智羽には判断できない。
「下っ端どもやったらええんやけどな。でも最悪の相手である事は間違いない。」
 奴らがそれら全てを乗っ取っている可能性があるから。
 男は歪めた笑みを消そうともせずに、痙った血の跡のような現状の危機を告げる。だが、彼は綺麗
に歪めた笑顔を崩そうとはしない。余裕だから、ではない。おそらく、笑おうが軽口を叩こうが意味
がないほどの状態であるからだ。即ち、笑うのを止めたところで、どうにかできる相手ではないのだ。
「――――どうするんです?」
 智羽は収まらない赤い警報を見つめながら、男に尋ねた。
 宇宙統括倫理機構と外帝王騎士団とやらの対立がどうなっても構わないが、宇宙の藻屑となるのだ
けは勘弁願いたい。小父の口癖ではないが、死ぬ時はこんな硬い宇宙船の爆撃の中でなく、畳の上が
いい。
 歪んでいた男の横顔が、すっと元に戻る。何かをその視界に捉えようとするかのように、ある一点
で硬直した視線が、ぐっと引き締められる。寒気がするほどの秀麗な表情を面前に押し出し、男は智
羽はの肩を抱いた。警戒の赤に染めた顔の中、引き締められた眼が一際強い、血潮を凍りつかせたよ
うな赤を放っている。
「もしも俺が此処で負けるような事があったら――――。」
 精美な顔は、もはや氷の華の化身と言っても過言ではない。
「俺は死ぬ前に、地球を破壊する。」
 それが戦いの合図だった。