古い様式を模ったそのホテルは、けれども海に沈む五百年前からあるわけではない。造られたのは

十年ほど前、かつてあった古い町並みをもう一度、という事で再建されたものだった。
 柱の一つ、内部の装飾に使われているカーテン一枚までも、遥か昔のものを再現しようと、当時の
メーカーを調べ上げたという話題は今でも語り草となっている。結局、扉のドアノブのメーカーが既
に失われていたという話も。
 それでも出来る限り忠実に再現してみた努力を、ジュゼッペは嘲笑うつもりはなかった。
 イタリアの――ローマの街並みを取り戻したいという気持ちは、同じくイタリアという地に生まれ
た人間としては良く分かるつもりだ。
 むろん、生まれた時既に、所謂重要文化財以外は全てがドームという海の底で生きる為に作られた
生活区域に見合った形に変貌していた。五百年前は川であったと言われているものは地下に埋め立て
られて下水道となっていたし、老朽化していた建物は打ち倒されて自動人形やらを売るデパートメン
トへと変わっていた。
 ジュゼッペも、そうなる前の風景は、もはやネットに残された画像でしか見た事がない。
 失われた風景を見れば、それは異国情緒を酷く誘うもので、こんな景色が本当ならば自分の目の前
に広がっていたはずなのか、となくなってしまったそれを惜しみ、悔やみ、そして再び取り戻したい
という気持ちになるのも無理もないと思えた。その地に生まれた者ならば、なおさら。
 しかし、この土地に生まれた一因であるジュゼッペは、確かに古来より残されていたという街並み
を惜しみこそすれ、それを心底取り戻したいとまでは思っていない。
 まるでないとは言わないが、本気で取り戻したい――こうして形にしてみるだけの情熱は、注げな
いだろう。
 それは、如何に取り壊されたものが多いとはいえ、それでも実は地下水道にまで潜れば古びた街並
みを拝む事が出来ると知っている所為でもあったし、実際のところそれほどまで過去に興味があるわ
けでもないというところもあった。
 イタリアの名門貴族に産まれた彼は、そういった古びた物を重んじる風潮に慣れ過ぎていた。
 名門貴族達の多くは、古来から存在するものに――五百年前の大洪水前の古いものに――心を砕き、
重きを置く。それはジュゼッペの家系――ガリヴァルディ家も例外ではなかった。
 ガリヴァルディ家は五百年以上前から続く、れっきとしたイタリア大貴族だ。古い古いデータでは、
アフリカを目指して十字軍が遠征した時から続く家系なのだという。その血脈を誇りに思う親類縁者
は、ジュゼッペが視線を巡らせば、それだけでも視線が合う。
 だが、そんな中、ジュゼッペは少々変わり種だったのだろう。
 古い血脈という言葉に対して、文字通りの古臭さ以外のものは感じ取る事が出来なかったのだ。血
脈を侮るつもりはないが、それそのものを誇りにする事は、ジュゼッペには受け入れられなかった。
むしろ、ジュゼッペは自分以外にそう思う人間が、この長い家系図から出てこなかったほうが不思議
だった。
 故に、誰一人としてジュゼッペの疑問や心情には答える事が出来ず、ジュゼッペは放っておけばこ
のまま粛々と、ガリヴァルディ家の名を引き継ぎそうになったのだ。
 それが幸いにして、些か権力志向の強い叔父にその座を奪われ、晴れて自由の身になったところを、
世界連邦に拾われたのだ。いや、拾われたという言い方には語弊がある。正確には保護されたのだ。
 何せガリヴァルディ家はイタリアの中でも最も古く、そして広大な領地を持っていた貴族だ。それ
こそ、数代に渡って教皇との対面を叶えていたほどに。 
 そのお家騒動の果てに追放された、本来ならば跡取りである男を、誰が放置しておこうか。奪って
おいた座の紛失を恐れる叔父の遣わした暗殺者が、或いは叔父に対抗する術を擁立しようとする輩が、
近づこうとしてもおかしくはない。それが分からぬほどジュゼッペは愚かではなかった。
 ジュゼッペは、自らの身を守る為に、より巨大な権力に身を寄せる必要があったのだ。
 そこに手を伸ばしたのが、教皇領と断絶の続いていた世界連邦だった。世界連邦は、教皇に対して
も接近できる貴族の血を引くジュゼッペを内々に囲っても、決して損にはならないと判断したのだろ
う。彼らはジュゼッペに、派遣員として働く事を条件に、その身の保護を確証したのだ。
 尤も、派遣員となった時点で、身の保障など何処にもないのと同じという事ではあったのだが。少
なくとも、叔父に付け狙われる事も、自分の血筋を利用した権力争いに巻き込まれる事もなくなった
のだ。
 そして今、ジュゼッペの前には、当時まだ二十歳にもなっていなかったジュゼッペを、派遣員にと
スカウトしにやってきた、派遣員がいる。

「これはこれは。長旅でお疲れじゃあありませんか、博士?」

 大袈裟なほど恭しく一礼してみせたジュゼッペを、けれどもいつもの知的な笑みだけで睥睨した中
年の男は、ホテルのフロントを堂々と飾り付けたローマ風の彫刻にさえ微動だにせずに頷いた。酒場
でうらぶれていたジュゼッペに、ハンカチーフを差し出すような手つきで、世界連邦の派遣員である
ことを示す手帳を見せた時と、その顔立ちはなんら変わっていない。

「久しぶりだね、ジュゼッペ君。元気そうで何よりだよ……まあ、エスメラルダ君から大体の事は聞
いていたけれども。」

 博士の口調に微かに苦笑めいたものが混じると同時に、博士の背後からフラメンコの似合いそうな
黒髪の美女がすらりと現れた。ウェーブがかった髪の下にある顔は、情熱的なヒスパニアそのものの
を体現したような美しい顔だったが、如何せん今は大いに顰められている。

「よお、エスメラルダも久しぶりだな。」
「本当ね、もっと久しければ、なお良かったのだけど。」

 刺々しいエスメラルダの声に、ジュゼッペは肩を竦めた。エスメラルダの対応について、思うとこ
ろが多々あったのだ――だからといって、それに対して何らかの謝罪をしようとは思わないが。

「そうかね。俺はエスメラルダと離れてる時間がこれ以上長くならなくて良かったと思ってるぜ……?
なにせ、その胸と腰、そんでもって尻が最高だ。言っとくけどな、お前並みの胸と尻と腰の持ち主は、
俺は右手で数える程度しか知らねぇぜ。」

 崇め讃えるかのような口ぶりでそう告げれば、瞬間、エスメラルダの黒い眼が美しく吊り上った。
豊かな黒い髪が燃え盛る炎のように思えたほどだ。
 そんな様子を、博士とミヤビはそれぞれ苦笑いと呆れの表情で見守っている。
 今にもジュゼッペに対して噛みつきそうな様相を見せた美女に、しかしジュゼッペは先手を取って、
ひらりと優雅に奥を指示した。

「さて、お三方。もう少し無駄口を楽しみたいのはやまやまなんだが、そうも言ってられない。実を
言えば先方は我々の到着を非常に待ちあぐねており、遂には我々の滞在する予定であるこのホテルに
まで御足労されている。情報交換は後にして、先方にお会いしていただいても宜しいですかね?」

 ジュゼッペの繊細な指先の方向を見た博士は、古めかしい通路の奥を眼を細めて見やる。そこに何
がいるのかを見極めるような眼差しを逸らさずに、問うた。

「誰かね?」
「史上最年少の神の代理人の兄上。国務聖省長官にして、ヴェネチア公チェザレ・ローレンツォ枢機
卿にございます。」

 馬鹿丁寧なジュゼッペの説明に、ほう、と博士は嘆息し、ミヤビは眉を顰め、エスメラルダは何か
に憤然とした。微かな怒りを頬に灯した美女は、博士に向き直る。

「博士、けれどもハインケル君の事は?」
「ハインケル?そういや奴の暗い姿が見えねぇな。どうした?」

 エスメラルダの言葉に、そういえば何処か憂いの深い影を纏った美丈夫がいない事に気づき、ジュ
ゼッペも眉を顰めた。

「あいつ、遂に紳士的じゃねぇ何かをやらかしたのか?」
「貴方と一緒にしないでちょうだい。」

 此処に来るまでの間に、博士とハインケルに何があったのか、エスメラルダとミヤビは、既に聞い
ていた。
 無人のヘリコプターに襲われた事。そしてヘリコプターの爆撃により陥没した地面にハインケルが
落下して行方が分からないこと。それを聞いた二人は、まずハインケルの行方を捜さなくてはならな
いのかと言っていたのだ。
 だが、それよりも先に任務の話になってしまっては、ハインケルを捜すのは困難になってしまう。
 狼狽えるミヤビとエスメラルダに、博士が何かを言おうと口を開いた時、ジュゼッペが指し示す典
雅な通路の向こう側から凛とした声がやって来た。

「それは本当か?」

 若いが、しかし厳しさの籠った声に、その場は水を打ったように引き締まった。やけに高い足音を
立てて、けれども静かに近づいてくるのは緋色の服の裾を翻す若い男だ。上品な顔立ちの男は、鋭い
視線で派遣員達を睥睨している。
 ただ、右足だけが動かないのか、完璧な動作の中、醜く引き攣れている。やけに甲高い足音は、右
手にした松葉杖が床を叩く音だろう。

「貴方がた派遣員のうち一人が、行方不明であるという事は、事実なのか?」

 派遣員達の凝視など歯牙にもかけず、男は命令する事に馴れた傲慢な口調で、真偽のほどを確かめ
てくる。男の斜め後ろには感情のない顔を張り付かせていた、男とも女ともつかない人物が控えめに
立っていた。その顔は、地下に落ちたハインケルの後を追った、ハニエル302と似たような形状をして
いる。おそらく同型の機械兵なのだろう。

「初めてお目に掛かります……チェザレ・ド・ローレンツォ郷。」

 冷徹な男の様子を見て、同時に男の纏う緋色の法衣――枢機卿である事を指し示すそれを見て、博
士は恭しく一礼した。