正義感溢れる者が聞けば、ハインケルのこの言葉は、この上なく不正義な言葉だろう。完全な、悪
党との取引だ。
 だが、ハインケルは、この水の奥深くに沈んだ世界を統括する世界人類共同連邦の職員ではあるが、
彼個人は――いや、世界人類共同連邦自体も――正義に満ち満ちているかと言えば、決してそうでは
ない。確かに、唾棄すべき邪悪に対して膝を突くことについては良とせず、むしろ反発して昂然と頭
を上げるが、一方で正義に対しては仄かな諦観を持っている。
 それは、ハインケル自身が孤児であるという、この世界では決して、どれだけ功を重ねたとしても
重要視されることがないであろうと分かっているが故の、出自による圧倒的不平等に対する諦めであ
るのかもしれない。血統が重要視されるこの世界において、ハインケルのような孤児は上り詰めるこ
とは難しい。  
 もしも、孤児であっても戸籍を証明するものがあれば話は違っただろうが、ハインケルの戸籍は洪
水に流された幾多の情報の渦よりも、おそらくは何処か浅い場所で埋もれてしまっている。探せばあ
るのかもしれないが、何処を探せば良いのか宛もない為、ハインケルは結局、己の血統が分からぬま
まに生きるしかない。
 幸いにしてハインケルは連邦の職員という、孤児としては間違いなく恵まれた環境に身を置くこと
が出来た。ただし、それでも捨て駒という役割だ。その座からハインケルが動くことは、未来永劫な
いだろう。
 けれども捨て駒と雖も、仮にも世界人類共同連邦という、水に飲まれた世界を何とかして統率して
規律を保とうとする、どちらかと言えば正義の側に属しているのは、単に自分を拾ってくれた博士へ
の恩義と、そして他に行く宛がないという切実な現実が横たわっているからだ。

「どうする。」

 己の中にある現実などおくびにも出さず、ハインケルはドヌーヴォに悪役さながらの脅しをかける。
そんなハインケルに対して、その背後でハインケルの挙動を見逃さずに見ている人形は、何も言わな
い。ハインケルの行動について何かを言う権限がないのかもしれないし、何を言うべきか、その思考
ルーチンでは弾き出せないのかもしれない。
 動かぬガラスの目玉の前で、ハインケルはドヌーヴォに問う。
 此処で語らぬのなら、連行されて廃人になって話すだけの存在に成り下がるだけだ。それこそ、そ
こで突っ立っているだけの人形のように。
 ぎょろついていた眼が、ようやくハインケルを見据える。荒い吐息の向こう側で、ひび割れた唇が
動いた。

「ほ、本当か?」

 そこには、既に国家憲兵の隊長であった男は何処にもいない。部下の肉片が飛び散る中で這いつく
ばっている男は、今から全力で命乞いをする愚かな罪人であるだけだ。
 哀れな罪人を床に押し付けたまま頷くと、ドヌーヴォは口から唾を飛び散らせると同時に、言葉を
吐き出し始めた。

「別にお前達が真の狙いじゃない。俺達は連邦に盾突くつもりなんてないんだ。お前達をローマ・ド
ームから、教皇庁から追い出せれば、連邦に追い返せればそれで良かったんだ。」

 以前のようにローマ・ドームが、教皇庁が、連邦の介入を受けず、己の問題は己の中で解決し、独
立していればそれで良かった。
 堰を切ったかのように垂れ流される声を、ハインケルは黙って聞く。ドヌーヴォはもはや語る事に
なんらかの柵も持っていない。逆にハインケルが妙な口出しをすれば、己が価値ある存在であると驕
り、出し惜しみをし始めるかもしれない。だから、ハインケルは相槌だけを打って、ドヌーヴォの語
るに任せる。
 そのドヌーヴォは、相槌さえ必要としていらぬ風情だ。己の言葉に酔いしれているかのようだ。そ
の実、ただの命乞いでしかないわけだが。

「俺達は頼まれただけなんだ。俺達のような一介の軍人は、命令された以上、それに従うしかない。
分かるだろう?」

 縋るような媚びるような眼で、ドヌーヴォは同意を求める。ハインケルはそれを無視し、先を促す
問いを発した。

「……それは、世界人類共同連邦に盾突くように命じられたということか?」

 その言葉に、ドヌーヴォは媚びた色を消して、代わりに焦ったような色を顔に貼り付ける。違う、
違うんだと叫ぶドヌーヴォは、もしも自由の身であったなら、全身を使って首を横に振っていただろ
う。

「確かにお前達を殺せと命じられた!俺達は追い返すだけで良かったけれども、そう命じられたんだ!
だが、それは目的の為にお前達が邪魔だからだ。お前達に、世界人類共同連邦に盾突こうとしたわけ
じゃない!」

 部下が辿った末路から、己だけは遠ざかろうと必死で言いたてる。部下の行く末の一端に、己も関
わっていたことは、その頭の中からは抜け落ちているのだ。
 けれども、ハインケルにはドヌーヴォの焦りも憐れみも、関係ない。脚元に広がる国家憲兵の肉塊
でさえ、ハインケルにはどうでも良い事だ。

「ならば、お前の――お前に俺達の殺害を命じた者の、目的はなんだ。」

 ハインケルは、ドヌーヴォの首筋に一層刃を押し付ける。痛みが皮膚に伝わったからか、それとも
質問内容が核心に迫ったからか、ドヌーヴォの喉が、ぐびりと動いた。喉仏が言葉を発する為に震え
るのに、一拍ほどの時間を要したのは、

「教皇暗殺。」

 如何に操り人形と軽んじられ、政治道具としてしか見做されていないとはいえ、肩書が言葉だけの
存在とは雖も、やはり神の代理人の名を頂く存在を消す事への躊躇いからか。そんな信心深さが、派
遣員と共に己の部下を消し飛ばそうとした男の中にあったのか。
 一方で、ハインケルの中には、やはり、という言葉が浮かんでいる。世界人類共同連邦に盾突くテ
ロリストでないとしたら、ハインケル達派遣員を狙う理由はそれしかないからだ。教皇暗殺を食い止
める為に、教皇庁にやってきた、ハインケル達を。

「それを命じたのは、誰だ。」

 ドヌーヴォを床に押し当て、刀をその首筋に突き付けながら、最後の質問であり、そして本題を問
う。
 これで、この男が吐けばこの任務は尾張になるかもしれない。それとも、蜥蜴の尻尾切りで有耶無
耶になってしまうだろうか――。
 男が、何度も唾を飲み込み、その度にごりごりと蠢く喉仏を見下ろしながら、ハインケルはそれで
も無表情を貫く。
 やがて、意を決したのか、ドヌーヴォが口を開いた。
 
「それは――。」

 ドヌーヴォの緊張の所為かしわがれた声が耳に届くと同時に、突然、腹に圧迫感を受けた。
 何、と、疑問を呈する暇もなく、ハインケルの身体はドヌーヴォから引き剥がされていた。直後、
ドヌーヴォの声を掻き消し、静寂を断ち切る轟音が水路の奥から突風のように吹き付けてきた。水路
の中を銃声が幾重にも反響し、轟く。
 轟音の末尾に、ぐしゃり、とドヌーヴォの頭部が旋毛から破裂した。
 銃声を頭頂に受けたドヌーヴォは、瞬く間に、頭があった部分に真っ赤な花を生臭く咲き誇らせて
いた。脳漿と脳繊維と、夥しい血はドヌーヴォが倒れている場所一面を覆い尽くしている。
 轟音が水路を通り過ぎる中、何者かが水路の奥へと通り過ぎる音が、小さく重なった。
 状況から判断して、ドヌーヴォに向けて銃を放った本人と見て間違いがない。だが、何の為にドヌ
ーヴォを撃ち殺したのか――愚問だった。
 口封じだ。
 歯噛みするハインケルの耳朶を、まるで凪いだように何も起こらなかったと言わんばかりの音が打
つ。

「お怪我はありませんか?」

 ハインケルをドヌーヴォから引き剥がしたハニエルが、損害評価を問うてくる。それを突き飛ばす
ように振り払うと、ハインケルは足音が去っていく方向へと駆け出す。
 ハニエルが、ハインケルだけを助け、ドヌーヴォは見捨てたことについても詰ってやりたかったが、
そんな事よりも逃げる足音を捕えるほうが先決だった。そもそも人形を詰ったところで、人形がそれ
に対して『心』を動かされる事はないだろう。
 だから、舌打ちするに留め、ハインケルは薄靄のように凶弾の残響が漂う水路をひた走る。その後
を、人形の硬質な足音が追いかける。
 恐ろしいほどに、ハインケルと人形の足音は水路の中に響いた。ハインケルの居場所を知らしめる
ように。
 恐らくドヌーヴォ以外にも国家憲兵がこの水路にはやって来ているだろう。そして彼らは皆一様に、
ハインケルを捕えようとしているはずだ。彼らはドヌーヴォの散弾銃の音も、ドヌーヴォを殺した凶
弾も、そしてハインケルの駆ける音も、聞いているはずだ。これらに異常を感じて、こちらにやって
来る可能性は高い。
 しかし、今はそれに構っている暇はない。もしも邪魔をするのならば、全て叩き伏せるだけだ。
 冷え込んだ石畳と水音の上をひた走っているうちに、水路は次第に細くなっていく。それに反して
石畳の幅は広がり、足場が広がるにつれ壁や床に渡航された光は強くなる。もはや水路ではなく路地
と言ったほうが相応しい様相となった時、ハインケルは行く先に無数の斃れた影が無造作に床の上に
転がっている事に気づいた。
 そしてそこから漂う、濃厚な死臭にも。
 はっとして足を止める。遠ざかる足音に後ろ髪を引かれつつも、その場の光景に眼を止める。倒れ
ているのは、一様に黒の国家憲兵の制服を着ていたのだ。ドヌーヴォ以外の、ハインケルを殺しに来
た連中とみて間違いがない。
 調べれば、悉くが息をしていない。ただし、ドヌーヴォの部下とは違い、皆がそれなりに原型を留
めていた。何度も銃撃を受けたのではなく、喉元への鋭い一撃で死んでいるのだ。
 次の角を曲がっても、やはり同じように国家憲兵達が息をせぬままに転がっている。
 一体誰が、と当然の疑問が沸き起こる。ドヌーヴォを殺した、駆け去る足音の持ち主に殺されたの
だろうか。しかしそれにしては殺され方が違う。ドヌーヴォを殺したような、頭を破壊するような銃
撃で殺されたのではない。彼らは綺麗に殺されている。そもそも、彼らを殺す銃声を、聞いていない。
 では誰が。
 疑問が浮かぶ中、その答えが国家憲兵とは異なる倒れた人影から齎された。
 国家憲兵から少し離れた通路に転がっている、国家憲兵とは全く異なる姿をした倒れた人影。粗末
な上下の衣服に身を包み、何年も櫛を当てていないのだろう、ぼさぼさとあちこちが絡まった髪が長
く伸びている。
 明らかに浮浪者のような成りをした人影に跪き、大きく見開かれた眼と、身体の下を流れる液体を
見て、ハインケルはそれが何物であるのかを悟る。
 風体は完全に、浮浪者のそれだ。血統が重視されるこの世界では、戸籍を持たぬ人々は職にあぶれ、
路頭に迷う事も少なくない。そうした人々が地下に流れ着くことも珍しい話ではない。
 けれどもこの浮浪者は、それではない。何せ、流れる液体の色は赤くはなく、どろりと粘つく虹を
孕む透明である事が、その存在がなんであるのかを何よりも明白に語っていた。何よりも、大きく変
形した、その手が。
 五本あるはずの指は一つに固められ、鋭く尖った剣のように変形し、硬化していた。先端には血糊
がべっとりと付いている。
 ハインケルがそれらを認識すると同時に、浮浪者の顔はいきなり無数の筋が入るや、そこから一気
に割れ、その下に詰め込まれていた夥しい電子部品が爆ぜるように飛び散った。部品の幾つかは流れ
出たオイルの中に沈み込む。
 そして、飛び出た眼球――を模した視覚センサが、床の上で一つ跳ねて、脇で細く深く流れていた
水路へと落ちた。
 未登録住人だ。