俺達が知る空は、大抵は灰と砂に覆われていた。
 青みは何処にもなく、ただ夜が明けたことを示して白い光を乱反射する空は埃っぽくて、その色を
受け止めて弾き返す海もまた、灰と砂の表情ばかりをしていた。 
 今、遠くの水平線を眺めている光景もそうだ。線のない線で区切られた二つの領域は、どちらも本
来の顔を失って久しい。水平線の向こう側から聞こえてくる波音は、異郷の地が砂に呑まれたことば
かりを訴えかける。
 その狭間。海と空の間に、ふかふかと漂う点を見つけて俺は一瞬目を凝らした。 
 海は、その身から青を失った今でも、時にこうして何かを俺達に届ける事がある。
 さざめく白い波打ち際に落ちたそれに向かって、俺は微かな期待を寄せて駆け寄る。勿論、淡い期
待は一瞬にして打ち砕かれる事なんか良く知っている。それでも希望だけは捨ててはいけないと、人
としての最後の砦が叫んでいた。 
 叫ぶ声はあっさいと打ち砕かれる。
 期待は当然のように打ち砕かれる。
 瓶に入った手紙、人の営みを告げる何か、天に上った誰かからの文字通り天啓、もしくは箱に閉じ
込められた最後の希望。
 足元に流れ着いたのは、期待していた言葉などまるで知らぬ、中身も流されてしまった果実の殻だ
った。
   一滴の何かも見出せないただのゴミ。
 けれども俺は、そこに本来ならば自分の隣にいるはずの人を思い出す。
 あいつ、何処に行ったんだ。
 苦々しい思いと、胸を掻き毟られるほどの焦燥と、一方でやはりこうなったかという諦め以上に安
堵の溜め息が身体中に行き渡っている。
 中身のない果実の殻を手に取り、海に流される前にはあったであろう、瑞々しい赤を思い、その色
があいつの髪に宿っているのを夢想する。 


 まず人目を惹いたのが、その赤い髪だった。 
 信号のように危険を知らせる赤ではない。薔薇のように蠱惑的ではない。サクランボのように初々
しい色ではない。
 ずっと落ち着いた、しかし一歩選択肢を間違えれば取り返しのつかない何かを引き出すような、そ
んな赤を頭上に頂いていた。手を差し伸べてやらないと、その深い力は青い空を知らずに、厳冬の氷
の下に潜り込むんじゃないかと。そんな救い出さねばならない色を孕んでいた。
 だから、声をかけた。
「よお。」 
 その時、声が重なった。
 奴の色に、秘めたる力とどうしようもない深淵を見出したのは、俺だけじゃなかった。驚いて振り
返った先には、深慮なる母なる海の色が広がっていた。
 きっと、俺だけの手だったなら、奴は差し伸べられた手を取らなかっただろう。何もかもを受け止
める海の眼差しがあったから、凍てついて閉ざされた冬の世界にいたあいつは、これからが春だと言
わんばかりに、土から這い出る虫のごとく、洞穴から抜け出した動物の如く、眩しそうに目を細めた。
不安そうに、柘榴色にも見える濃い茶色の髪を揺らした日を、俺達はきっと忘れないだろう。 
 後で海色の眼をした奴にもそう言ったら、奴も口角を少し持ち上げて、男前な笑みを見せて頷いた。
男前な顔に、畜生色男め、と奴の脇腹を小突いた。
 俺達は、その時から、三人顔を合わせた時から、三人で上手くやってける自信があったのだ。
 それなのに、あいつときたら。
『君達は僕のことなんかすぐに忘れてしまうよ。』
 いやいや消極的にも、自虐的にもほどがあるだろうが。 
 俺と奴は思わず顔を見合わせて、あいつの顔をまじまじと二人で見つめた。こいつ何言ってんだ、
と内心ぽかーんだ。 
 柘榴色の髪が、小刻みに震えている。
 その下にある顔色は血の気を失って真っ青どころか土気色だ。
 不安に駆られた表情をして、眼には並々ならぬ決意を湛えて吐き出された台詞が、それだなんて。
 お前、そういう顔はな、プロポーズの時にするもんだぜ。まさかその顔で、いつ訪れるかも分か
らない別れの預言なんてするんじゃねぇよ、馬鹿。
『お前みたいな変な奴のこと死んだって忘れるもんかよ。』 
 死にそうな顔をして、肩で息をしているあいつの為に、俺達は出来る限り馬鹿馬鹿しそうな声で言
う。お前みたいな柘榴の髪を忘れるものか。そうだよ、お前知ってるか、柘榴ってのはな、死の神が
妻を引き止めるためにその口に押し当てたもんなんだぞ。それによって春の女神は常闇の国に住む夫 
のことを、誰がなんと言おうと忘れなかったんだぞ。
 そんな色に染め上げれられた髪を持つお前のことを、誰が忘れるもんかよ。
 まだ、あいつは死にそうな顔をしていた。
 いや、ますます酷くなった。
 死にそうなんじゃない。
 泣き出しそうだ。
 泣くな馬鹿。
 お前が言い出した事だろ。
 お前が言い出した話題でなんでお前が泣きそうなんだ。
 別れを告げられた男が、別れを告げた恋人に何故か泣かれる時って、たぶんこういう気分なんじゃ
ないだろうか。一瞬そんなアホなことも考えた。そうでもしないとやってられない。でも、泣き出し
そうなあいつを放置しておくわけにも、勿論いかない。
『お前は俺達と離れ離れになったら、それっきりでいいのか。』
『俺らはお前にとってすぐに忘れても良い相手だってのか。』
 二人して同時にそう言った。
 言ったとたん、あいつの眼が大きく見開かれて、ぽろりと一滴、雫が零れ落ちた。
 おい、結局泣いてんじゃねぇか。泣かれちまったじゃねぇか。これは誰の所為だ、俺の所為かお前
の所為か。
 俺達が無言で責任を擦り付け合っている間に、あいつは柘榴色の髪を跳ねあげて、昂然と顔を上げ
て叫ぶように宣言した。

 僕は、君達と一緒に、いたい。

   叫んだあいつに向かって、俺達二人、何故か両手を広げて受け止める仕草をした。そこに躊躇いも
なく突っ込んでくるあいつ。男が両腕を広げたら女が飛び込んでくるっていう、あれだ。あれを、野
郎同士、しかも三人でやるっていう状況だ。
 よくよく考えれば、いや良く考えなくても冷静だったなら、間違いなくアホな状況だ。だが、あの
時はそのアホな状況が一番相応しかった。俺達の両腕に飛び込んできたあいつを抱き留めて、泣き喚 
くあいつを抱きしめ合って、けらけら笑って。
 君達がなんと言おうと、僕は君達から離れないぞ!
   そう叫ぶあいつを見て、もう一度大笑いした。
 ああ俺達も離れねぇよ!
 二人でそう叫び返した。
 世界に俺達三人だけが、一つに纏まって存在していた。

 
 その時間が、続けばよかったのにな。

 
 眼の前で、海の色をした眼が空に浮かび上がる。突っ込んできた『嘯』はその身体に星の光を塗し
て、水の塊であるはずの巨躯はまるで宇宙そのものの姿をしていた。近くで見ているだけでもそこに
吸い込まれていきそうな錯覚を覚える。何もかもを吸い取って削り取って、『嘯』が空から降り注い
だ土地は、水という水を孕む全てが奪われ、人の住めない不毛の地となる。 
 俺達は、『嘯』について調べる仕事をしていた。
 海色の眼が、『嘯』を追い詰めるリーダーの役割を担っていて、もしかしたら奴は真実を掴みかけ
ていたのかもしれない。
 だが、それを快く思わない奴というのは何処にでもいるもので。真実を知られるのを疎んじる連中 
というのは、己が命も『嘯』に曝されていると言うのに、何故か『嘯』を止めようとしない。
 それとも、連中も俺達と同じように『嘯』を止めようとしていたのだろうか。
 いや、そんなことはもうどうでも良い。
 とにかく俺達が連中と対峙した時、時も場所も相手の都合も弁えない巨大な水の塊は、うねりなが
ら俺達の頭上に降りかかってきたのだから。蛇のようにのたうち、地面を這い、鎌首を擡げて獲物を
窺う。さながら生き物のように。 
 その時。
 海色の眼差しと、俺達と対峙していた連中のボスと思しき奴が、まるで自ら望んで『嘯』の中に身
を投じた。
 嘘だろ、と思った。
 けれどもその時、奴の唇が微かに動いたのを俺は見逃さなかった。
『あいつを頼んだぜ。』 
 男前な笑みを添えて。
 馬鹿野郎、そんな無理難題言うんじゃねぇよ。お前がいなけりゃ、あいつはまた常闇の国に引き籠
るだろうが。柘榴っていうのは、それだけ取扱いが難しいんだよ、アホ。
『嘯』が奴を飲み込む一瞬の間に、俺はあらん限りの悪態を思いついた。吐き出せなかったのは、俺
自身が『嘯』から逃れるのに精いっぱいだったからだ。
 でも、俺だけ生き残ったこの状況を、あいつにどうやって説明したら良い?
 奴は自ら飲み込まれに行きました、って言えってか?
 奴の最後の言葉を馬鹿正直にあいつに伝えろって?
 無理言うな。
 無理なんだよ。
 馬鹿野郎、あいつは俺よりもお前を頼ってたじゃないか。それも分からずにそんな事を言ったのか。
てめぇはそんなに俺を悪役に仕立て上げたいのか。この野郎、どれだけ男前な顔作ったって、やって
ることは最悪だろうが。
 見ろよ、あいつの死にそうな顔。
 俺を罵りながら、俺が悪いんじゃないと知っていながら、でも誰かを罵らないとやっていけないみ
たいな顔してるぞ。 
 お前、そこにいるんだろうが。
 全てを見渡す空の上から、海色の眼で、見てるんだろうが。
 早く降りて来い、馬鹿。いつまでも高みの見物してるんじゃねぇ。もうすぐで、取り返しのつかな
いことが起きようとしてるんだぞ。お前がいないことで、あいつだけじゃない、他の奴らもどんどん
道を踏み間違えようとしてるぞ。
 俺に止めろって?ふざけんな、都合の良いことばっかり言ってんじゃねぇ。
 ほら、あいつが、道を踏み外さないために、お前の意志を捻じ曲げないために、茨の道を進もうと
している。一人で出来る事なんか限られてるのに、一人で旅立とうとしてる。 
 あいつが歩く道には光なんて一切ない。いや、あいつの進む道だけじゃなく、他の奴らも光のない
一線を越えてる。越えてないのは、柘榴の味だけを頼りに厳冬の道を進むあいつだけだ。柘榴を口に
したことをあるあいつだけが、薄氷を渡りながらも淵に転がり落ちていない。
 だからせめて。
 あいつの道に一切の光がないなんてことにはならないように、してやってくれ。
 きっとあいつの手にした柘榴に嫉妬して、仲間であった奴らがあいつを追いかける。追い詰める。
茨の道は、傍で見るよりもずっと歩く分には痛いだろう。だから、あいつが痛みで呻いていても、そ
の先を見据えていられるように、頭上で煌めいていてやってくれ。 
 お前ならできるだろ。
 だってお前は、文字通り天にいる。空の上で、俺達を見下ろしてるんだろう?

 
   柘榴の皮を地面に落とす。
 水平線は白い。
 赤い点は何処にも見えない。
 星も空にはなく、海には何も映らない。
 けれども確かに、あいつはどこかを彷徨っているはずだ。道を踏み外した俺達から離れて、頑なな
意志だけ携えて。
 何人かがあいつを追いかけている。行かせてやれ、と俺は思う。あいつのほうが、俺達よりもずっ
と正しい。あいつはもう、厳冬の道を恐れてはいないだろう。それだけの正しさを、あいつはその裡
に秘めている。
 きっと、もうすぐ、俺もあいつを追いかける。
 その時、あいつはどんな顔をするだろうか。
 怒っているか、呆れているか、馬鹿にするか。どれでもいい。こっちも少し腹は立てるだろうけれ
どな。殴り合いに発展したって構うものか。
 ただ、出来る事なら。
 泣きそうな顔だけはしてくれるなよ。
 でも、もしも泣くなら、天に届くほど泣いてくれ。そうしたら、失われたもう一人が、溜め息交じ
りに降りてくるかもしれないから。
 だって、俺は、俺達二人はな、お前に泣かれるのだけには弱かったんだからな。









柘榴の道