「お前の言っている事を、信じろ、と?」

 ハインケルは腹腔に感じる厳めしい凶器の存在など歯牙にもかけぬまま、冷ややかに告げる。翠瞳
は瞬く度に氷が広がるように凍てつく。
 ハニエルの言葉に信じるに値する部分があるのか、ハインケルにはまるで分からない。信じた瞬間
に、ハインケルのこれまでの行動と、そしてこれからの行動が全て教皇庁に、敢え無く筒抜けになる
かもしれないのだ。

「そもそも、何故この場所で通信障害が起こる?この場所は打ち捨てられた過去の場所。確かにそれ
だけならば、通信そのものが困難であっても仕方がない。だが一方で教皇庁にも管理されている場所
だろう。」

 過去の水路という遺物として。いや、脚元に転がる未登録住人の――ガーディアンの存在を鑑みる
に、それ以上の場所として。
 ハインケルの指摘に、ハニエルはやはり表情一つ変えずに頷く。

「その通りです。この場所は五百年前の遺物として、教皇庁に管理されています。しかし、この遺跡
の全容は教皇庁でさえ把握できていません。未だ調査中である場所も、多数存在します。」

 水路は海の影響による水面の上昇を監視するために、常にあちらこちらでセンサが作動し、ドーム
内部に影響がないかを見張り続けている。しかし、ハインケルが足音に導かれるように踏み込んだこ
の場所は、既に水路は細く狭まり、溝と言ったほうが正しい代物となっている。水も流れているが、
なみなみと揺蕩っているわけではない。

「此処は、教皇庁も知らない場所だと?」

 憲兵達の死体が転がっているのに。
 皮肉めいた口調でそう告げれば、ハニエルはやはり一切の動揺を知らぬ顔をしている。

「此処までは、教皇庁は把握しているのです。」

 静かで平坦な機械音声が、無機質に反響する。

「此処までは、私のデータベースにも存在しています。しかし、この先は侵入不可。行き止まりです。」
 しかし、足音は先に進み、消え去った。

 ハインケルは、トキオ・ドームの地下にあった施設をぼんやりと思い出す。暗闇に包まれた、過去
の記憶を閉じ込めた、あの、棺。あの場所に通じる道も、また、門が閉ざされ、通常ならば侵入が不
可能な状態だった。あれを開けるのは、その場の保護を任されたガーディアン達だけだ。
 この場所も『憂いの棺』と同じような目的で作られた場所であるならば、先に進んだ足音は、ガー
ディアンのものという事だろうか。
 しかしそれならば、今此処でガーディアンが破壊されているのか。
 仲間割れ、というものは機械である彼らには存在しない。あるとすれば、ウイルスによる暴走だ。
 ハインケルは、奥歯を噛み締める。
 あの、トキオ・ドームと同じような事が起ころうとしているのではないだろうな。
 ウイルスによる機械人形の暴走は、度々起こる事件だが、しかしあの時の事件はウイルスバスター
の不備や愉快犯によるウイルス拡散などが原因ではなく、遥か昔から引き摺られた深淵が呼び寄せた
ものだった。
 そしてそこに関わっていたのは。

「……まさか、ラング博士。」

 博士と並び称されるほどの天才と言わしめた、機械工学の一人者。しかし違法なサイボーグ化や、
機械人形の制作に携わっており、世界中で指名手配されている。今は、とある何者かに仕えており、
そして五百年前の遺物に並々ならぬ関心を寄せている。
 もしも、あの男が関係しているのなら。
 脳裏に閃くのは白い人形の事だ。
 八年前、フィレンツェ・ドームを破壊した謎の、ただSJという機体名称だけが判明している十体
の白い機械人形。その内の一体が、憂いの棺の最深部で眠りについている。
 そして教皇暗殺の際に走り去ったのは、白い人影だったという。
 今度は、喉の奥だけで、まさか、と呟く。
 胸の裡に一瞬だけ沸き起こったのは、期待か、それとも不安か。

「通信障害の原因は、私にも分かりかねます。少なくとも、先日の水路調査の際には、このような障
害は発生していませんでした。」

 ハインケルの頭の中に渦巻く思考など、まるで想像もしていないと言わんばかりの口調で、ハニエ
ルが淡々と告げる。
 ハニエルがハインケルに信じられるために発せらせた言葉。しかしそれは、今現在ハインケルの中
を襲った一つの考えと、そしてハニエル自身の声に微塵も必死さがない所為で、ハインケルに幾分の
傷もつける事が出来ずにいる。
 もしも、ハニエルの声に少しでも必死さがあったなら、多少は言い分の幾許かを信じたかもしれな
い。しかしハニエルは語ってはいるが、言い募ってはいないのだ。
 ハインケルは一旦、己の中に産まれた疑惑とも期待ともつかぬ考えを仕舞い込み、改めてハニエル
に向き直る。

「しかし、お前に、お前の言葉を証明する事が出来るのか?」

 ハニエルと同じくらいに淡々と問う。

「ハインケル。」

 人形が、何の感情もない声で、名前を呼んだ。

「機械である私には、虚偽を申告する事は出来ません。それは、対象者が教皇庁内外で差はありませ
ん。」

 己は嘘を吐けないのだ、と人形は言う。
 その通りだ。機械は嘘を吐く事が出来ない。
 しかしハインケルは内心で、そういうふうにプログラムされていない限りはな、と呟いた。嘘を吐
けるようにプログラムすれば、機械だって真実とは別の言葉を吐く事が出来るのだ。
 だが、これ以上の問答は無意味だった。通常、確かに機械は嘘を吐かないし、嘘を吐けるようにプ
ログラムされているかいないかは、ハインケルには判断できない。それに、これ以上の問答を続けて
いれば、本格的に足音の主の追跡が困難になってしまう。
 ハインケルはハニエルから身体を引き、刀をハニエルの首筋から離すと無言で鞘に納める。同時に、
ハニエルも銃を下げてホルスターに治める。その動作を追いかけながら、ハインケルは独り言のよう
に言った。

「まあ、いいだろう。だが、今の発現に少しでも虚偽があった場合は、即座に切り捨てる。そう、認
識しておけ。」

 後半部分だけ、相手に言い聞かせると、ハニエルは無機質に頷く。
 
「わかりました。」

 ハインケルは、プラスチックが口を利いているかのような平坦な声に背を向ける。ただし、腰に帯
びた刀の柄から、手を離したりはしない。翠の眼は前を向いているが、背は人形が良からぬ動きをし
ないか、その一挙一動を追いかけている。

「……奴が逃げた方向を、お前は追跡できないのか。」

 ふと、歩き出そうとした足を止め、肩越しに人形に問う。すると、人の機微など分からない人形が、
追跡は可能です、と答える音がした。
 ハインケルの斜め後ろに従う硬質な足音に重なる機械音声は、おそらくハインケルの問いの真意な
ど分かっていない。分からぬままに、愚直に答える。

「ドヌーヴォ大尉を撃ったかと思われる者は、この先を進んでいます。問題なければ、私が先行しま
すが?」

 平坦な申し出に、ハインケルは頷く。
 もちろん、ハニエルの事を信用しているわけではない。
 これは、ハインケルがハニエルに対して仕掛けた罠だ。
 ハニエルが、もしも正真正銘、ハインケルを犯人のもとに連れて行くならば、それはそれで問題な
い。罠は真実の土の裏に隠されたまま、埋もれていくだけだ。
 しかし、もしもハニエルがハインケルを事実とは異なる場所へ――犯人を庇うような真似をしたな
らば、この罠は発動する。即ち、ハニエルは何らかの形で、教皇暗殺と関わっている事が証明される
のだ。
 むろん、ドヌーヴォを撃ち殺した人物が、教皇暗殺に関係しているとは言い切れない。だが、教皇
暗殺に末端であるとはいえ関わっていたドヌーヴォを殺した存在が――しかもドヌーヴォが核心をハ
インケルに告げるそのタイミングで殺した存在が、教皇暗殺に関わっていないと断じる事のほうが難
しいのではないか。
 そしてこの先、もしもハニエル302号機が、ハインケルを別の場所に導いたなら、ハニエルもま
た――正確にはハニエルを背後で操る人形遣いが、教皇暗殺に関わっていると見るべきだろう。
 そうなれば、芋づる式に、教皇暗殺に関わる全てが、黒幕に至るまで引き摺り出す事が出来るかも
しれない。
 仮にその間際にハニエルが自壊したとしても、もしくはハインケルがハニエルを破壊せざるを得な
い状況となったとしても、そのバックアップメモリを解析すれば、何らかの事象は判明するはずだ。
 脇を横切る、硬く規則的な足音を横目で見ながら、ハインケルは見えるはずのない、ハニエルを背
後で操っているであろう糸を探す。
 ハニエル自身は、ハインケルの眼にも、己に命令を下している存在にも、疑いなど欠片も抱いてい
ない。人形は人形であり、所詮、無垢でしかない。先立って歩こうとする人形は、人間が本来抱く揺
らぎなど、一抹も知らないのだ。

「先行します。遅れぬよう、同行を。」

 だから、己の次なる行動を入力して歩き始めた機械人形が、つと立ち止まり、肩越しにハインケル
を振り返った時、ハインケルはぎょっとした。ハニエルの仕草が、人形離れしていたからではない。

「ハインケル。ご安心を。」

 静かに反響する声は、あくまでも作られた機械音声だったが。

「貴方を、一連の事件と無関係な場所へ連れて行きはしない。」