宇宙の片隅で未だ閉じた世界よ、いざ、その眼を見開け。








 眼下に広がるのは、紛れもなく己の故郷たる青き惑星だ。
 常ならその青さを感じる事が出来ないほど身近にいるはずなのに、今は見上げているはずの銀の衛
星のほうが近い位置にある。故に、他者の介入を望む事はできない。
 篠宮智羽は宇宙の闇を視界に捉えながら、今現在、自分が戦わなくてはならない相手と対峙した。




 智羽は学校へ行く途中だった。
 彼女の通う中学校は家から決して遠くはないが、それでも徒歩で15分はかかる。そして智羽は、途
中で寄り道をしても十分に間に合うほどの余裕をもって家を出たわけではない。
 窓の外でくっきりと青く輝く星を見下ろしながら、絶対に遅刻だ、と不気味なほど冷静に思った。
 今から全てを終わらせて学校に向かうには、登校の時間だけでは到底足りない。一時間目の授業に
も間に合わないだろう。ましてや自分の様子を見ている男の雰囲気からして、簡単に帰してくれると
は思えない。
 そもそも智羽は間違いなく中学生だ。
 親の転勤で日本各地を転々とし、小学二年生の時にその親を事故でなくしてから血の繋がりのない
『小父さん』と一緒に暮らしている、他の中学生と比べると若干濃い人生を歩んできたが、それ以外
は普通の中学生である。したがって、こうやって宇宙空間に――というかおそらく宇宙船らしき物体
の中に連れてこられるという状況は、あからさまに不自然だ。
 しかも明らかにこの宇宙船は地球の、少なくとも日本のものではないだろう。宇宙船の中で普通に
歩ける、すなわち一定方向に対する重力制御ができる技術など聞いた事もない。つまりこれは、どこ
ぞの大国が機密裏に作り上げた宇宙船というものが存在しない限り、別の星からやってきた方の乗り
物と考えて差支えないだろう。まあ、持ち主は自分を見ている男だろうけれど。
 しかしどうすればよいのだろう、この状況。
 普通なら喚き立てる茫然自失しそうな状況で、智羽はいたって冷静だった。しかし如何せん、冷静
なだけで打破できる状況とはとても思えない。第一に考えるべき事は無事に家路に着く事なのだろう
けれど、中学生の身分では宇宙から地表に戻る手立てなど持っているはずがない。間違いなく、智羽
の帰還は目の前の男に委ねられている。
 蛍光塗料を塗っているというには、あまりにも白々と輝く床と壁に照らされた男は、智羽が家のあ
る地表でいつも見ている人々とそう変わらない背格好をしている。ただ、東洋人に多い黒髪の下にあ
る顔は、不気味なほど整っている。テレビに出す為に、大して美しくもないのに作り上げられたアイ
ドル達よりも、遥かに端正な顔をしている。
 化けているのか―――それとも本当に、アダムスキーが見たと主張していた金星人のように、同じ
人間の、しかも美しい姿をしているのか。
 見定めようとしている智羽の前で、男は薄いが奇麗な曲線を描いている唇を開いた。
「久し振りやな、よしこ。」
「初めまして、どちら様ですか、兄さん。」
 流暢な関西弁で、あたかも知り合いですと言わんばかりの台詞を吐いた男に、智羽ははっきりと初
対面である事を告げた。
 男の反応が数拍遅れた。
 彼はひくっと片頬を上げると、再びさも知り合いですと言わんばかりの台詞を吐いた。
「よしこ、お前、俺の事忘れたんか。」
「何の話でしょう、兄さん。私の名前は『よしこ』ではなく『さとは』ですけど。」
 自分が口にした名前とは似ても似つかぬ名前を出されて、男は眉間に皺を寄せた。そして智羽が間
違っていると言わんばかりの台詞を更に吐き出す。
「お前は二十年前、俺とこの宇宙船で会うたはずや。」
 今度は智羽が頬をひくつかせる番だった。
 二十年前。残念ながら智羽はその時この世に生まれてすらいない。その輪郭の断片さえ存在しなか
った。そう告げると男は眼を見開いた。
「そんなはずあらへん。俺は二十年前、確かによしこをこの宇宙船に連れて来た。」
 つまり二十年前も同じように宇宙船で人間を拉致したわけか、この男は。
 いやそんな事よりも、『よしこ』が何歳の時に拉致したのかは知らないが、もしも智羽と同年齢の
時に拉致されたのならば、彼女が――おそらく名前からして女性だと思うのだが――地球上の生命体
である以上、当時のまま年格好をしているはずがない。
 この男、まさかそんな事も知らないのか。そんな事も知らずに、地球にやって来たのか。
 智羽の少しばかり憐れむような視線に気づかずに、とりあえず自分が犯した間違い――つまり人違
いに気付いた彼は両手を頭に当てて、混乱したような叫びを上げた。
「じゃあ、俺が二十年前に約束をしたよしこは何処に行った?!」
 知らん。
 美形が顔を滑稽に崩している様子を尻目に、智羽は腕に嵌めた時計をちらりと見て舌打ちした。九
時十分。完全に遅刻だ。
完全なる人違いで地球外に連れ出されるなんて事は、きっとどんなSFでも起こらなかっただろう。と
いうか想像も出来ない――むしろ想像して物語にするにはあまりにも間抜けな理由だ。
 しかし事実は小説よりも奇なりと言うか、実際に起こってしまった。関西弁を操る男前の何処かの
星の人によって。
「とにかく帰していただけませんか。」
 宇宙船の窓に頭をぶつけて己の手違いから眼を逸らしている男に、智羽はそう告げた。とりあえず、
地球に帰りたい。遅刻は仕方がないが、いつまでも此処にいてももっと仕方がない。
 しかし自己嫌悪から逃げている男にとって、智羽のそんな態度は非常に癪に障るものだったらしい。
男は少女を涙目で――人違いくらいで泣くな――見つめると、言い掛かりと言うよりも八つ当たりに
近い言葉を吐き出し始めた。
「初めて宇宙に来たんやったらなんでそんな落ち着いてられるんや。知らんうちに宇宙船に乗せられ
て自分の住んどる星を見下ろしたら、普通もう少し慌てるやろ。それで俺の素性を聞くやろ。やのに
自分、そうせえへんかったやん。むっちゃくっちゃ落ちついとるやん。そんなん、一回此処に来て俺
の素性を知ってる――知り合いやって思うやん。それとも何や?この星は宇宙旅行で他星人に会える
ほど、航空技術が発達しとんのか?」
 残念ながら、地球の宇宙関連技術はそれほどまで高くはない。宇宙旅行が出来ない事はないが、そ
れはせいぜい月の裏側を回ってそのまま地球に帰還するだけのもので、それだけでも百億近くの金が
かかる。他の星の人間に会えるなんて、とてもではないが出来ないだろう。
 しかし宇宙旅行が無理だからと言って、智羽が故郷の星を見下ろして驚嘆する、或いは愕然とする
必要はない。ましてやそれが、男が人違いした理由になろうか、いや、ならない。もっとも男は執拗
に、だから『よしこ』と間違えたと言っているわけだが。
 というか『よしこ』とは一体誰なのだろう。
 智羽の中にむくりと疑問が湧き上がる。否。ここは突っ込むべきところではあるまい。突っ込めば
きっと地球帰還は難しくなる。放置しよう。
智羽が賢明なる判断を下した瞬間、男の『まあ、ええわ』という言葉が聞こえた。何が良いのかと思
う暇もなく、宇宙空間とそこに散らばる星の輝きを映していた窓にいきなりシャッターが下りた。
 外界の星の光を断絶するように完全に閉ざされた窓から身を放し、何、という思いを込めて男を見
やると、先程まで普通の東洋人の黒眼を模していた瞳がいつの間にか紅玉のような輝きを呈している。
 何事だと思ったのは一瞬の事。おそらくこちらが彼の正しい瞳なのだろう。地球外の星の人間たる
彼の眼は、アルビノの持つ眼よりも遥かに紅い。その眼に浮かぶのは、凍りついた血だまりのように
冷たい何かだった。
「ま、別によしこを捜さんでもええんや。よしこがおってもおらんでも、よしこが約束を守らんかっ
たのは確かなんやし。」
 どういう事なのだろう。異様に抑揚のない声が紡ぐ言葉の意味に智羽は眉を顰めた。いや、それ以
上に男の背負っていた空気の変化に。
 普通の人間ならば思わず後退りしそうな気配を湛えた男は、その端正な顔から全ての表情を消して
機械のように感情のない声を、誰に聞かせるというふうでもなく放った。
「七百三十二銀河系五十四エリア八十九系第三惑星アース。宇宙倫理規定のうち九百二十一項目にお
いて不備。更に二十年の猶予を無視した事から矯正は不可能。よって宇宙環境に悪影響を及ぼすと見
倣し、宇宙統括倫理機構管理局支部長の権限において、アースの完全消滅を許可する。」
 鋼鉄のような声が放たれると同時に、それを引き裂くように赤く回転する光がけたたましい音と共
 に降りかかってきた。赤く染められた男の顔の中で双眸が驚愕に見開かれるのを認めるや、宇宙船
 の床と壁に振動が走り、智羽の視界は反転した。