日が傾き始めた。
 また一日が終わっていく。ただ只管、自分と外界を遮断する為の壁を積み上げていくだけの一日が、
終末に向かっていく。そしてそれを告げるかのように、あいつの声が聞こえる。その時だけ、壁を積
み上げる手をそっと休める。
 微かに黄色がかった空を薄ぼんやりと写しとり、光の粒を撒き散らした硝子の向こう側から、あい
つが俺を呼ぶ声が聞こえる。
 あいつが叫んでいる姿は、きらきらした磨り硝子に阻まれて、俺からは見えない。ただ、あいつの
声だけが何もかもを飛び越えて、小さな箱の中に蹲っている俺の元に届く。
 変わってない声だ。
 どこか抜けた、やかましい声。以前と同じ、俺の周りにある壁がまだ飛び越えられるほど低かった
頃と同じように、家の外から二階にいる俺の名前を呼ぶ。そして俺を何処かへと誘うんだ。
 でも、と唇を噛み締める。
 俺は行かない。あいつの声に何も返さない。
 だって、変わらない声で変わらずに俺を呼ぶあいつは、確かに変わってしまったのだから。


 中学に入って初めて顔を合わせたあいつ。
 俺は引っ込み思案で内向的で、人の輪なんてものは必要ないと思っている人間だった。地を這う苔
のように光を避け、深海魚のように暗がりで誰にも聞かせるつもりのない唄を歌う。それは今でも変
わってはいないけれど。
 そんな俺を光の下に引きずり出したのは、能天気で何も考えてなさそうなアホ面のあいつだった。
誰とも直ぐに仲良くなれるあいつは、こともあろう事か、誰とも仲良くしない俺と一番最初に口をき
いた。偶々クラスが同じで席が隣になっただけなのに、あいつは能天気にアホ面さらして俺に話しか
けてきた。
「なぁなぁ、おまえのなまえって、なんてよぶん?」
 黒板の前に貼り付けてあるクラス全員の名前が書いてある紙と俺を見比べるあいつは、心底不思議
そうな顔をしていた。黒々とした眼に映っている俺は、なんだか凄く驚いたような顔をしていて、そ
れが無性に恥ずかしくて、下を向いてあいつの声を無視してしまった。
「むしせんでもええやん。」
 ちょっと拗ねたような声を出して、あいつが顔を覗き込む気配がする。
 思えば、あいつはよく俺の顔を覗き込んでいた。俺の機嫌を損ねて困った時も、何か嬉しい事があ
ってそれを知らせる時も。後ろから、下から、ひょっこりと俺の顔を覗き込むのだ。それはあいつの
癖なのかもしれないし、或いは世界に背を向けようとする俺に対してだけに行う、あいつなりの気遣
いだったのかもしれない。
 あいつは、とにかく、俺と世界の間に立っていた。


「なんでお前此処におるんや。」
 夏休みに入る前日、クラスの連中は海だ山だ何だと騒いで連れ立って何処かに行ってしまうのに、
何故だかあいつだけは俺の前にいた。
「はよお前も行けや。みんな待っとるんとちゃうんか。」
「まってへんよ。」
 おれはいかへんから。
 ざわめきが遠のいていく教室で、あいつは俺の眼の前でそう言った。
 なんで。あいつらには誘われていたのに。
 その問いは顔に出ていたのかもしれない。何処にも行かずに家に帰ろうとしていた俺に、あいつは
いつものへらへらとした笑みを見せた。
「だって、おまえがいかへんから。」
 あっさりと吐き出されたその言葉に、俺の心臓は一瞬脈打つ事を止めたのかもしれない。心臓以外
の臓器も、それこそ脳細胞の一片さえ、その働きを止めたに違いない。息をする事さえ止めて凍りつ
いた俺に、あいつは少し焦ったような声を出した。
「もしかして、おまえもいくとか?」
「行かん。」
 とりあえず息を吐いてそう言うと、あいつは何故だか嬉しそうな顔をした。その表情を怪訝に思っ
ていると、あいつは俺の鞄と手を取って、そのまま引いた。
「じゃあ、かえろうや。」
 いっしょに。
 引かれた手を振りほどく暇もなく、あいつは俺を一人の世界から連れ出した。どれだけ深い海の底
にいても、右手はいつもあいつに繋がれたままで、いつでもあいつの向こう側に空が見えた。そこに
広がる青いビー球のように澄み切った空は、この世界では有り得ない空なのだけれど、決してひび割
れる事なく綺麗だった。



「ここ、きれいやろ?」
 大きく伸びをするあいつの背中の上で、真っ白なシャツがはためいた。あれほどいたクラスの連中
はもう何処にもいなくて、帰り道は二人っきりだった。白い塵で光が反射した空の下で風の音以外に
蠢くものがいないと、本当にビー玉の中に入り込んでしまったような気になる。ましてや、誰もいな
い世界には、太陽も見えないのに光が回転してあまりにも綺麗だから、尚更。
 そんな世界の中で一際美しく聳え立つのが、誰も住まなくなって久しい洋館だった。薄や猫じゃら
しや、それ以外の名も知らぬ雑草が多い繁る洋館は、日差しを受ければ御伽噺の城のように輝き、夜
にもなれば星の帳を受けて神殿のように謎めいた顔を見せた。
 そこに忍び込んだ俺達は、洋館の中で一番大きな窓が添え付けられた部屋に寝転ぶのが好きだった。
そこから見上げる青空は、いよいよ突き抜けて、見上げているだけで引きずり込まれそうだった。そ
の空を見上げ、時折変化するのを数えながら、来る日も来る日もあいつと二人で他愛のない事を喋っ
ていた。最近読んだ漫画の事、あいつが可愛いと言っている女の子の事、来週のテストの事、それか
ら、ほんの少しだけ未来の事も。
 そして時々、本当に時々、俺は深海の唄を歌った。
 それは途切れ途切れで、大抵の人間ならば流してしまうような唄だったけれども、たまに俺の歌う
それを聴いたあいつは、何故だか泣きそうな顔をした。そしてすぐにその表情を消して、あの能天気
な笑みを見せるのだ。きっとあいつは、俺の中に潜む暗く透明な深海魚の遺伝子を見破ったのだろう。
けれど、誰もが薄気味悪さに遠のいてしまいそうなそれに気づいても、あいつは俺と一緒に空を見上
げ続けた。



「おれ、おまえのこと、すきやでー。」
 通り雨の過ぎ去った青空の下、ビー玉のように子供じみて綺麗な世界を見上げる俺に、あいつは何
の脈絡もなく、まるで昨日見たテレビの話をするようにそう言った。
 水滴があちらこちらに塗された世界は、いつもより一層光を反射して、まるで万華鏡のようだった。
何もかもを洗い流し終わった後の水の匂いはひんやりと澄み渡っていて、穏やかな心と走り出しそう
な心が同居していて、それがとても心地よかった。
 その中で当たり前のように有り得ない事を言われて、それでも俺は確かに嬉しかったのだ。今まで、
一度としてそんなふうに言われた事がなかったから。まるで当然のように自分の事を好きだと言って
くれる存在がいて、泣きたくなるくらいに嬉しかった。いっそ、世界に二人だけでいいとさえ思った。
 その時、確かに、こいつとなら空も飛べると思ったのだ。
 でも、綺麗に緑葉の上で弾けた光を見詰めながら、ずっと思っていた。
眩しいほどに真っ白なシャツを着るあいつと、あいつと二人の時に見る事のできる光の綺麗なこの世
界と。そのまま宝箱に閉じ込めたい衝動に駆られる俺のビー球は、いつかベッドの下にでも転がって
しまって、何処かに消えてしまうのだと。
 だって、この子供じみた楽園は、大人になれば、入れない。



「なあ、おまえ、どこのこうこう、いくん?」
「うん。」
「なあ、どうした?きぶん、わるい?」
「うん。」
「ひとのはなし、きいとるー?」
「うん。」
 少しずつだけれど、あいつが俺にかけてくる言葉が、少なくなっていく。その代わり、あいつの周
りには人が増えていて。それで、二人で帰る道には一つずつ影が増えていって。
 なんだか、見上げる青空に、亀裂が見える。世界が白んで青い空が遠い。
 気のせいだろう?
 けど、あの楽園への道が見当たらない。
「いっしょにかえらん?」
「今日、用事があるから。」
「そうなん?」
「先に帰れや。」
「わかった。」
 増えていった影の数を、最後に一つ、俺が消す。
 消えた影はもちろん俺のもので。
 影を失くした子供は、永遠少年の楽園には辿り着けない。
 あいつと一緒に帰らなくなってから、俺は一度だけ二人で造り上げた秘密の場所に忍び込んだ。そ
してそこで一粒だけ涙を落とした。それが滑り落ちた時、俺の大事なビー玉は砕け散ったのだと思う。
震える指先で掻き集めて見たけれど、全部は見つからなかった。
 それでも拾い集めた硝子の欠片で作った楽園は、とても歪で。けれどもだからこそ美しい光を弾く
事もあって。けれどもそこには俺しか辿り着けない。
 拾い損ねた欠片が、あいつが此処に来る道を阻んでいる。
 だから、あいつは此処には来れない。
 二人だけの世界は、もう、砕けてしまったのだから。
 歪な楽園では、俺は大人のままその世界にいる事ができて、ただ、零れる光は美しいけれども真っ
直ぐではなくて、俺はずっと深海で唄を歌って、でも右手には誰の手もなくて、あの、青い空は何処
にもなくて。
 世界には塵と砂が舞い落ちる。



「おーい、おきとるー?」
 あいつの声が聞こえる。窓の外ではない。もっと近くで。俺の部屋のドアの向こう側から。
 けれど、この中にまでは入れない。俺を置いて行ってしまったお前には、この半永久的な楽園には
入れない。それに、お前だって入る気はないんだろう。
「あのな、きょう、おれのいえのげんかんに、つばめがすをつくったんやで。」
 俺が聞いていると思っているのだろうか。いや、きっとあいつはそれを確信している。俺があいつ
の言葉を逐一逃さずに聞いている事を、あいつは知っているのだ。そして今日も、俺の知らない世界
の他愛もない事を話すのだ。
「……なあ、おぼえとる?おれとおまえの、ひみつきち。」
 いきなり飛び込んできた思いもかけない言葉に、俺は一瞬眼を見開く。忘れるはずがない。あの場
所の事は、一度として忘れた事がない。
「きょうみたらな、ものすごいたくさんの、はながさいとったで。あおいはな。すすきとねこじゃら
しのあいだから、たくさん。あれ、なんてなまえなんやろ?なあ、いっしょにみにいかん?」
 俺は床に転がってあいつの声を聞く。そしてあいつの言う青い花を想像する。どんな花なのだろう。
考えているうちに、あいつの声が止まった。電気を点けていない部屋は、磨り硝子の目映い光だけを
受けて、暗い影を長く引いている。ひんやりと湿気た夕闇の真ん中で、俺は泡のような溜息を吐いた。
それだけが、ぴくりとも動かない部屋の空気を震わせる。けれど、粘度の高い空気は震えるだけでそ
れ以上の流れは生み出さなかった。
 それでいい。
 俺はずっとこの不完全なビー玉の中にいる。お前は変わりゆく空の下にいればいい。お前が捨てた
ビー玉は、俺がずっと持っているから。
「なあ。」
 黙っていたあいつが、急に真面目な声を上げた。その声に、心臓の裏が凍りつきそうになる。もし
かしたら、これが最後に聞くあいつの声なのかもしれない。そう思うくらい、聞いた事のない響きだ
った。
 ああ、と思う。
 結局、俺はいまだにあいつから離れきれていないのだ。あいつの声を一言も漏らさずに聞くのは、
あいつの声からあいつの感情を読み取る為だったのだ。そしてそれは、あいつから離れたくない俺が
いるからだ。だから、あいつの声一つにこんなにも左右されている。
 冷え込んで縮こまった俺の心臓に、あいつの声が打ち下ろされる。
「俺は、ずっと、待ってるから。」
 眼が大きく見開かれるのが自分でも解かった。
 扉一枚隔てた向こうであいつの言った言葉は、何よりも俺が欲しかったもので、今にも床に張り付
いた身体が起き上がりそうになった。けれどもタールよりも粘性の高い俺の部屋の空気は、俺の背中
に圧し掛かって俺は身動きが取れない。深海の中に吐き出した俺の空気は、期待と裏切られた時の不
安を大量に含んでいて、こんなにもどろどろと俺の身体を縫い止めている。
 あいつが、動く気配がした。
 見えない足音が、階段を降りていく。あいつが今、どんな顔をしているのか、俺には想像できない。
それどころか、俺は今のあいつの背丈も服装も知らないのだ。俺の中のあいつは、いつも真っ白なシ
ャツを着て笑っている。そうでなければ、それ以外の顔をしていたら、きっと俺は本当に動けなくな
る。
 指先で濁った木の表面を掻く。
 此処から出たいと叫ぶように、身体中に絡みつくねっとりとした不安を振りほどくように。何度も
何度も、床を掻く。何重にも付けられたその跡が、現実から逃げ惑い、結局深海から飛び立てない己
の怯懦を笑っているようだ。
 冷たい床に耳を引っ付けた俺は、やけに大きな自分の心音を聞きながら、扉の向こう側に広がって
いる青空を思い浮かべる。本当は砂と塵に覆われて見えないだろうけれども、その向こう側に広がる
青空を思い浮かべる。
 南の国を思い地に堕ちた燕の凍死体のようになりながら、それでも俺は、あいつの気配だけを追っ
ていた。








深海魚の歌