ガタゴトと身体が揺れる。
 窓の外は黒。その中に滲むような光の輪が幾つも浮かび上がっている。遠くに、近くに見える街の
明かりが小さく広がり、円を作っているのだ。その幾つもの光の円の向こう側には冴えない顔色をし
た自分の顔が映っていた。自分の顔の上を流れていく光の輪が、繁華街の喧噪を思わせる賑やかな色
をしているものだから、猶更、顔色の悪さが際立つ。
 一体、どこまでやって来たのだろうか。
 膝の上に置いた鞄に手を置き、その手で拳を作る。指の節々が白くなるほどに握られた拳は、すぐ
には解ける気配を見せない。
 まるで、一人旅に怯える子供のようだ、と彼は思った。そして、いつも一人ぼっちだった自分には、
一人旅に怯えるだなんて繊細さはなかっただろうに、とおかしくもなった。繊細で臆病だったから一
人になったのだ、とは考えたくもなかった。

 親は、所謂転勤族と呼ばれるやつだった。
 父親は家族と離れるのは嫌だったのか単身赴任はせず、母親と自分を連れてあちこちの町を転々と
していた。両親は共働きで、母親もパートをしていたが、父親の転勤が決まるたびに母はパートを辞
め、新しい町に辿り着くと新しいパート先を見つけた。
 父親がやたらと転勤するのには、もしかしたら理由があるのかもしれないと、今なら星のない夜空
を見上げて思うことができる。
 車窓のガラスに頬が付くほど寄りかかり、自分の顔が見えなくなるほどに身を寄せてから、漆黒の
空を見上げる。町には真珠を塗したかのような光が幾つもさんざめいていたけれども、その頭上に広
がる夜空には一滴の輝きもなく、何もかもに見放されたかのような表情をしている。
 常に分厚い灰と砂に覆われた空から、青の顔が見えたのは一体いつの出来事だったか。年に数回は
確かにその時はあるのだけれども、子供の時ははっきりと思い出せていたその日は、大人になると忙
しさにかまけて忘れ去ってしまう。忘れてはならないほど、今となっては貴重な出来事だというのに。
 それを思えば、もしも父が転勤により家族を砂と灰から守ろうとしていたのだとしたら、父は恐ら
く今の自分よりもずっと尊敬に値する人物だったに違いない。
 子供の頃は家におらず、転勤ばかりして子供に友達を作らせない酷い父親に見えていたのだとして
も。
 だが、自己弁護をするならば、子供にそんな大人の道理など分からないだろうに。
 結局、新しい学校に行ってもすぐに別の学校に行く。そんな子供時代に、友人などできるはずもな
い。家に帰っても父も母も仕事でおらず、結局ゲームの中に逃げ込む羽目になった。
 ゲームの世界ではいつでも自分が世界の中心だ。何処にいても必ず仲間は、友人はそこにいる。離
れ離れになることがあっても必ず会えることが分かっている。
 ああ、もう、友人なんてこの閉じられた世界だけで良い。
 そう思っていたのに。

 子供から大人に移り行く時期。  
 多感を通り過ぎ、多感の中から一つの感性を掴み取り、恐らく自分の感性は諦観という名で埋め尽
くされるであろうと予感されたその頃。
「よお。」
 灰と砂の中に、それでもいつの時代でも変わらず果敢に舞い踊る桜の中で、重なった声は二つ。
 向けられた双眸は二つ。
 両方とも、青。
 ただし一つは低く落ち着いた声を放つマリンブルー。深い海の青。
 もう一つは賑やかで喧しいセルリアンブルー。鮮やかな空の青。
 二人とも、人気者だった。マリンブルーは遠巻きに眺める女性人が多くて、セルリアンブルーは一
緒に馬鹿をやる男友達が多かった。なのに二人が一番の友人にとその中央を明け渡したのは僕だった。
 背の高い二つの影が、僕の身体を両側から支え上げる。まるで当然のように手を取られて、笑われ
る。こっちに来いよと手招きされる。
 どうして、という疑問を許さぬ強さで彼らは僕を引っ張り上げる。笑いながら、仕方のない奴だと
首を竦めながら。今まで繋がれたことのない手は、二人の手によって両方とも埋められている。



『僕はきっとまたすぐに転校するんだ。』
『それがどうした。』
『また離れ離れだ。』
『手紙もあるし、電話もあるぜ。』
『君達は僕のことなんかすぐに忘れてしまうよ。』
『お前みたいな変な奴のこと死んだって忘れるもんかよ。』
 マリンブルーは溜め息混じりに、セルリアンブルーはケラケラ笑いながら、僕を諭す。離れ離れに
なっても大丈夫だと。確証もないのに、あっさりとそんな事を言う。   
 電話も手紙も、絆をなんら保証する手段にはならないのに。
『お前は俺達と離れ離れになったら、それっきりでいいのか。』
『俺らはお前にとってすぐに忘れても良い相手だってのか。』
 二人が問う。
 海と空が、自分達はいなくても良い存在なのかと、問いかける。
 それは、僕達が失ってしまった青い海と空から語り掛けられているような、遠くから響く声だった。



 僕は。
 二人の声に向かって叫んだ。
 僕は、君達と一緒に、いたい。
 君達が海と空ならば、その狭間にいる僕は、きっと白鳥だ。
 どちらの色にも染まるだろう。
 だから、どちらの色にも染まるまで、一緒にいて。
 僕の叫びに、彼らは笑って手を広げた。
 繋がれた手は、とても暖かくて、ああそうだ、もしも今度父が転勤すると言い出したなら、僕は一
人この町に残ろう。そう決意させた。
 空から降りかかる災厄に皆が怯えても、僕はこの二人がいれば、何も怖くない。僕らはいつだって、
一緒だ。空と、海と、その狭間で狼狽える鳥と。
 三人で一つだ。



 そのはずだったのに。
 僕らは三人で大人になった。
 青の消えた海と空をなんとかしたいと三人で囁き合い、そして不安に駆られる人々の間に忍び寄る
唾棄すべき悪に怒り、そして大人になった。進むべき道は一緒だった。差はあれど、確かに一緒だっ
た。もしかしたら誰かがどこかで朽ち果てるかもしれない。そんな不安は確かにあったけれども、そ
れはあまりにも漠然としていて、心の何処かではそんな事は起こらないと粋がっていた。
 けれども、僕の浅はかな考えは、空から来る者によって打ち砕かれた。
 父が、誰もが懸念していた空からの厄災は、あっさりと僕達から全てを奪い去った。いつどこで起
こるかも分からぬ厄災。空が砂と灰によって覆い隠され、海からは青色が失われた日から、唐突に始
まったその現象。
 それが空から降りかかれば、あっという間に全てが奪われ、その地は砂と灰に沈み、誰も住めない
不毛の土地と化す。
 嘯。
 僕達は、そう、呼んでいる。
 それが起きたのは、僕のいる場所から離れた土地だった。けれどもそこには、マリンブルーとセル
リアンブルーの輝きがあった。二人がいる場所目掛けて、嘯は舞い降りた。



『どうして!』
 僕の叫びを、セルリアンブルーが受け止める。ただし二つではない。一つだけ残された眼が、僕に
向かって、すまん、と呟く。マリンブルーは、いない。
『君がついていて、どうして!』
 マリンブルーは嘯に呑み込まれたという。いや、自ら飛び込んだように見えたと、セルリアンブル
ーは呟く。
『そんな言い訳、聞きたくもない!』
 ああ、その場にいなかった僕が、何もしなかった僕が、セルリアンブルーを責めたてている。彼も
片目を失ってしまったというのに、僕は何をやっているんだ。
 けれどもこの場に一人いないという現実が、僕から冷静さを奪っていく。
 孤独な白い鳥には、空だけじゃなく、海も必要なんだ。
 すまん、すまなかった、と空が呟く。一つだけになった眼は、それでも砂と灰に掻き消される事無
く僕を見下ろしている。
 それだけで十分だ。
 なのに、僕にはその一言が言えなかった。
 僕の空はまだ青いままなのに、けれども眼下に広がるはずの海が何処にもない。青でも黒でも茶色
でもなく、ただただぼっかりと大口を開けているだけだ。そのことが、何よりも苦しい。

 
 
 セルリアンブルーの眼が、苦しそうに歪む。
 自分の無力さを責める色をしている。
 違うんだ。
 君のせいじゃない、そんな事は分り切っている。あの場に誰がいても、どうしようもなかったんだ。
そんな事は、僕だって分かってる。
 けれども僕は君を責める。君がそれで苦しむだろうことも、君が責める僕を許すであろうことも、
僕は全部分かっている。分かっていてやっている。
 僕の空は、賑やかしくて、そそっかしくて、そして何か愚痴を言いながらもそれでも僕を許してく
れた。砂にも灰にも覆われず、傍にいてくれる。
 僕はその事を知っている。
 知っていた。
 だから、今から僕がやろうとしていることも、きっと君は許してくれる。
 甘ったれと罵ればいい。
 俺を振り回しやがって、と怒鳴り散らせ。
 僕を責めたてて、喚き散らすんだ。
 馬鹿野郎と、大声で叫んで、殴り掛かれ。
 それでも最後には、君は仕方ないと僕を許すんだろう?



 マリンブルーが失われて、苦しんでいる僕を見て、君はきっと勘違いを犯している。マリンブルー
が失われて、自棄になったり呆然としたりしている人は、僕だけじゃない。
 けれども、勘違いをしてほしくないな。
 僕はマリンブルーがいなくなって君を責めたてたけれども、それは僕が君に甘えているからであっ
て、僕は自棄を起こしたりなんかはしない。自棄を起こして、人として向かってはいけない場所に向
かうようなことをしたりはしない。
 君達のように。
 君達のように、間違った道を進むつもりはない。
 僕は、これから君の元を離れる。
 ガタゴトと揺れる電車に乗って、遠く遠くへと向かう。
 君達は大騒ぎするだろう。僕を探し回って、追いかけようとするだろう。
 ああ、好きにすればいい。僕はそれでも逃げ回る。君達に捕まらないように、遠く遠くへ逃げる。
追いかけたければ追いかければいい。僕だって容赦はしない。
 けれども、もしも、追いかけてきたのが君だったなら。
 眼を閉じて、彼の眼の色を思い出す。
 強く鮮やかなセルリアンブルー。空の色。一つだけ残った眼で、僕を見ている。なんて馬鹿な事を
しているんだと詰りながら、けれども僕を心底から責めてはいない。
 彼の向こうで、失われたマリンブルーもこちらを見ている。こちらはいつものように肩を竦めて、
溜め息を吐いている。やっぱり馬鹿な事をするんじゃないとでも言いたげに。
 君達の言う馬鹿な事、というのは、危険な事、だね。
 僕は幻に小さく話しかける。
 僕は自分のやっている事が馬鹿な事だとは思っていない。唾棄すべき行為に対する、ささやかな抵
抗だと思っている。そんな事、君達だって分かっているだろう?
 僕達は、三人で一つなんだから。
 だから、君も、今から君達が行おうとしている事がどれだけ恐ろしいことか、わかっているはずだ。
 だからだから。
 僕は、海が巻き上げられた星のない空を見上げる。あの空の何処かで嘯は息を潜め、次なる厄災を
降り注ぐ時を待っているのだろうか。その何処かに、マリンブルーはいるのだ。マリンブルーがいる
のは、空の上だ。
 間違っても、何処かの試験管の中なんかじゃ、ない。
 だからだから。
 早く、君も来るんだ。
 僕を追いかけて、早く。
 白い鳥は、いつだって海と空の間を漂っているだけじゃないんだ。何処にだって本当はいけるんだ。
でも、空の下には必ずいるはずなんだ。だから。
 空である君は、早く僕に追いつかなくちゃいけないんだ。
 君の中に星がなくてもいい。君は青空なんだから、星なんか隠していればいい。ただ、そんな狭い
場所に居ちゃ駄目だ。君は僕の頭上に広がっていないと。
 窓ガラスに頬を寄せて空を見上げる。
 ぬばたまの闇は、夜が明けても灰と砂ばかりで、青空はきっと明日も見えないだろう。気が滅入る。
砂と灰と虚ろには、染まりたくない。彼らに会う前の翼の色には、まだ戻りたくない。
 だから、早く。
 馬鹿な事するんじゃねぇと怒鳴りながら僕を追いかけて、殴りつけたってかまいはしない。どんな
罵りの言葉を受けても、僕は君を説得するつもりだ。そうして君はげんなりした顔をして僕を許せば
良い。
 そして、今は二人で、逃げ出そう。









染まる白鳥