夕日で屋根を赤くした他の家々とは違い、すらりと美しい外観をしている三階建ての洋館の真下は
広い庭になっている。無人の洋館の庭は誰にも手入れされる事なく、長らく虫達の楽園となっていた
のだが、その年になって突然、夕日が沈んだ直後の空の色のような青い花を、薄の間から咲き誇らせ
た。
 夕方特有の長い影の中に咲いた青い花は、影の中に届く光を捉えて、宇宙を漂う星屑のようにぼん
やりと発光しているようにも見えた。
 夕暮れ時のこの街は、時々どうしようもないくらい、美しくなる時がある。
 青かった空が刻々と夜の準備をするのは毎日の事で珍しくもなんともないのだけれど、ある瞬間、
まるで子供の頃に夢見た童話のような世界へ通ずる道を照らす時がある。
 それは夕日で赤く染められた誰も通らない路地であったり、夜と昼を掻き混ぜたような空に姿を見
せた星の幾つかであったり、或いはねぐらに帰る烏の残像であったりした。
 そしてその時にいつも思うのは、俺の隣に佇んでいたあいつの事だ。今は俺の手の届かない壁の向
こう側に蹲っている、あいつの事だ。

「なぁなぁ、お前の名前って、なんて呼ぶん?」

 初めて声をかけたのは、俺のほうからだった。中学に入って初めて声をかけたあいつは、突然の自
分に降りかかってきた声に戸惑ったような光を瞳に灯していた。俺の知らない漢字の名前を持つあい
つは、俺の姿を認めるや、拒絶するように俯いた。その仕草はダンボールで世界を遮断されている捨
て猫のようで、絶対に守らなくてはならない気配が染み出していた。けれど差し伸ばした手がその壁
をどけようとするには、あいつのいる場所は余りにも深すぎた。俯いて髪で隠れた肌は、深海に鎮め
られた骨のように白かった。喋らないあいつに、俺はあいつの分まで喋る事でどうにか手を伸ばそう
としていた。当時の俺にはそれ以外に方法が判らなかったから。ずっと黙り込んで家路を歩むあいつ
の背中に、振り返らない事を知っていながら、それでも喋り続けた。

 結局、その日あいつは一言も口を開かなかった。

 自分を人と喋る必要のない人間だと思っていたのかもしれない。
 そうあいつが言ったわけではないけれど、あいつは何処か自分を此の世にいらない存在と思ってい
たような気がする。先生にも周りの生徒にも相手にしてもらえない事を当然と思っていたのか、教室
であいつが喋る事はほとんどなかった。他人と関わる事で自分が傷つく事も、自分が関わる事で他人
が傷つく事も酷く恐れているようだった。
 多分、良くも悪くも思慮深い人間だったのだろう。                                                                                                                                                                
 誰とも眼を合わさずに俯いていたあいつは、きっと誰よりも他人の事を考える人間だったのだ。他
人の手を煩わせないあいつは、先生が不良の相手をしている時、一人で誰にも聞こえない唄を歌って
いた。
 その唄に唯一気がついたのは、どういうわけか、アホな俺だった。
 賢い人間はいっぱいいたし、先生から信頼されている学級委員長もいたのに、彼らは一人としてあ
いつの歌う唄に気づかなかった。彼らは眼に見えて分かる問題はすぐに解けるのに、眼に見えないあ
いつの歌に気づく事はできなかった。能天気でアホな俺だけが、あいつの断続的に続く唄に気がつい
た。
 それともあいつが、ずっとあいつに喋り続けている俺だけに聞こえるように歌っていたのだろうか。
いずれにせよ、その時俺は、海深くに沈められたダンボールの中にいるあいつに、手が届いたのだ。
 あいつが俺を受け入れた理由は、未だに判らない。
 あいつは確かに誰とも仲が良くなくて、いつも空気のように漂っていたけれど、本当は頭の回転が
速くて、手先も器用で、決して馬鹿ではない人間だった。そんなあいつにとって、俺のように思慮の
ない人間は、天敵のようなものではなかったのだろうか。それを示すように、無駄に騒ぐ俺は、あい
つに殴られる事が多々あった。けれど、それすら、あいつが俺にだけ見せる表情のようなもので、決
して心底嫌がられているわけではない事を、俺はいつの間にか学習していた。あいつにとっては喧嘩
の相手をする事さえ特別扱いだったのだ。

「なんでピアノが打楽器やねん。アホ。」
「だって鍵盤叩くやん。」
「アホ、あれはただの表現や。ピアノは弦楽器系鍵盤楽器じゃ、アホ。」
「三回もアホってゆうた!」

 多分、アホで裏も表もない薄っぺらい俺は、あいつにとっては何も考えなくても付き合える、楽な
相手だったのだろう。

 二人で帰る道で、少しずつ、あいつの声が広がっていく。あいつの世界が、少しずつ俺に向かって
開き始める。あいつは漫画が好きでゲームが好きで、何故か掃除機マニアで、ジュースよりも緑茶を
選ぶタイプで、それに合わせるようにパンよりもおにぎりが好きで、意外と可愛いものが好きで、教
室ではほとんど喋らない癖に、切り返しは余りにも切れ味が良すぎて。
 けれど、笑った顔は、本当に意外だけれど可愛くて。
 たぶん、それを知ってるのは俺だけだと思う。
 薄に覆われた、誰も来ない洋館の大きな窓の前で、遅れてやって来た俺を振り返った瞬間に初めて
見せた笑顔は、その細い躯に背負った青空によく映えていた。いつもは深海の青に沈み込んで自分の
姿を隠しているあいつだけれど、実は空の青も似合っている事に気づいていたのだろうか。
 水の青、海の青、雲の青、空の青、魚の青、鋼の青、朝顔の青、炎の青、月の青。
 あいつは、どんな青でもよく似合っていた。
 体育祭の時、あいつが赤い鉢巻をしてがっかりしたのは、俺だけだろう。だって、青を持ったあい
つは、そのまま世界を塗り替えてしまいそうなくらい、不思議な気配に満ちていたから。青い鉢巻な
んかをしたら、青空を引き擦り下ろすくらいの事はできそうだと思っていた。だから、青いスポーツ
バッグを抱えているあいつとの帰り道は、酷くわくわくした。同時に、あいつの歌う唄に気がついた
俺だけに見せるあいつの表情に、多少なりとも他のクラスの連中に優越感を感じたりもした。時折口
ずさむその唄は悲しかったけれど、それは俺があいつの世界へ入る為の道しるべでもあった。地面に
散らばる星屑の青さが、あいつの世界の儚さを示しているようだった。

 教室では無口な、けれども外に出ればこの世の全ての青に祝福された魔法使い。
 あいつの世界は、教室の誰が語る世界よりも綺麗で、優しくて、壊れやすくて。そしてあいつの肩
には、俺の為の青い鳥が用意されていた。あいつの世界で無数に聞こえる羽ばたきは、俺があいつの
中に見つけた青い鳥のものだったのだろう。俺が見つけた青い鳥。だからそれは、俺の為にあったの
だ。
 でも、もしかしたら、それはあいつの為の青い鳥だったのかもしれない。

 あいつが見せる世界に俺は現を抜かしていて、あいつ自身を置き去りにしていた。あいつの世界を
知っているという事でもっと優越感に浸りたくて、けれどもあいつ自身の大切な部分は独り占めにし
ておきたくて、無理やりあいつの世界とこちらの世界の都合のいい部分だけを結びつけた。あいつの
表情は誰にも知らせないで、あいつの世界の欠片だけをこちらの世界にぶちまた。
 俺が、あいつに対して行った、最初で最後の最悪の間違い。
 あらゆる可能性を秘めていた青い星屑の欠片が、こちらの世界に落ちた途端、どす黒い色に変化し
た。それはまるで、あいつが流した血のようで。

 唄が途切れる。
 手が離れる。
 いろんな青に染まっていたはずのあいつの世界が、再び暗い深海の青一つに支配されていく。
 あいつの唄が聞こえない。
 俺の周りを羽ばたいていた青い鳥は、気がついた時には真っ赤に染まっていた。
 その羽ばたきが邪魔で、あいつの唄が聞こえない。
 最後に見たあいつの姿は、萎れた青い花のようだった。
 あいつの躯から飛び散った青い羽根が、赤い海に沈んでいく。
 どうして気付かなかったのだろう。どうしてあいつの事を考えなかったのだろう。俺はあいつの事
が大好きで、あいつの隣に居られる事が嬉しくて、あいつと二人でなら世界を変える事もできると思
っていたはずなのに。あいつの周りで羽ばたく青い鳥を俺のものだと勘違いして、それで満足してい
た。目先のどうでもいい光ばかり欲しがって、本当に大切なものを置いてきぼりにしていた。
 俺はいつから、あいつの唄が聞こえなくなっていた?
 あいつが一人沈んだ段ボールの箱。どうして俺は、それごと引き上げる事が出来なかったのか。出
てこないあいつを言い訳にせず、俺があの箱を開けていれば。
 あいつが、あの場所で泣き崩れている映像は、しっかり見てとる事が出来たのに。せめてあいつの
世界の為に、あいつが萎れないように形代として、あいつのような青い花を入れる事が出来たなら。
青のよく似合うあいつが赤の中に沈む事はなかったのに。どうしてこんなに何もかもが狂ってしまっ
たのか。あの最期の瞬間に、あいつは一体俺に何を言おうとしたのだろう。
 入れ損なった花びらが、今、あいつと俺の箱庭の周りに咲き乱れている。

「彼がいた世界に戻りたいか?」

 問われた内容は、頷くには十分すぎるものだった。あいつのいない世界なんて俺には考えられなか
ったし、それ以上に今度こそ俺はあいつの傷を俺の手で拾い上げてやりたかった。その為に世界を裏
切らないといけないというのなら、俺は平気で裏切るだろう。俺は既にあいつを裏切ったのだ。だか
ら、世界を裏切るなんてどうって事はない。
 最初で最後の最悪の裏切りをやり直せるのなら、世界なんか幾らでも裏切ってみせる。
 夕陽の残り火も消えかかり、青い花は洋館を覆い尽くす薄と一緒に夕闇の中に沈もうとしている。
まるで、あの時深海に沈んでいった、あいつのようだ。その時の誤りを正そうとするように、或いは
謝ろうとするかのように、俺は名前も知らない花に手を伸ばす。一本手折る度に、赤い海に沈んでい
くあいつとの距離が縮んでいくようで、けれども同時に、騙されて消されるあいつのいない世界が悲
鳴を上げている。
 でも、それでも俺は、あいつの代わりに海に沈める花を摘んでいく。
 あの青い魔法使いが再び世界に降臨するのに、莫大な量の存在しないはずの花の命が必要だという
のなら、俺は世界に幾万の嘘を吐く。
 世界を騙す為に、そしてあいつの為にだけ、もう一度だけ世界に青が灯り始める。まだ、青い星屑
があいつの世界に続いている、あの時の世界に戻っていく。逆行した、この世界で。
 唄が聞こえなくなってしまった俺の手の中からすり抜けて、深海に沈んでしまったあいつを。

 もう一度会えたなら、次は二度と、その手を放さない。
                                                                 









青の魔術師