記憶がある部分だけをなぞってみると、俺のいた世界というのはいつも薄暗く、色という色は褪せ
てくすんでいた。行き交う人の顔も無表情ばかりで、取り立て心をざわめかすものになど、逢ったこ
ともない。
 たぶん、だからだろう。
 俺は自分の過去の中で、覚えておきたいと思ったことは何一つとしてなかった。産まれた場所も、
自分を産んだであろう親の顔も、そしてその時に名づけられたであろう自分の名前も。
 必要なのは、ただ自分が生きるために他人を踏み躙ることだけだった。その方法だけは生きる術と
して覚えている。死ぬまでの間に、それ以外に心に留め置くことなどないだろう、ずっとそう思って
いた。
 人々が時折、空を眺めて、青空が見たいと呟くのも、海の青さが恋しいと愚痴るのも、俺にはどう
だって良いことだった。空の色も海の色も、俺には関係のないことだったから。
 世界が灰と砂に覆われる。皆が深刻そうに言う事実でさえ、俺には耳から耳へと通り抜けていく音
でしかない。俺の世界は端からくすみきっている。今更、灰と砂如きで騒ぐことじゃない。
 そう思っていたのに、奇妙なこともあるものだ。
 色褪せた世界に、信じられないほどの鮮烈さが斬り込んできた。この先永劫に世界は暗く閉ざされ
たままだと思っていたのに。


 一番最初に斬り込んできたのは、月のような冴え冴えとした白銀。新月が隠していた顔をこちらに
向けたなら、きっとこんな色をしているだろうと思う。俺と同じように暗がりを闊歩し、夜を謳歌し
ているのに、光も闇も関係ないほどに、世界で一番美しい。お前から失われた色を取り戻してやろう
と言ってくださった方。灰の上に座り込んだ俺のために、その隣を空けてくださった方。
 その後に飛び込んできたのは染み渡るような赤。俺が位置する場所の反対側に立っていた、随分と
細い影。その細い手が音もなく白い陶器に入った紅茶を差し出してきた。そうだ、この紅茶の赤に似
ているな。
 それは私の執事だ、と主が告げる。分からないことがあったらそいつに聞け、と。赤い髪と同じ色
をした執事の眉が顰められたが、執事は何も言わなかった。
 さて、と主が眩しいほどの白銀の髪を揺らして呟く。
「名前はどうしようか。」
 ひくり、と執事が反応した。
「いや、犬猫じゃないんだから、本人に聞いてくださいよ。」
 線の細さから想像していた通りの、少し神経質な声が執事から上がる。
「知らんと言っている。」
「はあ?」
「ふむ、お前、この男を見てどう思った?」
 主の問いかけに、執事が渋々とこちらを見る。薄い薄い青い眼だ。見たことはないが――いや見て
いたとしても覚えていないが、もしかしたら空の色とはこういう色をしているのだろうか。
 俺がそんな事を思っていると、執事がようやく口を開いた。
「ああ、見事なウィスタリアですね。」
 何のことだろう。俺は首を傾げたが、主は納得したようだ。うん、それにしようと頷いている。そ
してよく分からぬ俺に、
「おい、お前のことは今日からウィスタリアと呼ぶぞ。」
 名前を下賜された。視界の端で執事が顔を少し引き攣らせて、何考えてんだと呟くのが聞こえた。
そんなことは俺にも分からないし、俺が口出しすべきことじゃない。ただ、名前を賜ったという事実
だけが俺の中にある。だから俺は主の言葉に黙って頷いた。


 ところで、ウィスタリアとは、なんだろう?


 主に訊くのは不躾な気がしたので、洗濯物を洗濯機に放り込んでいる執事に聞いてみた。
「色の名前ですよ。」
「色?どんな?」
「藤の花、もしくは夜明けの色のことです。」
 どちらも思い浮かばなかった。
「どんな色だ?」
「だから………。」
「どちらも知らない。」
 花も空も、見ようとも思わなかったし見たことがあったとしても覚えていない。自分には関係のな
いものだとしか思ってこなかったから。そういうと、執事は溜め息を吐いた。
「鏡でご自分の眼の色を見てきたらいかがです?その色です。」
 自分の眼の色。それも良く覚えていなかった。鏡のある部屋に通され、そこに映る自分の姿形を見
て、ああそういえばこんな姿をしていたな、と思い出す。ついでに、眼の色も。
 薄紫と言ったら良いのかこの色は。なんだかぼんやりした色だな。
 そう呟くと、執事はそうですかと肩を竦めた。
「私はこの色は嫌いじゃないですがね。」
 さらりと告げられた一言に振り返ると、執事はもう次の仕事に取り掛かろうと、掃除機を手にして
いるところだった。上品に入れ上げた紅茶色の髪が揺れている。肩に落ちた一房が、癖でもあるのか
くるりと弧を描いていた。
「俺も嫌いじゃないぞ。」
 背を向けている執事に近づいて、癖のある一房を摘み上げて、はむと咥えてみた。残念ながら、紅
茶の味はせず、
「な、何をするんだ!」
 執事には掃除機のホースで殴られた。そして怒られた。


 そういえば、あいつには怒られてばっかりだった気がする。


 執事の仕事というのはそんなに忙しいものなのか、あいつはいつも動き回っていた。洗濯物を運ん
でいたかと思うと、次は食事の準備をして、その後は掃除をして、その合間合間にも税金がどうの集
金がどうの言っていた。
 そんな時に話しかけると、すごく怒られた。
 忙しいのが見て分からないのかって。
 いや、分かる。分かるけれど、お前ちょっと楽しそうだし。それにお前に聞かないと、俺は何も分
からない。
 他の奴に聞け?
 他の奴に聞いたらすぐに忘れそうだから、お前に聞いてるんだ。
 大体俺が知りたいのは、大抵がお前に関係していることだ。お前の口から放たれたことだ。お前は
俺に色々と詰め込んだから、俺のことを知っているのかもしれないけれど、俺はお前のことは何も知
らないんだ。
 俺がいる世界は色褪せていて、何をどうやっても満たされる事がない穴倉のような場所だ。何を放
り込んでも何処かに行ってしまっている。俺もそれでいいと思っていた。
 けれども主が俺の世界を切り取って形作った。
 お前がその世界に色々なものを詰め込んだ。
 花の名前、楽器の音、風の行く末、光の形、空の色。どうでも良いと思って掌から落としていって
いたものに、今確かに重みがある。全部お前が与えたものだ。そしてそれら全てが何処にもいかず、
失くさずに俺の中に納まっている。
 なのに、まだ足りない。


  「なんだ、その花?」
「紅茶の原料となる木に咲く花ですよ。」
「………紅茶なのに赤くない。」
「白いんですよ、花は。それに紅茶の原料は葉ですから。」
「赤いのはないのか?」 
「別種のものは赤いのもありますが、紅茶の原料になるという話は聞いたことがないですね。」
「別種?」
「椿ですよ。」
「椿?」
 お前に問いかける俺に、お前が呆れの滲んだ眼で答える。
「少しは自分で調べたらいかがですか?」
 俺はお前に聞きたいんだ。他の奴に聞いても自分で調べても、きっとすぐに忘れる。お前の声と言
葉じゃないと、俺の中には残らない。
「一体、私はどれだけ貴方の質問に答えたらいいんですか。」
 そんなの俺にだって分からない。切り取られた俺の世界は、少しずつ物が増えていったけれども、
まだ足りない。お前のほうが良く知ってるんじゃないか。俺がどうやったら満足するのか。
 白い花が揺れている。
 葉は紅茶の原料となるらしい。お前の髪と同じ色だ。でも、花は真っ白い。紅茶の花だから、赤い
と思っていたけど違うんだな。別に構わないが。
 ただ、切り取られた俺の暗がりの中に、真っ白い花が咲く。
 なあ、分かってるか。
 俺が未だに物を置けない、満たされないこの部分が、お前の形をしてるっていうことに。その部分
に、お前の代わりに白い花が咲いただけで。まだまだ色々と足りないけれど、一番足りない部分は、
この場所なんだ。


 満たされない俺に、主がついてこいと命じる。全てを取り戻すために行くと言う。俺の世界はかな
り色づいたけれども、他の世界はそうではないらしい。世界は空に何もかもを奪われているのだとい
う。もしかして、お前の世界もそうなのか。だから、俺の世界にやってこないのか。
 お前が何を奪われたのか。俺は知らない。だが、それを取り返したいのなら、俺が奪い返してやる
から。

 

 
 空が降りかかる。
 閉ざされていた空が雲を割って、星空というものを携えて、降りかかる。あいつが言っていた星空
そのままの姿で、俺達の頭上に落ちてくる。全部奪っていく。
 そうして主が。
 確かにあの時笑っていた。
 笑って、空の中に飛び込んだ。
 そしてそのまま空に昇っていった。
 俺は一人、取り残された。一人残された俺は、指針を失って、どうしたら良いのか分からない。主
がいないのに、先を見据える主がいないのに、俺はこれからどうしたら良いのだろう。切り取られて
いた俺の世界が、再び輪郭を失いかける。
 唖然としていた俺の前で、雲を取り払った空が夜明けの顔を見せる。ほんのりと紫色をした、端が
微かに青みがかっている。
 ウィスタリア。
 ようやく、俺は自分の名前の色を眼にすることができた。
 あいつに呼ばれた気がした。
 そうだ、主はいないけれども、まだあいつがいる。あいつの元に戻って、どうするかを話さなくて
は。あいつなら、何か分かるかもしれない。


 なのに、あいつが残したのは一枚の紙切れで。
 紙切れの中身など読む気にもならない。
 聞けば、俺達の真上に空が落ちてきたという連絡が入った時、あいつはさっさと出ていったらしい。
お前達の面倒なんかみきれるか、という捨て台詞を吐いて。これから先、お前達自身でどうにかしろ
と言って。
 どうしてだ。お前だって楽しそうだったじゃないか。確かに苛々していることもあったけど、嫌い
じゃないと言ってただろう。それがどうして、今になって俺達を、俺を置いていくような真似をする
んだ。
 主が奪われたから?それならまだ手があるだろう。お前なら奪い返す方法を考え出せるはず。俺も
まだ此処にいるんだから、諦めるようなことはしないでくれ。それに、前に言っただろう、傍にいろ、
と。それを忘れたのか。俺が覚えてるんだから、お前が忘れるなんてことはないよな。
 それともまさか、あの空は、お前からそういった記憶を奪っていったのか。

 
 あいつが消え去った方向をひた走る。あいつが何処に行ったのかなんて分からないし、あいつが消
えてから何日も経っている。けれども必ず追いついて捕まえてみせる。
 他の誰かの手にあいつが渡るだなんて考えたくもない。俺の世界は、徐々に他の世界との輪郭を失
いつつあるが、あいつが詰め込んだものはまだ何処にも流れていない。例えそれら全てが流れて行っ
ても根付いた白い花だけは、絶対に失わないだろう。
 白い花が、咲き誇る。
 あいつを忘れないために、忘れたくないということを忘れないために咲き誇る。
 失いたくないものが初めてできたという意志を吸い上げて、花が咲く。
 お前には、そんな気持ちは分からないだろうけれども、俺の中では重要なことだ。それが、お前だ
ということも。それが決して枯れないだろうことも。
 お前を見つけて、お前を俺の中に沈めるまで、この花は枯れないだろう。そしてその時まで、俺が
満たされることも決してない。





 お前の代わりは、何処にもいない。
 お前は、違うのか?









零れた紅茶