吸い込めば、つん、と鼻の奥を痺れさせるほどに空気は凍てついていた。声を上げれば、その端か
らぱきぱきと凍り付きそうなほどの寒気は、大地を雪ではなく氷で覆っていく。
 あまりの冷たさに、空気は何処までも遠く澄み渡っていそうな錯覚を覚えるが、実はそうではない。
見上げた空は鈍い色に覆われており、今にも埃が舞い落ちてきそうな表情をしている。もしも晴れ渡
っていたならば、それこそ空の果てさえ見渡せたであろうに。
 生憎の空色を見上げ、深い赤色の髪をした青年は溜め息を吐いた。
 赤毛といっても明るいほうではなく、むしろ焦げ茶に近い――強いて言うならばボルドーワインの
ような色合いの髪を揺らし、青年は窓の外を先程から眺めている。一見すれば何処にでもありそうな
トレンチコートを羽織っただけの服装に、黒のボストンバッグ一つという、随分な軽装だ。あまりに
も身軽な服装に、時折通路に立って身を解したりする人々が、彼の姿を眼に入れるたびに呆気に取ら
れた表情をする。
 この列車が、単純に数駅のみに停車する特急列車だというのならば、青年の軽装備も別におかしく
はなかっただろう。
 しかし青年が乗る列車は、ただの特急列車ではない。
 今、凍てついた大地を果敢にも横断している列車が走るレールは、史上最長と謳われるシベリア鉄
道のレールなのだ。
 列車の中は暖房が付いているが、隅々に行き渡るほどではなく、何処か肌寒さが残る。ふとした拍
子に、全身を鳥肌が駆け巡るような温度だ。列車の中はトレンチコートで事足りるかもしれないが、
一度列車から降りれば、骨の髄まで凍ってしまうだろう。
 どれだけ世界が乾いても、北国の凍えというものは、変わらないらしい。
 青年は、黒い眼に深い憂いを湛えて、外に砂をこびり付けた窓ガラスに髪を擦りつけた。
 世界は渇きに向かっている。
 それが分かったのは、青年が産まれるよりもずっと前のことだ。ずっとずっと前から、そういう警
告は出ていた。渇きが世界を襲っている、というのは明確ではないにしろ、何らかの危機は確かに迫
っていた。だが、その警告を受け取らず、ずるずると先延ばしにし続けたツケが、今の世界だった。
 空は常に雲――いや、巻き上げられた煙と灰と砂に覆われ、本来の空の色は何処にも見えず、そし
て光差さぬ空からは、徐々にではあったが雨も降らなくなった。代わりに、ひたすらに大地が砂と灰
に変わり、風に巻き上げられたそれらが空から地面へと再び舞い落ちる。
 当初は遠い、未だ近代化の伴わぬ国で起きている災いであったが、それは今や氷と雪に覆われた国
にまで広がりつつある。昼間見た停車駅では、まだ氷が床や壁を覆い尽くしていたから、砂と灰が席
巻するには時間がかかるだろうが、しかし遠くない未来、この地もくすんだ不毛の土地に変わるだろ
う。
 仮に、砂と灰の触手が伸びるのに時間がかかっても、空からは何の脈絡もなく、無慈悲に、平等に、
全てを奪う海がある。
 青年は東洋人特有の黒い眼を、窓越しに閉ざされた空へと向ける。あの、暗い空の向こう側に、そ
れが渦巻いているのだ。
 嘯。
 人々は、空に渦巻く海のことを、そう呼んでいる。
 いつ、何処で、それが発生したのかは誰も知らない。一説によれば、それは渇きが始まった時に生
み出され、渇きが加速すればするほど巨大化するのだという。数多くの学者や国の機関がそれが一体
何物であるのかを調べようとして、しかし未だに分からぬままの存在。
 分かっているのは、それが激しい渦を持つ水の塊であるということ。その水の塊は、時折訪れる雲
の切れ間から姿を見せる時、空を横断するほどの巨大さであるということ。その水は恐ろしいほど透
明なのか、砂と灰の向こう側にある空本来の色を、はっきりと映し出しているということ。そして、
唐突に――時間も場所も何一つとして定めず、地表に激しく降り立ち、その周囲にある物全てを飲み
込み、そして再び空へと戻っていくということ。
 それだけだ。
 青年も、かつてはそれを調べようとしていた。いや、かつて、ではない。今も調べようとは思って
いるが、調べるために得た場所を手放してしまった。嘯の研究機関に属していたが、あの場所にいて
は嘯の研究などできはしないと判断したからだ。あの場所では、誰も救えない。
 それどころか、人として踏み込んではならない道に乗り上げてしまうかもしれない。
 だから、青年は職を辞した。
 彼は今、故郷に帰る道中だった。
 故郷は変わりないだろうか。
 渇きの時代にあっても、未だ水に恵まれているという故郷のことを思う。
 極東の島国が、彼の故郷だ。一昔前ならともかく、グローバル化が叫ばれたその後の時代に産まれ
た彼にとって、どこの国の者であろうが、故郷とは違う国で働き生活することは別段珍しいことでは
ない。
 それに、嘯という、いつ何処で襲い掛かってくるかも分からない現象から逃れるために、あちこち
を転々とする人々も少なくはない。
 彼の父親も、おそらくその類だったのだろう。所謂転勤族という奴で、母親も彼も、父親の転勤に
付き合って各地を転々とした。子供の頃は、友達ができないと恨んだものだ――実際に友達ができな
いのは、彼自身の所為でもあったのだが。何度も引っ越し繰り返す自分に対し、ずっとその場所で暮
らしている子供もいて、そういう子供だったら自分にだって友達ができたのに、と思い込んでいた。
 長じるにつれ、世界の情勢を知るにつれ、父親が転勤を繰り返していたのは、嘯に飲まれるのを恐
れていたからではないか、と思うようになった。父親は学者でも政府の役人でもなんでもなく、ただ
のサラリーマンだったから、嘯に対して特別な知識も持っていない――それは実は学者も政府の役人
も同じなのだけれども。一般的な人間が、どうすれば誰もが手を拱く厄災から家族を守ることができ
るのか。そう考えた末の、転勤族だったのかもしれない。
 尤も、これは彼のただの想像であって、実際に父親がどう思っていたのかは分からない。父も母も
健在だから、聞くことはできるが、別に聞きたいとも思わない。
 家族仲が悪いわけではないが、しかし彼は父親にも母親にも、わざわざ逢いたいとも思わなかった。
元気であればいい。そう思っている。それだけだ。だから、この故郷への帰還にも、彼らの元に立ち
寄るという選択肢はなかった。
 何よりも、自分の今までの仕事を考えれば、会うべきではなかった。後ろ暗い仕事をしていたわけ
ではないが、唐突に自分は職を辞した。ならば、様々な知識を持った自分を、勝手に辞めさせるわけ
にはいかないと、追う者がいるかもしれない。自意識過剰だと思われるかもしないが、事実だ。
 それに。
 窓ガラスからちらりと視線をそらし、目線だけで辺りを窺う。
 先程から青年にちらちらと視線を投げかける者がいるが、それは青年の恰好がトレンチコートとい
う軽装であるからであって、特に不審さはない。
 そもそもこの列車にはそれほどの人は乗っていない。かつては大勢の人を乗せて凍れるロシアの大
地を駆け抜けていたが、しかし渇きと嘯に疲れた人々は、逃げる意味合いを抜きにすると、旅をする
気力もないのだろう。そして、逃げる人々は青年の乗る一等席を選ぶ余裕もないのだ。
 二等席や三等席は、もしかしたら、もっと混雑しているのかもしれない。
 そっとそんな事を考えたが、今はそんな事はどうでも良かった。
 今、青年と同じ車両に乗っているのは、仕事で長旅をせねばならなくなったらしい二人のビジネス
マン風の男と、昨今珍しい若い小金を持っていそうな女の一人旅。そして長い脚を組んだ一人の若者
だけだった。
 青年は息を殺して彼らを順繰りに見やる。
 ビジネスマン二人は、仕事のことを話し続けている。若い女はファンデーションを取り出すと、化
粧を整え始めた。そして若者は、上品に入れた紅茶のような色合いの髪を、緩やかに結い上げて後頭
部で一つに括っている。
 紅茶色の髪が額に落ちかかる白い顔。眼は、眠っているのか静かに閉ざされている。いや、眠って
いるわけがない。先程、青年と通路ですれ違う時、はっきりと見せた横顔が、そうも容易く眠るわけ
がないと告げている。
 そうとも、あの若者が誰なのか、知っている。
 あれは、国際的に指名手配されている、テロリスト組織の幹部だ。