後方で立ち昇った砂埃がいつの間にか目の前に回り込んでいて視界を遮ろうとしている。だが、歩
みを止めている暇はない。同じく後方で湧き起こる轟音と同僚の叫び声が後頭部に直撃し、直撃した
後者に向けて、私は出来る限り慇懃な口調で、しかし振り返らずに答えた。

「私はこれでお暇いたしますよ。辞表は主人の机の上に置いておりますので、どうぞ皆様でごゆっく
りお読みになってください。」

 何やら同僚がまだ叫んでいるのが聞こえたが、ここで振り返ってはいけない。一時の躊躇は身を滅
ぼす。長年共にいた同僚達の顔は、瞼に裏に焼き付くほどに輝かしいが、しかしだからといって引き
止めようとするその手を一度でも取ることは危険すぎた。たった一度、振り返って追い縋る手を取れ
ば、奴らは悲痛な声を一転させて、嘲笑いながら私を再び、あの暗く冷徹な場所に引き戻すことだろ
う。ああ、奴らの考えることなど手に取るほど分かるとも。
 何せ、今の今まで、奴らと共に私は歩み、そしてこれから歩く道も、分かたれたとはいえ結局は似
たような道なのだから。
 だから私は振り返らない。その声がどれだけ喉が潰れるようなものであっても、悲嘆に暮れたもの
であっても、まして私以外に暗い穴倉を埋める者がいないのだと叫ぶものであっても。
 というか、だ。
 どうせ大体、私がいなくなったところで、精々、明日からの食事と掃除と洗濯と、後は電気ガス代
の集金と、来月控えた確定申告の事務処理をどうしたら良いのか、と困るくらいだろう。そんなもん
くらい、自分達でやれ。下着もろくに自分で洗えないって、お前ら一体幾つだ。


 世界に光と闇があるならば、自分達は間違いなく闇に寄る。
 そうして我等は集った。
 砂に蝕まれ、空から降りかかる巨大な水の渦に奪われながら、そこで生きていくためには光よりも
闇のほうが良いと判断した。真っ当な人間ならばどんな状況であっても光に縋るだろうな。ならば、
やはり闇を選んだ我等は、きっと普通の時代であっても、闇に堕ちるのだろう。
 その中央には、我等が主人がいて。
 彼の傍らで執事として生きることを許されたこの身が、果たして幸運であったのか不運であったの
か、未だに分からない。ただ、一番最初に主に見出されたという自負はあった。
 尤も、その自負は、後々主に使えるようになった同僚達の、食事と洗濯と体調管理とその他諸々を
引き受けなくてはならない時点で、色々と打ち砕かれたが。確かによくよく考えてみれば私は一番の
古株だ。ああ主人に一番最初に仕えたという時点でそうなるだろう。だがそれ以上によくよくよく考
えてみれば、未成年組を除けば私は奴らの中では一番若いという、恐ろしい事実に気が付く。
 待てやこら。
 お前ら、一番若い人間に、確定申告なんてさせてんじゃねぇよ。
 いやそれ以前に、年下に自分のパンツ洗わさせるとか、セクハラじゃねぇのか。
 訴えても良いですかね?
 ところが訴えるべき主人は不在である。どうやら今しばらく帰ってこないようだ。帰ってくるのは
何年先になるか分からない。まさか何年も、下手をしたら死ぬまでこいつらのパンツを洗いつづけな
いといけないのか。結婚もできずに。冗談じゃない。
 執事というのは結婚をするべきではない職業ではある。結婚をしたら主人よりも己の家族を優先さ
せるようになるからだ。故に、禁じられてはいないが、結婚が推奨されてはいない職業である。
 なるほど、理解はできる。
 だがだからと言って、私が己の現状に憤る理由にはならない。
 大体、執事の職務区分に、同僚の飯の準備とパンツを洗うことは入ってねぇだろうが。執事の職務
内容は、主人への給仕と部屋の整理と、銀食器及び酒類の管理だ。間違っても同僚への献身なんぞ入
ってない。
 そう何度か訴えたことがあった。
 訴えるたびに、貴方は、でもお前楽しそうじゃないか、と無表情の中に不思議そうな光を浮かべた。


 主人が嬉しそうに、おもしろいものを見つけたぞ、と言った。また何を拾ってきたのかと呆れて見
やった先に、やたら図体のでかい男がいて絶句したのは、どれくらい前のことだったか。
 くい、と首を曲げてこちらを見下ろす男を指して、どうだおもしろい男だろうと主人が嬉々とした
声で言った。
 どのあたりがどう面白いんだ。見下ろされているこちらは妙な威圧感を感じるだけで面白くもなん
ともない。腹の中で、また厄介なのが増えた、と思った。
「名前はどうしようか。」
「いや、犬猫じゃないんだから、本人に聞いてくださいよ。」
「知らんと言っている。」
「はあ?」
「ふむ、お前、この男を見てどう思った?」
 会話が成り立たないのは今更なので、主人がどこからともなく拾ってきた図体のでかい男を見る。
とにかく図体がでかい。だがそれだけではなんなので、もう少しまじまじと男を見てみる。顔立ちは
悪くない。美しい部類に入るだろう。灰猫の髪は柔らかそうだが手入れをしていないのかぼさぼさと
している。肌は浅黒いほうだ。あとは。
「ああ、見事なウィスタリアですね。」
 眼を指して告げた。男の眼は、夜明け間際の空の色だった。薄靄がかった紫の名を告げれば、主人
が嬉しそうな声を上げる。それが良い。何が良いのだ。嫌な予感がして主人を見れば、
「おい、お前のことは今日からウィスタリアと呼ぶぞ。」
 ちょっと待て。
 人の名前が決まる瞬間を、生まれて始めて見た。しかも名付け親は自分だった。止めようとしたが、
図体のでかい男が、こっくりと頷いたのを見て、もはや後戻りはできないんだな、と思った。


 いや、好きですよ、家事。嫌いじゃないです。好きじゃなきゃ長年、職務でもない家事をやってら
れない。幾分か、諦観の念があったことは否めないが、それでも好きか嫌いかと問われれば、好きだ
と応えられる。
 そうだよ、長年、あんたらの飯を作ってパンツ洗ってやってたんだ、嫌いなわけがないだろう。
 ただ、それに応じた見返りがないってのはどういうことだ。
 別に感謝の言葉なんぞ期待しちゃいない。我等は闇の中で蠢く汚泥だ。他人なんぞ踏みつけて、慈
悲よりも皮肉をくれてやるのが常だ。助け合いなんぞ掃き溜めに蹴り飛ばし、慣れ合いなんぞ鼻息で
吹き飛ばす。ありがとうなんて言葉は、その命が金に変貌した時にしか使わないだろう。いや、その
時でさえ使わないか?
 だから、そう、見返りっていうのは、それなりの対価っていうことだ。職務に入ってない家事をや
らせておいて、何の対価も支払わないっていうのはどうなのか、と。挙句の果てには更に仕事をしろ
だ?冗談じゃない。
 労働時間の改善を訴える。
 だが、訴えようにも上司たる主人は現在不在だ。しかもいつ帰ってくるのか分からない。おそらく、
主人が帰ってきた時には私の命が絶えていることだろう。私だって自分の身は可愛い。
 ので。
 不在の主人の机に辞表だけを叩きつけて、私は彼らにおさらばした。
 あの辞表はきっと誰も読まないだろう。いつか帰ってきた主人も、あれを見つけたところで捨てる
だけだ。新しい執事を探すか、それとも私を探すか。主人は面倒臭がりだから、きっと前者を選ぶだ
ろうな。
 では、貴方はどうだろう。


 男はとにかく何も知らなかった。自分が何者であるかも覚えていないという。名前を憶えていない
というので記憶喪失かと訊けば、違う、と男は首を振った。
「ただ、覚えておきたかったことがなかっただけだ。」
 また主人も大層なものを連れて帰ってきてくれたものだ。これの世話を一任された私はどうしたら
良いのか。とにかく、世間一般常識から叩き込むべきだろうと思いつつ、風呂場やらトイレやら部屋
の案内やらをやって、何か質問はと問うて返ってきたのが
「お前何を食べたらそんなに細くなるんだ。」
だった。この流れでどうしてその質問がでてくるのか。色々と挫けた。
 しかもいきなり人の髪を摘まんで、そのまま口に咥えた。
「紅茶の色に似てるから、紅茶の味がするかと思った。」
 そうか、色々常識はないが、紅茶は分かるんだな。
 その日から、私と男の、教える忘れる教える忘れる教える忘れるの繰り返しの日常が始まった。ど
うして洗濯機の回し方をすぐに忘れた挙句、爆発させることができるんだ。私の名前を憶えているこ
とが奇跡のような気がしてきた。
 まるでそれだけは以前から覚えていたのだと言わんばかりに、私の名前を呼び続ける。私が口にし、
主人が当て嵌めた名前で呼べば、それが最初から自分のものであったというように振り返る。
 忘れないのか。
 図体のでかい男が頷く。
「忘れたくないからな。」
 これまでは忘れても良かったのか。
「今まではどうでも良かったが、今は嫌だ。そう思うようになった。」
 だったら、洗濯機の使い方も覚えてくれ。
 そもそも洗濯機一つ回せずどうする。この先どうやって、もしも私がいなくなったら本気でどうす
るつもりだ。
 そう言ったら、本当に心底驚いたような眼をされた。
「そんなことが起こり得るのか?」
 腹が立った。
 いつまでも私が貴方達の面倒を見ないといけないのかと、執事以上の仕事をしなくてはいけないの
かと。苛立ったようにそう言えば、男はぐっと唇を引き締めた。
「そんなこと、言わないでくれ。」
   私が躍起になって、その笊のような頭の中に記憶を詰め込もうとした男は、何をどう履き違えたの
か。
「ずっと、傍に居ろ。」
 これは、私が悪いのか。いや、どう考えても違うだろう。悪いのは目の前の男以外に誰がいる。腹の
立つ。
 いつまでも私がいると盲目的に思っていることに。いやそれ以上に、自分はあっさりと何処かに行
ってしまったくせに、そんなことを言ったことについて、猛烈に腹を立てている。


 前兆もなくやってきては全てを奪う『嘯』から、全てを奪い返すのだと闇の中で主人は嗤った。前
兆もないと言ったが、実は『嘯』を予知する方法は一つだけあって、主人はその方法を知っていた。
 だからあの日、主人は何人かの部下を連れて『嘯』が堕ちる場所に向かった。
 私は残り、貴方は行った。
 そして『嘯』は、紛れもなく彼らの頭上に降りかかった。
 全ては奪われたままだった。
 誰も帰ってこなかった。
 だから私も、出ていく。
 追いかける同僚が、お前なら空から皆を引き摺り下ろせるだろうと叫ぶ。糸を操り人の命を弄ぶ女
神のように、彼らの魂を引き摺り下ろせるだろうと言う。そんな無茶な。確かに人の魂は糸が絡まり
あって出来ている。でも、既に途絶えた糸を手繰り寄せる術なんて何処にある?
 船が出航するときの、あのテープを思い浮かべてみろよ。あれだって、途切れてしまえばそれっき
りだろう?分かたれた者同士が、再び出会わなければ繋ぎ合わせることなんてできやしない。そして
私達が再び出会うことは、きっと、二度と、ない。
 いや、それでももしも糸を手繰って彼らを取り戻せるという確証があったなら、私はそうしたかも
しれない。
 けれども、もしも、糸を手繰った先に貴方がいなければ?
 貴方だけがいなければ?
 私は臆病なんだ、一人だけ、貴方だけ連れ戻せないなんて事態に耐えられるわけがない。知ってい
るだろう?


 明け方の深い闇を見つめて、これからどうしようか、と思う。何処に行くか、何をするかも決めて
いなかった。ただ、眼の前には自分だけの時間がひたすらに空虚に広がっている。そこには、誰の存
在も絡んでいない。ただ、自分の魂の糸が一本だけ頼りなく揺れている。
 これから先、私は瓦解寸前の喧噪に紛れることはないだろう。地下の享楽に満ちた声を聴くことも
ないだろう。
 同僚の声は遠く離れている。誰も、私を引き止められなかった。
 ああそうだよ、お前達は私を止められなかった。だからこの先、自分で自分の面倒を見ろ。自分の
下着は自分で洗うんだな。
 仕事は嫌いじゃなかった。地下の闇色の匂いも、結局は自分の内面だ、どれだけ遠ざけても最後は
あんな場所に辿り着くだろう。言っているだろう、嫌いじゃなかったって。嫌いだったら、毎日毎日
パンツ洗ったりするか。家事の話じゃない。貴方達のことだ。
 ただ、私自身が、貴方のいない世界に怯えて逃げ出しただけだ。
 だって、貴方はもう何処にいるか分からない。
 それでも、もしも、いつか私以外の誰かの手で、或いは貴方自身の手で空から戻れたのだとしたら。
 主人の机の上に置かれた、誰も読まないだろう紙切れを見つけたなら。
 どうか、




 捜さないで。
 私は、二度と逢わない。









夜明けの失踪