何故、こんなところに。
 青年は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、最もな疑問を脳裏に閃かせる。まさか何か仕出かそう
というのか、と。
 テロリストの存在に気が付き、身を固くした青年のもとに、何も知らない車内販売員の女性が、ワ
ゴンを押しながらやって来る。金の髪に青い眼、白い頬には微かにそばかすが散っている。まだ若い
――もしかしたら自分よりも年下かもしれない少女と言っても差し支えない彼女は、青年のもとに来
る前に、紅茶色の髪の若者のもとに辿り着く。
「イズヴィニーチェ。」 
 流暢なロシア語が、少女を呼び止めた。その声に応じて、少女は歩みを止める。笑みを浮かべて客
を見るその眼には、何の不安も浮かんでいない。自分を呼び止めた目の前の紅茶色の髪をした若者が、
テロリストであるなど微塵も想像していない表情だ。
「ロシアン・ティを頂けますか?」
「はい、ロシアン・ティでございますね。かしこまりました。」
 少女の受け答えがなされている間、青年は身を固くしていた。いや、あの若者が、だれかと接触す
るたび、こうして身構えてしまうだろう。
 この人気のない寒々とした列車の中、まるで善人のように振る舞っているが、あれの本性はそうで
はない。そしてそれを知っているのは、自分だけなのだ。
 もしもあの若者が、少しでも怪しい素振りを見せたなら、こちらが変人奇人扱いされることを覚悟
で、最悪逮捕されることも覚悟して、止めなくては。
「スパシーバ。」
 若者が、柔らかに感謝の意を伝え、美しい陶器のティカップに入ったロシアン・ティを受け取る。
それ以上は、何の素振りもない。少女にも、何か妙なことをされた様子はない。ほっとして肩の力を
抜いた青年のもとに、今度こそ販売員の少女がやってくる。
 先程、あの若者に入れたばかりの紅茶の匂いがまだ残っているのか、仄かに薫り高い匂いがする。
「あ、すいません。」
 放っておけば通り過ぎてしまう少女を呼び止める。はい、と不安のない笑顔を見せた少女には、や
はりおかしなところはなかった。しかし、それで安堵していてはいけない。呼び止めた以上は何か頼
まなくては。
「あ、ええと、お茶いただけますか?」
「お茶、ですか?」
 少女が少し眼を瞬かせる。
「紅茶でしょうか、それとも緑茶でしょうか?烏龍茶もご用意していますが。」
 そうだった。一口にお茶と言っても、種類は最低でも三つはある。此処にほうじ茶やら玄米茶、麦
茶をいれると更にとんでもない数になる。大体、さっきの若者はきちんとロシアン・ティと種類を限
定していたのだから、自分もそうしないといけないのだ。
「緑茶、緑茶ください。」
 慌てて言うと、はい、と少女はにっこりと笑い、陶器のポット――急須ではないのか――からティ
カップ――こちらも湯呑ではない――に緑茶を注いだ。西洋式に上品な緑茶の誕生である。
 ありがとうございます、と口の中でごもごも呟いて、カップを受け取り、フリルのたくさんついた
エプロンを纏う少女の後姿を見送る。彼女を呼び止めたのは、この車両の中では自分とテロリストの
若者だけのようだ。
 青年は、白い陶器の中に満たされた緑茶を啜りながら、湯気越しに紅茶色の髪の様子を窺う。販売
員と青年のやり取りは、特にあちらの興味を惹くものではなかったのか、こちらを気にする気配はな
い。けれども、だからといってこちらに気が付いていないとは限らない。
 あれは――あのテロリストは、そんな手ぬるい存在ではない。おそらく、世界で最も危険で凶暴で、
軌道というものを持たない者達。それが、あのテロリストの所属する組織だ。
 闇だ。
 光があれば闇もまた存在する。
 間違いなく、あのテロリストは闇に当たる。
『嘯』について調べ、事態の打開を目指そうとするものがいれば、その逆――『嘯』によって巻き起
こる災いを、金儲けのネタにする輩もいる。そういった輩は、戦争を煽り立てる連中と同じように表
舞台には決して出てこないが、国家団体が水面下で、テロリストとして追いかけるものだ。そしてそ
れを援助する役割を担っていたのが、青年の所属していた機関でもある。
 ウェード財団、という。古い英語で『人を前進させるもの』という名を持つ創始者が、その名に示
す通り、『嘯』に襲われる世界であっても、なんとしてでもその先に進まんとする為に作り上げた団
体だ。青年も、その志に共感して、つい先頃までは所属していた。
 あらゆる国家団体に影響を及ぼせるほどの力を持つウェード財団は、故に『嘯』を金儲けと見做し
て、弱者から金を巻き上げ、或いは『嘯』に怯える人々を扇動する輩についても、それなりの情報を
持っている。
 混乱に乗じて悪事を働く連中の大半は、協力者もいない、いてもすぐに仲間割れを起こすような者
だ。そういった連中は、普通の警察でも対応できる。そうでない連中――組織的に、詐欺や殺人はた
だの手段で最終的な目的は国家の転覆だとか、大それたものを掲げるテロリストにこそ、ウェード財
団は心血注いでその身柄を追い詰める。
 あの、紅茶色の髪を纏め上げた人物も、ウェード財団が血眼になって捜し、その頭上に鉄鎚を下そ
うとしている――いや、それどころか今や全世界で最も危険視されているテロリストの幹部だ。
 普通のテロリストのように、ロケット弾を民家に撃ち込んだり、無辜の市民を、バスや列車の爆発
で殺害するようなテロリストではない。麻薬を延々と垂れ流したり、武器を売り捌いたりして資金を
得ているわけでもない。
 名もなき、何が目的かも分からないそのテロリストが、一番最初に世間の前に姿らしいものを見せ
たのは、六年前のサラエボだという。
 かつて中東の火薬庫と呼ばれ、そして長引く戦争の引き金となった事件の舞台でもあるその土地は、
何の因果か再び一つの時代の幕開けとなったのだ。
 その時はまだ学生であった青年も、あの混沌としていた事件のことは覚えている。マスコミもメデ
ィアも、何を報道すれば良いのか分からない、といった異常な事件だった。そもそも事件の発端は、
イタリアのミラノで会合している欧州の首脳を、幾つもの全く異なる組織のテロリストが襲い、誘拐
したことにある。我先にとミラノで爆破テロを起こし、その混乱に乗じて会合が行われているホテル
に突撃、数人の政府高官が誘拐して、テロリスト達は何処か――のちにサラエボと分かるのだが――
に潜伏したのである。
 その後、幾つかのセクト的なテロリスト組織が、今回の犯行が自分達の起こしたことであると声明
を出した。そして、身代金の引き渡しと、既に投獄されている自分達の仲間の開放を要求してきた。
ここまでは、有態に言ってしまえば『良くある事件』であった。
 テロリスト達の要求に対し、人質を取られた各国が膝を折らず、その要求を一蹴したことも、従来
のシナリオ通りだった。
 テロリスト達は自分達の要求を跳ねた国々に対し、見せしめ、と称して人質を殺害する動画をネッ
トに上げた。これも、テロリストの常套手段だ。ネット動画というものが蔓延し始めた頃、テロリス
ト達はこぞって、自分達のパフォーマンスをネットに上げるようになったという。
 けれども、今回ばかりはそれは上手くいかなかった。
 殺害の動画は確かにネットに上げられた。
 だが、殺されたのは人質だけではなかった。
 各国の政府高官を誘拐したテロリスト達も、その動画の中ではあっさりと殺されて事切れたのであ
る。テロリスト達が人質を殺し終わったその直後、テロリスト達の首は、胴体から離れていた。
 まるで何が起こったのか分からない、という表情をして頽れたテロリストの真後ろで、うっとりと
首を傾げた、月のように美しい銀髪の男が立っていた。その手は両方とも真っ赤な手袋をしていた―
―いや、血に濡れていたのだ。
 ――ああ、まるで何が起きたのか分かっていない顔だな。
 動画の中央で、得も言われぬ調べで、彼は喋る。
 ――ん?もちろんこの動画を見ている諸君もだ。君達はまるで何が起きたのか分かっていない。
 ――いいかね?このテロリストどもは私がたった今、完膚無きにまで破壊した。
 ――だが、勘違いしないように。私は同時に政府高官とからも始末した。
 真っ赤な唇が妖しく蠢き、吐く吐息には艶が込められているかのよう。喋っている間も瞬きする瞼
は仄かに紅が差しており、蝶の羽ばたきのようだった。
 妖艶で、しかし月のような清純さを保つ男は、全てに向けて宣言したのだ。
 ――わかるかね?
 頑是ない子供に言い聞かせるかのように、女を口説き落とすかのように
 私は君達の敵だ。
 後に、サルバドールという名で呼ばれる男は、甘く囁いた。