一旦沈み込んで、再び浮き上がる。
 ちょうど水の中に飛び込んだ時と同じような感覚で、ハインケルは覚醒した。
 瞼を抉じ開けると、視界に飛び込んできたのは明度が殊更低い天井だった。次に知覚できたのは、
鼓膜を擽る水の音。それが耳を打つたびに、闇の濃さに数本の光が差し込み始め、茫洋としていた視
界と覚醒した意識が一致する。
 一致した後、ハインケルはようやく身体中に広がる鈍い痛みに気が付いた。そして己の身に降りか
かった出来事を思い出す。自分は崩れ落ちたアスファルトの下にいるのだ。
 即ち、此処は地下。
 耳朶を叩く水音は、地下水道のものだろう。遥か昔、この辺りを貫いていた河川は全て地下に埋め
られたが、今でもまだ生活用水を廃棄する場所として使われている。この流れを辿っていけば、いつ
かは海に辿り着くだろう。
 ハインケルは何処も骨折していない事を確認し、身を起こす。幸い鈍い痛みは打撲によるものだけ
で、他に目立った怪我はない。
 以前にも似たような事があったな、と思いながら、遥か地上――自分が落ちてきたアスファルトの
裂け目を振り仰ぐ。おそらくそこからはドームの人工光が降り注いでいるはずなのだが、生憎とハイ
ンケルの眼ではそれは確認できなかった。――つまり、光が差し込まぬほどの地下に落ちてきてしま
ったのだ。
 さて、どうやってあそこまで登るか。
 悲嘆に暮れるなどという言葉はハインケルには残されてはいない。今は任務中だ。なんとかして博
士達と合流し、任務を遂行せねばならない。十三課の派遣員として、ハインケルからは人とはぐれた
からといって途方に暮れる暇も、感覚も、持ち合わせていない。
 否。
 光差さぬ天井を見て、自分の中に誰かを失って途方に暮れる感情が皆無であることを、ハインケル
は否定する。
 闇の深い周囲の中に、ハインケルはぼんやりと白い影を描いていた。
 同時に、水音以外の硬質な足音が、耳に飛び込んできてぎょっとする。唐突なその音は、今まさに
ハインケルが思い浮かべていた白い影を思い出させる。
 あまりの既視感に、ハインケルはぴくりと肩を揺らした。
 そう。
 以前にも、これと似たような状況に陥った事があった。発生条件こそ違うが、倒れたハインケルに
近づく足音は、思い描く白い影のものとよく似通っている。何よりも近づく足音の響きが。その、硬
さも。一切の乱れのない、その歩調も。
 それらは遠い昔の出来事ではない。
 懐かしむほど遠くはない感覚に押されるように、ハインケルは足音のするほうを見る。砕かれ、水
路に散らばるアスファルトの向こう側。先程思い描いた影の余韻が残る場所。
 そこに、重なるように、すっと脚が伸びた。次いで、腕が。
 闇の中からいきなり現れたそれは、驚くほどに白い。滲み出るような白い輝きを放っていたとして
もおかしくないほどに。
 思わず息がつまり、しかし直後に、それは所詮は只の目の錯覚だと思い知らされる。或いは、記憶
の悪戯か。
 確かに、暗がりの中から現れたそれは、神々しいほどに白い。けれどもそこに現れた顔は、ハイン
ケルが望むそれとは、全く違っていた。
 闇の中を通り抜けて現れたのは、故に漆黒に染まったのかと思うほどに黒々しい人形だった。ただ、
顔だけが白い。けれどもその顔は、端正ではあったが能面のように薄い笑みを湛えた、不自然な表情
を作っていた。
 これは、人形だ。
 気が付いた途端、人形の肌の滑らかな白さを神々しく思っていた自分が、馬鹿らしくなった。一瞬
で色褪せた白から、ハインケルは微かに眼を逸らす。
 そう、これが、彼であるはずがないのだ。
 自分は一体、何を期待していたのか。
 苦笑いを浮かべる気にもならず、ハインケルは歩み寄る人形に再び、今度は感情のない視線を戻す。
それ以上の意思表示をする意味はない。何故ならば相手は人形であって、言葉を入力せねば、こちら
の情報を入手できないのだ。大袈裟な表情を作ったところで、相手には通じない。些細な感情を込め
た視線など、言わずもがなだ。
 これは、ただの人形なのだ。
 彼では、ない。

「お怪我はありませんか?」

 淀みのない、そして恭しい声と共に、手首までを黒い袖で覆った白い手が差し伸べられた。ハイン
ケルは、傷一つないその手をしばらくの間見つめていたが、それを取る事はせずに立ち上がる。
 眼の前にある手は、かつて自分に同じように差し出された手とよく似た白さを持っているが、根本
的なものが違う。作り物である点も彼はそうだったが、彼の手は限りなく人間に近かった。
 白い人工皮膚の下を通る赤い皮下循環剤が、皮膚を通して透けて見え、まるで血管が透けて見えて
いるかのようだった。皮膚には微かな産毛が同間隔で植えつけられていた。爪も皮下循環剤を透かし
て、ほんのりと赤く染まっていた。
 けれども、今、眼の前にあった手は、ただ白いだけで、生々しさは何処にも見当たらない。
 思って、否、と打ち消す。
 あの人形は、別の意味で生々しさとは無縁だった。人間のような生臭さは何処にもなく、いっそ高
尚と言える白を纏っていた。
 ハインケルはその残像を一瞥すると同時に、それを飽きもせず思い浮かべていた自分を内心嘲笑っ
た。思い出したところで、それは遥か遠くに沈み込んで、触れることもできないのに。
 差し出された人形の手は、一切触れられる事なく、行き場を失っている。しかし、その手をばつが
悪いと感じることもないのだろう、人形は置き去りにされていた手をひらりと引っ込めた。
 人形の滑らかな動きに何の感慨も得られぬまま、ハインケルは自分の位置を確かめる。相変わらず
頭上は暗く、光は降りては来ない。
 一体、どれほど深く落ち、何処に自分はいるのか。水音だけが聞こえる以外に、己の存在を確かめ
る術のない場所では、それを知る事も難しい。
 そこまで考え、ハインケルは自分が周囲を――少なくとも目の前にいる人形を見極める事が出来る
事に、はっきりと思い至った。物を見ることが出来るという事は、ごく少量と雖も光源があるという
事だ。地上からの光は遮られているから、少なくともこの周辺に。
 ハインケルは、注意深く自分の周りを、眼を凝らして見てみる。すると、よくよく見れば、壁に薄
い光が貼り付いている事に気が付いた。壁から僅かに零れ出ている緑がかった不可思議な光は、ぼん
やりとではあるが周囲を照らし出しているのだ。ぼんやりとした光に出らされた世界は、光の所為か
緑がかった闇であり、その中におそらくは元は赤々としていた煉瓦造りの壁と、石畳の床、そしてそ
の脇をさらさらと幅広の水路が流れている。水音の源は、これだったのだ。

「この水路は、元はセーヌ河と呼ばれていた河でした。この頭上に、先程まで我々がいた高速道路が
あります。」

 水路を眺めるハインケルに何を思ったのか人形は――人形に『思った』という言葉はおかしなもの
なのだが――口を開き、ゆるゆると水を流している水路の説明を始めた。その声を淡々と聞き流して
いたハインケルだったが、ふっと気になり尋ねる。

「俺が落下してから、どれくらいの時間が経った?」
「五時間二十三分十九秒です。」

 意識を失うには、長すぎる時間だ。眠っていた、と言ったほうが正しいかもしれない。そして、事
件発生からそれだけの時間が経っているにも拘わらず、誰一人として救助にやって来ないという事実
に、微かに眉を顰める。救助が欲しいと言っているわけではないが、事件の対応としては妙だと思う
のだ。
 博士達はおそらく任務を優先させているだろうから、ハインケルを置き去りにしたというのは分か
る。だが、高速道路が陥没するほどの――しかも銃撃戦の末に、だ――事件があったのだから、少な
くともローマ・ドームの警察なりなんなりが対応しているはずなのだが。
 怪訝に思い、眉を顰めたハインケルの耳に、ふと水音だけの世界に異なる質感の音が混ざっている
事に気づく。固い石畳を、掌よりも固く金属よりも柔らかい――ちょうど、靴の裏側で叩くような音
が甲高く響いている。
 そう、これは足音だ。しかも一つではない。幾重にも重なるその音は次第にこちらへと近づき、反
響する音を何層にも上塗りし、広大な音楽へと変貌している。
 近づく足音のほうに、いつもの癖で腰に帯びた刀に手を添えながら目を凝らすと、ちらちらと黄色
い光が幾つも揺らめいているのが見えた。小刻みに揺れながら、確実に此方に向かってくる光は、ハ
インケルの脳裏に、どういうわけか、じりじりと不気味な焦げ目をつけた。戦士としての本能が、本
来ならば暗闇の中の光に安心するところを、不安なものとして捉えているのだ。
 しかしそんなハインケルの心中を推し量る事の出来ない機械人形は、無機質な機械音声を響かせる。
「あれは国家憲兵です。」
「国家憲兵?」
 国家憲兵とは、ローマの陸軍、空軍、海軍と並ぶ軍隊の一つであるが、通常の属性としては警察機
関である側面が強い。つまり、高速道路で行われた銃撃戦の捜査として、彼らが現れるのは全く以て
正しい事だ。事実、ハニエルもこう告げる。
「はい。おそらく、我々の捜索にあたっていたのでしょう。」
 自分よりも暗闇で眼が利き、教皇庁の内部に属している人形が言うのだから、確かだろう。しかし、
だからといってハインケルの中で燻る焦げ付きが和らぐ事はない。ぎらぎらと輝くライトを真正面か
ら浴びせかけられ、網膜を射抜かれると、いっそう焦げ付きは深まるばかりだった。