天使が町を破壊しつつ大挙して押し寄せ、そのうちの一人がとある一件の民家の壁を打ち破り、恐
れおののく女性に尊いお告げをしている。
 聖母マリアの受胎告知を題材とした絵が、いっぱいに描かれた豪勢な天井を頭上に戴く少年は、一
言で言えば貧相そのものだった。
 痩せ過ぎの肩はおどおどと縮こまって猫背になっており、肉付きの悪い青白い顔は貧血でも起こし
ているのかと思うほど病的で、その中にある二つの眼だけはやたらと大きく、忙しなくあちこちに視
線を飛ばしている。
 一瞬、麻薬でもしているんじゃないかとミヤビは思ったが、生憎と少年の身体的特徴には薬物中毒
者特有のものはなく、ただただ少年の本来の性格が挙動に現れているだけのようだ。
 ただ、少年を改めてここまで貧相に見せているのは、少年がその身の回りを無数の機械人形に囲ま
れているからだろう。美しい、天使のような機械人形に囲まれている所為で、その対比が極まり、ま
すます少年を取るに足らないものに見せている。
 松葉杖の、しかし秀麗なローレンツォ卿が、その頭を少年に向けて恭しく下げて見せねば、ジュゼ
ッペからその容姿について事前にきちんと聞いていなければ、何よりも少年が真っ白に重ねられた法
衣を身に纏っていなければ、ミヤビは間違いなく少年を使用人か何かと判断し、眼の前を通り過ぎ去
ってしまっていた事だろう。
 これを、彼女の叔母であるイシヅキ博士が聞いたならば、人を見た眼で判断するとは何事かと顔を
顰めただろう。
 しかしミヤビに言わせてみれば、貧相であろうと多少の気概のようなものを見出せるならばともか
く、如何なる破棄も感じられず、ともすれば人形や兄であるローレンツォ卿の背後に隠れるそぶりを
見せる少年に、教皇としての器を見出せと言うほうが、無理というものだ。

「教皇聖下、世界人類共同連邦の派遣職員の方々をお連れしました。」

 ローレンツォ卿が恭しく頭を垂れた、そしてミヤビから散々な評価を得た少年こそが、教皇ヨハネ
スその人である。
 緋色の麗人の言葉に、少年は安堵したような表情を浮かべた。しかしそれは、兄の語る内容に安堵
したというよりも、兄が帰って来た事に安心したように見えた。その様子は、さながら、飼いなされ
た子犬のよう。
 なるほど、兄の操り人形という言葉は、あながち的外れではない。もっと正確に言うならば、ペッ
トと言ったほうが正しい気もするが。
 ミヤビの内心の呟きなど知らない教皇ヨハネスは、薄いハシバミ色の眼を兄から、派遣員達に移す。
不安定なハシバミ色の瞳の中に、派遣員達が映り込んだのを見て、ローレンツォ卿は促す。

「聖下をお守りくださる方々です。どうか、お言葉を。」
「は、はい。」

 兄に促されてヨハネスは返事をし、おどおとどした神の声を紡ぐ。
 
「こ、この度は、遠路はるばる、お越しいただき、ま、ま、誠に、あ、ありがとうございます。」

 たどたどしく、そしてどもる必要があったのかというくらい短い謝意の後、ヨハネスはちらりと兄
を見る。弟の、これで良いのかという視線を受け取ったローレンツォ卿は、教皇を護るようにその前
に立ち塞がった。

「さて、此処に来る前にも話し、そして既に情報として連邦にもお渡ししていると思うが、今一度、
今回のお越しいただいた理由となる事件について説明させていただこう。」

 何度も、音声で、文字で、繰り返された教皇庁暗殺未遂の概要について、だ。派遣員達がローレン
ツォ卿に各々が頷くと同時に、ローレンツォ卿は背後にいる弟を振り返り、

「聖下。これより話をする内容は、聖下にとっては不愉快な内容となります。故に、席をお外しにな
られた方が宜しいかと。」

 兄の気遣いに満ちた言葉に、弟は青白い顔をますます蒼褪めさせたかと思うと、何度も頷いて腰を
浮かせ、

「わ、わかりました、兄上。僕は、さ、下がらせてもらいます。」

 と、尻尾を巻くようにして、己が被害者となった事件の語りから、逃れ始めた。辛うじて派遣員の
ほうに向けて一礼すると、美しい人形達をぞろぞろと引き連れて、部屋から出ていく。
 人形に囲まれて逃げ出す神の代理人の姿に、とんだ腰抜けだ、とミヤビは顔を顰めた。
 確かに、幼くして己の意志に関係なく教皇という一つの宗教の――しかも国家レベルでの影響力を
持つ――教祖になってしまったヨハネスには、同情する面もある。その背に負う重荷は、如何ほどか
とも思う。
 しかし、逃れる事の出来ない重荷を背負い、茨の道を首輪を付けられて歩かねばならないとはいえ、
仮にも教祖として宗教の頂点に立つ者が、脅威に対して背を向けるとは。
 ヨハネスのその姿は、今の教皇庁という組織が、如何に脆弱な岩であるかを物語っているようだ。
ヨハネスの様子がこれでは、誰もが彼を軽んじ、嘲っているに違いない。内部で抗争があったとして
も、驚きはしない。
 命を狙われるという恐怖は、経験してみなければ分からない、と言われるかもしれない。辛いなん
てものではないのだ、と。まして、命を狙っているのは、身内である可能性が高いのだから、己の血
統を恨まずにはいられないだろう。
 けれどもそれを考慮した上でも、やはりミヤビの眼からは、ヨハネスの行動は腑抜けに見えるのだ。
 ミヤビとヨハネスは、年もそう変わらない。そして立場も境遇も違うが、違う意味での戦場に身を
置くのは同じだ。だからこそ、余計にミヤビのヨハネスに対する点は、辛くなるのかもしれない。
 ヨハネスの立ち去った閉じた扉の向こう側に、ヨハネスの頼りない背中を見て取っているミヤビに
気が付いたわけではないだろうが、ローレンツォが弟の態度について言及する。

「今からの話は、弟にしてみれば自分が殺されかけたり、他人が自分の身代わりとなって殺された事
を思い出す事になる。命を狙われる事はこれまでにもあった事だが、今回は明らかに同一人物、或い
は同一の組織による犯行で、しかも一つ一つの事件を起こす期間も短い。そして、弟の身近にいた人
物が犠牲となっている。弟の責任ではないが、責任を感じても仕方がない。現に、自分の所為でと思
うあまり、夜もろくに眠れていないようだ。」

 兄の庇い立てに、だから逃げるのか、とミヤビは少々意地悪な気分になって思う。眠れぬほど責任
を感じているのならば、せめて己の周りで起きた事件からは眼を逸らすべきではないだろうに。
 そしてローレンツォ自身にも思う。そうやって庇い続けていて良いのか、と。
 ローレンツォが庇えば庇うほど、幼くして教皇となったヨハネスは、ますますないがしろにされる
のではないか。
 もともとが、ローレンツォの力で――ヨハネス自身の血統もあるが――教皇となったのだ。他の枢
機卿を始めとする、教皇庁関係者のヨハネスの視線は、冷ややかなものであろう事は想像に難くない。
今時、教皇という身分に神性を見出す者も少なかろう。
 兄の人形。もしくはペット。
 その形容を吹き飛ばすほどの覇気が、ヨハネスにあったならば話は全く別のものになっただろうが、
生憎と尻尾をいつも巻いているような少年に、そんな気概は望むべくもない。あれでは、侮られない
がしろにされても仕方ないだろう。
 ローレンツォは、その事をどう思っているのだろうか。兄として、弟が軽んじられる事を良しとし
ているつもりだろうか。それとも政治という戦争に弟を巻き込んだ事に責任を感じ、弟の無責任な行
動を咎められないのだろうか。それとも、やはり弟を人形として扱う為に、弟は愚か者でいさせよう
という心積もりなのか。
 さて、とヨハネスの事は切り上げて、ローレンツォは誰からの視線もものともせず、説明を始める。

「事の起こりは三ヶ月前の事だ。教皇聖下が身分を隠して車で移動していた際、襲撃にあった。幸い
にして聖下にはお怪我はなかったが、車を運転していた運転手は頭に被弾し、死亡した。」

 車のタイヤをすべて撃ち抜き、その直後にフロントガラスにもう一撃、打ち込んだのだという。そ
の銃弾が、運転手の頭を撃ち抜いたのだ。

「事件当時、車は時速七十キロで走っていた。現場を調べる限り、銃弾は五発。タイヤ四つ分と、運
転手を撃ち抜いた一発だ。幸いにして機械人形が聖下に付き添っていた為、運転手が死亡してもすぐ
さま機械人形が対応し、二次被害が出る事はなかった。」

 次に起こったのが、と淡々とローレンツォは説明を続ける。ただ、この時になって少しだけ、眉が
顰められた。

「次がローマ市内にある孤児院を訪問した時なのだが……孤児の様子を視察している際中に、銃撃を
受けた。子供達が見ている前で、だ。」

 しかし、恐ろしいのはそこではない、とローレンツォは言う。そして、ローレンツォが眉を顰めた
のもそこではないようだ。

「襲撃者は、信じられないほどに聖下の傍にいたのだ。孤児院の中を案内していた孤児院の院長・彼
が、服の下から散弾銃を取り出し、聖下目掛けて引き金を引いた。この時も、聖下にはお怪我はなか
ったが。」

 代わりに、傍にいた孤児の一人が、咄嗟に身を投げ出して教皇の代わりに撃たれ、死亡したという。
ヨハネスが責任を感じているのは、これなのかもしれない。

「だが、問題はこの後だ。」

 ローレンツォの眉間の皺が深くなる。
 
「襲撃者は失敗するとみるや、逃亡を図った。そして、まんまと逃げおおせた。今でも、この時に撃
ち落せていれば、と悔やまれる。」

 逃げられた事は間違いなく問題だが、犯人が孤児院の院長であると分かっているならば、足取りの
掴みようもあるはずだ。しかし、そのような安易な話ではない事は、既に情報に眼を通している博士
達も、承知している。

「当然、我々は院長の部屋を捜索した。だが、その時に発見されたのは、死後数日は経っている院長
の死体だけだった。」

 死体の腐敗具合からして、事件が起きた時には院長は既に殺されていたのだ。つまり、襲撃者は院
長を殺害し、院長に成りすまして教皇に近づいたのだ。だがそれは、襲撃者が逃亡する際に既に分か
っていた事だ。

「襲撃者は逃亡する際に、変装を解いて、僅かではあるが我等にその姿を見せた。あれを変装と言っ
ていいのか、そしてあれが本当の姿とも分からないが。だが、その姿は一番最初の襲撃で見た人影と
同じであり、その後の襲撃でも見る姿だ。故に、仮にではあるが、それを犯人像の一つとする事にし
た。」
「それが、白い人影ですか。」

 博士の言葉に、ローレンツォは頷く。形の良い眉の間に作られた皺は、消えない。

「そう。髪も服も白い、人影だ。私も聖下と共にいる際に襲撃にあい、その姿を目撃した。その時は
教会の司祭に化けていてね。」

 苦々しく吐き出された言葉。しかし次に出された声には、困惑とも疑念ともつかぬ響きがあった。

「そう……化ける、と言ったが、正にそれが正しい表現だ。変装ではない。変装では、顔はおろか、
服まで変える事は出来ない。」

 孤児院の院長の顔を使った襲撃者は、逃亡する際に見る間に、おそらく本来の姿である白い姿に戻
ったのだ。何かを剥ぎ取る素振りもなく、髪も、服も白く変貌し、体型も一瞬にして初老の太った男
の姿から、小柄だか美しい青年の身体つきへと。
 マスクを剥ぎ取ったのではない。服を脱ぎ捨てたわけでもない。その表面が、別の何かに置き換わ
った。或いは変質してしまったかのようだった。細胞レベルで、変容してしまったかのような。

「これまでも、聖下は暗殺の危険に曝されてきた。命の危険に瀕する事も、一度や二度ではない。特
定の暗殺者に狙われる事もあった。だが、こんな、あらゆる姿を真似ては消え失せる暗殺者は、初め
てだ。」

 いや、暗殺者でなくとも、表皮から変貌する者など、聞いたこともない。ローレンツォの眉間の皺
は、その困惑から来ているものだったのだ。