六枚の羽根を背負った天使が、金の縁飾りの付いた赤い絨毯で埋もれた豪奢な部屋を見下ろしてい
る。
 神の剣を帯びた破壊の天使の壁画が天井を埋め尽くすように描かれているその部屋からは、子供を
宥めるような、あやすような響きのある声が時折零れていた。

「ご安心ください、聖下。」

 赤い絨毯によく映える真っ白な細い点に、赤い絨毯よりも尚濃い緋色の法衣に身を包んだ長身の男
が話しかけていた。明るい金髪の下で口元に柔和な笑みを浮かべる顔はまだ若く、三十路の域にも達
していないであろう事を示している。
 しかし、彼が身に纏う緋色の法衣は、カトリックにおいて教皇に助言をする立場にある高位聖職者
――即ち教皇庁の幹部である枢機卿である事を告げている。重要犯罪者の裁きや他国との外交を担い、
時には十字軍さえ率いる事もあり、他の国々からは皮肉の意味も込めて、今、頭上に飛ぶ絵画に描か
れている『破壊の天使』と呼ばれる事もある。
 その『破壊の天使』の一人である青年は、確かに天使が人前に姿を現す時に示す、美しい様相をし
ていた。ただ、唯一天使ではないことを表すのは、彼が右手に持つ、繊細な細工のある金具のついた
松葉杖だろうか。松葉杖にすがるように、チェザレは今、中腰になって穏やかな口調で諭すように話
していた。

「何も恐れる事はございません。聖下の身の回りは誰よりも屈強なスイス人衛兵達を配備してござい
ます。また、この私もお側についております。聖下の御身は私が、この身に変えてもお守りいたしま
しょう。」

 優しくそう告げて、声音と同じくらい柔らかな仕草で彼は杖持たぬ左手を、今にも消え入りそうな
白く細い点の肩に置いた。
 見た目麗しい枢機卿に対して、その手を肩に置かれたのは痩せて骨ばった少年だ。柔らかく向けら
れた笑みを見上げた顔はそばかすだらけで、尚も不安げに頬が強張っており、大きいだけの灰色の瞳
は落ち着きなく動き回っている。

「で、でも、チェザレ兄様。まだ、犯人は捕まっていないんでしょう?」

 少しどもりながら青年に訴えるように告げる貧相な少年には、一切の威厳もない。しかしその身に
真っ白な法衣を纏っている彼こそが、神の代理人であり、神に最も近き人である教皇ヨハネス二十八
世その人である。
 先代のグレゴリウス十四世が、正妻であるミラノ公爵との間に生まれた少年は、五年前、彼がまだ
八歳の時に父親が心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となった事によって、史上最年少の教皇として
担ぎ出されたのである。
 先代教皇は、自分の後継を誰とも告げぬまま亡くなった為、教皇選出の場であるコンクラーベは、
当時泥沼の様相を見せていた。
 本来ならば厳正な選挙の元行われていたというコンクラーベは、しかし海の底に全てが沈むという、
ノアの大洪水の再来が起きてから五百年の月日が経った今、本来の意味は失われ、権力闘争の場とな
っているのだ。
 その権力闘争の場を勝ち上がる為に、最も重要なものは、血統であった。
 全てが海に飲まれて五百年。
 文明の軌跡は悉くが海底に眠り、陸地を失った人々は海底にドームと呼ばれる生活空間を作り上げ、
ドームに入れぬ人々はエリアと呼ばれる氷に閉ざされた海面で細々と生きている。
 軌跡を失った人々は、だからこそ、失われた軌跡を求める事に躍起になっている。その一番が、血
統だ。
 海に沈んだ事で自らの戸籍を失った者も多い。洪水によって親を失った子供も多く、彼らは自らの
戸籍を知らない。
 自分が一体何処から来て、そして何処に根差していた者なのか。人々は自分の血統を知りたがり、
だからこそ血統を重要視するのだ。
 故に、権力闘争の最後の場を治めるのは、実力や経験などではなく、血の一滴にかかっている。
 それは、神の代理人を決めるコンクラーベでも、変わらない。
 五年前、先代教皇グレゴリウス十四世が死去した際、火花が飛び散るような――火花どころか血飛
沫が飛び散るような、いや、実際に表立ってはいないが飛び散ったのだろう――教皇選出が行われた。
教皇という地位は少しでも権力志向のある人間ならば、誰でも欲しがる椅子だ。そこに食指を伸ばす
のは、各地域の大司教、はたまた公爵などといった貴族、或いは大企業の社長。 
 今や枢機卿とて、完全に聖ではない。貴族が地位だけではなく名誉も得ようと聖職者になる場合も
あれば、大司教が富を得ようと司教職の傍らで事業を始める事もある。
 そんな、欲に塗れた教皇選出の場を、いち早く治めようとしていたのが先代教皇グレゴリウス十四
世の弟にしてヴェネチア公であるベリザリオ・アガッツィ大司教だった。先代教皇に近い血筋という
事もあり、また、その地位と経験からも教皇になるには素質は十分であっただろう。
 だが、それに意を唱えたのがチェザレ・ローレンツォ――今現在、白き少年の前に立ち、彼を宥め
ている青年であった。
 チェザレも教皇選出の初期はアガッツィを支持していた。だが、彼の中にはアガッツィを心底から
支持する気持ちなど微塵もなく。アガッツィの血筋を重視した他の枢機卿がアガッツィを選ぶと見る
や、グレゴリウス十四世の息子であるヨハネスを推挙したのだ。
 ヨハネスの血は、アガッツィよりも遥かに教皇に近く、また彼の母親であるミラノ公爵ベアトリー
チェは、五百年前から続く家系の娘だった。
 これがもし、ベアトリーチェが何の血筋の後ろ盾もない娘だったならば――そうチェザレの母親の
ような――決してヨハネスはアガッツィの対抗馬とはなり得なかっただろう。しかし母親の古い古い
血筋に恵まれたヨハネスは、その血を引いているというだけで、実力も経験も豊富であったアガッツィ
を打ち破り、僅か八歳という幼さで、教皇となったのだ。
 しかし、幼くして教皇となったが故に、ヨハネスの教皇としての権力は何処にもない。実権を握る
のはヨハネスを教皇として擁立したチェザレであり、そして教皇にはなれなかったものの、俄然野心
を絶やさぬアガッツィも、やはり教皇庁の顔として動いている。
 権力を持たぬまま、しかし命を狙われるという事態に陥ってしまったヨハネスを、少年をそんな立
場に引き上げてしまったチェザレは、出来る限り柔らかい眼差しで見つめる。そんな腹違いの兄に、
少年は訴えた。

「犯人が、まだ捕まってないって事は、また、襲ってくるかもしれないっていう、事なんですよね?」

 数回の襲撃の際、直接的な攻撃を受けてはいないものの、しかしまだ十三歳という年齢を考えれば
不安を抱いても仕方がない。まして、如何に幼いとはいえ、自らが所詮は飾りの教皇でしかないとい
う揶揄が聞こえぬほど、ものを知らぬわけではない。自分の周りにいるのは自分を揶揄する大人だけ
という教皇庁において、恐れを抱くなというのが無理な話であった。

「聖下、御不安に思う気持ちは良く分かります。」

 チェザレは不自由であろう足をそれでも可能な限り駆使して膝を折り、少年の前に服従の意を示す
為に跪く。

「しかし、御心配には及びません。警護の者は以前よりも増やしておりますし、それにハニエルやラ
ファエル達も導入してございます。聖下もよくご存じでしょう?ハニエル達の武勇は。」

 自動人形だけで構成された、聖騎士兵団の事を言われると、ヨハネスも頷くしかなかったようだ。
目の前にいる異母兄が心血注いで創り上げた機械兵団。その数は数十体と少ないが、一体一体がこれ
までの戦闘用機械に比べると格段にレベルが違うと言われており、実際に模擬戦闘ではハニエル一体
で、従来戦闘機一師団を破壊したほどである。
 そんな機械兵団の恩寵に一番与っているのは、間違いなく教皇であるヨハネスであり、ヨハネスも
打算に塗れた大人達よりも、ただただ職務に忠実である機械達のほうが信用できるという思いがある。
 が、彼らに守られていても、不安である事は掻き消せない。
 聖騎士兵団は確かにチェザレが作り上げた。しかしそれらは今は、叔父であるアガッツィが長官を
務める教理聖省の下にある。数年前、チェザレが原因不明の車の爆破事故で右足不随となった際、不
具者は軍を纏めるには不適格として、アガッツィが機械兵達を取り上げたのだ。幸いにして枢機卿と
国務聖省長官の肩書きは奪われなかったが、しかしチェザレの力は大きくそ削がれた。
 故に、ヨハネスの不安が掻き消されることはない。そんな異母弟の心裡を感じ取ったのか、チェザ
レは更に柔らかく続ける。

「まだ不安がおありですか?では、一つ、事件の解決を早める情報をお教えいたしましょう。」

 兄の言葉に、ヨハネスは首を訝しげに傾げた。異母弟の様子にチェザレは、安心させるような微か
な笑みを消さずに頷いた。

「連邦に捜査官の派遣を要求しました。あの機関は如何なる国家とも癒着しない。従って、第三者の
眼でこの事件を見る事が出来ます。そして、その採決には如何なる賄賂も意味を為さない。」

 何者であろうとも聖下を狙った輩を捕え、罰してくれましょう。
 チェザレは優美な声で、厳かにそう告げた。