暗く青い闇の中に、銀河を髣髴とさせる光を閉じ込めた、透明な半球が浮かび上がる。
 その中で、輝くかの如く在感を放つ、白亜の都市。
 そこへ向かって、流星を思わせる一筋の光が流れ込む。
 白い機体に十三の赤いアラビア数字。十三課の変形式潜水艦、トリトンである。
 それは真っ直ぐに白亜の都市の根元にある、ドックの口に吸い込まれていく。完全に吸い込まれる
とドックの口は閉じ、潜水艦はそのままドックの中を進み、港のように幾隻もの潜水艦が浮かんだ場
所に辿り着く。そして、波止場のような場所に沿うように停泊した。
 停泊した潜水艦のハッチが開き、そこから二つの影が現れる。ひたひたと酸性の水が打ち寄せる床
に、その二つの影は降り立った。
 一つは知的な表情を刻んだ顔。
 もう一つは憂いを帯びた顔。
 その二つに向かって、白々しいほどまでに規則正しい足音が近づいてきた。軍隊のように整然とし
た、しかし軍隊特有の何処か物々しさを感じさせるもののない、あくまでも一秒たりとも狂いのない
足音だった。そしてそこには、金属質な音が薄らと混じっているように聞こえた。
 潜水艦ドッグから待合室へと続く通路から聞こえてくるその足音に、潜水艦から降りたばかりの二
人は視線を向けた。そして、その足音の持ち主を見て、知的な表情をした男は口角を軽く持ち上げて
笑顔を作った――社交辞令として失礼のない程度の笑顔を。
 尤も、その笑顔が、社交辞令であっても果たして必要なものであるのか、理解に苦しむところだ。
 規則正しく歩を進める、黒い制服に身を包んだ影を一瞥して、憂いを帯びた顔を持つ男――ハイン
ケルは、表情一つ変えずにそう思った。
 自分達に整然とした歩調で近づく人影が、その服装から見ても教皇庁の職員である事は一目瞭然だ
った。
 本来、任務の場合は連邦の職員が迎えに現れるのだが、今、此処に現れた人影が身に着けた服には、
連邦の所有印ともいえる球体をオリーブで囲んだマークが捺印されていない。代わりにその黒い制服
には、すっきりと白い十字が染め抜かれている。これだけで、この人影が教皇庁に関連する何かであ
る事は十分にわかる。恐らく自分達の迎えとして、教皇庁から寄こされたものなのだろう。だから、
知的な表情の男――博士が社交辞令の笑みを浮かべるもの尤もではある。
 しかし―――――
 ドックを突っ切り、淀みなく自分達の前に、きっちり一メートルの間を空けて立ち止まった職員は、
つるりとした黒い瞳に自分達の姿を映し出すと、歩調と同じくらい乱れぬ声を発した。

「世界人類共同連邦の方ですね。初めまして。私、教皇庁聖騎士兵団に所属する、ハニエル302号機と
申します。」

 恭しく滑らかな、しかし無機質な声。そして何よりも、その名乗り。
 迎えに現れた教皇庁の職員――職員と言うべきかも疑わしいが――は、間違いなく自動人形だった。

「チェザレ・ド・ローレンツォ卿の命により、貴方がたのお迎えに上がりました。外にお車をご用意
させていただきました。どうぞ、こちらへ。」

 淀みない洗練された仕草で促す人形に、博士は少し笑みを消して尋ねる。

「僕達以外にも連邦の職員は来ているはずなんだが。彼らはまだ来ていないのかね?」
「いいえ。皆様方、既にご予約のホテルに、ご到着されております。」
「つまり、僕達が最後って事か。」

 博士は少し首を竦めてみせると、背後に控えているハインケルを振り返る。

「どうやら、恐れていた事態が現実に起きてしまった。事もあろうことか、僕達はレディを待たせて
しまっているようだ。このままでは紳士の名折れだ。ぐずぐずしている暇はない。このままホテルに
直行するよ。」

 冗談とも本気ともつかない口調で、博士は、そしてと続ける。
 
「ホテルに着いたら、すぐに会議を始める―――何せクライアントは五百年間、僕達を拒み続けた堅
物だ。一分一秒も無駄に出来ない。」

 わかったね、と言い聞かせるような博士の言葉に、ハインケルは頷く。

「承知しました、師匠。」

 従順に答えた弟子に満足したのか、博士は、じゃあ行こうかと人形を促す。それに対して、教皇庁
職員の服を身に付けた人形は、完璧に恭しい所作で、人間二人をドッグの外へ導いた。

「表に車をご用意しております。」

整然とした動作で歩きながら、人形は同じく整然とした声でその旨を告げる。

「何処に止めてあるんだい?」
「こちらです。」

 両脇を店に囲まれたホールを抜け、その先にある透明な自動扉を人形は指し示す。自動扉の向こう
には、保護対象にある木々が、特別使用許可でも下りたのであろう、観葉植物として植わってある。
その緑の隙間から、丁寧に洗浄された黒塗りの車体が覗き見えている。その助手席の扉をしなやかに
開いて人形が恭しく言った。

「どうぞ、お乗りください。」

 開かれた扉に、博士が何の躊躇いもなく滑り込む。それを丁寧に、しかし一瞬で確認した後、人形
はゆっくりと扉を閉める。そして続いて後部座席の扉を開き、先程と同じ言葉をまったく同じ抑揚で
ハインケルに告げた。

「どうぞ、お乗りください。」

 些かの乱れもないその機械音声に、ハインケルは少しだけその人形を凝視した。
 機械にしか分からないであろう僅かの凝視の後、ハインケルは何事もなかったかのように、促され
るまま、博士と同じように躊躇なく車の中へと滑り込んだ。
 それらを見届けてから、黒い瞳の人形も運転席に乗り込んだ―――己が運転する事が、さも当然で
あるかのように。そして『それ』は、マニュアルそのままにシートベルトを締め、サイドブレーキを
下す。ブレーキを踏みギアをドライブに入れてから、短く、発進しますと告げて、アクセルを踏み込
んだ。
 最初はゆっくりと走り、そして徐々に加速しながら港から抜け出した車は、いまや完全に制限速度
と同じ速度を保っている。この人形の中に、そういうプログラムが常駐されているのかもしれない。

「ところで…………。」

 新しく舗装された道路をタイヤが踏み始めた時、博士が口を開いた。

「君は聖騎士兵団……つまり、教皇庁の機械兵士団に所属していると言ったね。」

 博士の言葉に、ハニエル302号機と名乗った人形は頷く。

「はい。その通りです。」
「そして、僕達を迎えに行くよう命じたのはチェザレ・ド・ローレンツォ卿だという………。」
「はい。今回、貴方がたに同行するよう、ローレンツォ卿より命を承りました。」
「妙だね…………。」

 博士は横目で、ハンドルを握り真直ぐ前を向き視線を微動だにしない人形を眺めた。

「ローレンツォ卿は国務聖省の長官だ。聖騎士兵団は教理聖省の直轄であり、彼は君達機械兵士団に
は何の権限も持っていない。なのに、君はローレンツォ卿の命令で動くという………。」

 如何にローレンツォ卿の力が強大でも、そのような省を超えてまで命令を発動する事ができるだろ
うか。そのような事をすれば、他の枢機卿――特に教理聖省からの反発は免れない。そのような危険
な事をするような男が、国務聖省長官まで上り詰めるとは思えない。
 しかし黒衣の人形は、その疑問に対して眉一つ動かさず、抑揚のない声で言った。

「詳しい事はローレンツォ卿御本人に質問される事を推奨いたします。」

 『それ』は、視覚センサにフロントガラス前方だけを認知しながら続ける。

「私には、そこまで話す権限は与えられておりません。また、貴方がたにもそれについてアクセスす
る権限がありません。」

 酷く淡々とした声に、博士は落胆するふうでもなく―――寧ろ、予想していた通りの答えに―――
なるほどね、と呟く。

「まあ聞かずとも分かるさ。教皇の警護にローレンツォ卿が口を挟むのは、教皇と卿の関係を普通に
考えてみれば、当然の事だ。」

 その台詞に、人形は少しだけ視線を博士に向けた。
 その一瞬後、黒衣の人形の白い手に、その服よりも尚黒い、厳めしい物体が握られている。
 それが何であるかをその瞬間に理解する事は、誰にも不可能だっただろう。
 厳めしい物体の黒い咢が博士に向けられた段階で、ようやくハインケルから、静かに殺気にも似た
気配が立ち昇った。ただし、それは人形ではなく車の外へと向かっている。
 人形が手にした銃は、何の躊躇いもなく博士が座る助手席のサイドガラス目掛けて弾を吐き出した。
吐き出された五発の銃弾は、博士の鼻先を掠めてサイドガラスに着弾する。突然、銃弾を浴びせかけ
られた硝子は、その瞬間に幾つもの蜘蛛の巣を張り付けたかと思うと、直後には粉々に砕け散り、煙
のように外へと吹き出した。
 その時にはハインケルの手の中で鋭い鞘鳴りが響き渡り、外から降りかかってきた銃弾の嵐を悉く
弾き返している。どうやら、並走する車から銃の咆哮を受けているらしい。

「…………この襲撃に心当たりはあるかね?」

 敵の相手を弟子に任せる事に決めた博士は、先程、鼻先を銃弾が掠めていった事には何の感情も見
せずに、神業めいたハンドル捌きで敵の攻撃をかわしつつ車を運転する人形に尋ねた。
 人形は、やはり表情一つ変えずに頭を振る。

「該当件数が千を超えています。」

 人形の言葉に博士は溜息を吐いた。

「該当件数が千を超える、か…………。つまり、教皇暗殺に関わっている連中と見做してよいのかね。」
「…………。」

 アクセス権がないという事なのか、人形からの返答はなかった。しかしその沈黙が返って肯定とも
受け取れ、また、それ以上の何かを孕んでいるかのようでもあった。
 しかしそれを追求する術は今のところ博士の手の中にはなく、また、追求するよりも早く、凄まじ
い銃撃が頭上から降り注いだ。

「上空に敵性体を感知…………ヘリコプターから攻撃を受けています。」
「昨今の暗殺者は対象者の護衛を殺すのにヘリコプターまで持ち出すのかね。」

 もはや暗殺という言葉を間違えて使っているねぇ、などと嘆かわしげに言葉の使い方の間違いを呟
く博士の声に、人形の冷静な声が重なる。

「敵性体の車数は二台、ヘリコプターは一機です。」

 人形の抑揚ない声が言い切る前に、ハインケルが此処へきてようやく言葉を発した。

「ドアを開けろ。俺が車上で迎え撃つ。」

 低く言い放ったハインケルに対して、言われた人形ではなく博士が大きく頷いた。
 
「そうだね………それが良い。」

 もはや自分は動かなくてもいいと言わんばかりに、攻撃の為にシートベルトを外す素振りの一つも
見せずに、博士は人形に命じる。

「ドアのロックを外したまえ。何、後は我が弟子が責任もってなんとかするだろう。」

 投げ遣りとも無責任ともとれる発言の直後、ドアのロックが外され、瞬間、ハインケルの身体は弾
丸のように外へと飛んだ。
 だが彼の身体がそのまま地面に激突するような事はなく、開いたドアの縁を掴むや否や、それを軸
にして上空に跳ねる。そして車体の上に乗り上がった。その間、一秒と経っていない。
 車上に乗り上げたハインケルは、すぐさま腰に帯びた刀を抜き放った。
 ハインケルが車上に無事着地した事を確認し、博士は隣でハンドルを捌いている人形を見る。
 
「それで………この車を攻撃している連中の走査は出来たかね?」
「はい。この車を攻撃している車、及びヘリコプターは無人です。」

 もはや首を動かすなどの無駄な動きをしなくなった人形は、機械音声だけで博士の相手をする事を
決定したらしい。

「自動人形が操縦しているようです。」
「人形…………。」

 博士は何を思いついたのか、僅かに眉を顰める。
 その脳裏に過ったのは痛々しいほど白い影だ。だが自動人形である限り、それはあの白い影ではあ
りえない。何故ならば、あの白い影は便宜上人形と言われているが、実際はその中枢演算機構に人間
の生体が使われているからだ。故に機械に走査された場合、自動人形という括り方はされないはずだ。
 そんな考えを一瞬でまとめ、しかしそんな事はおくびにも出さず、鉄板一枚隔てた頭上にいるハイ
ンケルに言った。

「綺麗に壊したまえよ。」

 その言葉に対し、ハインケルは返事をしなかった。代わりに、銃弾の嵐を切り裂く、女の金切り声
のような音が空を切り裂いた。
 ハインケルは、自分の乗っている車の背後と左側にぴったりと付いている車から放出される銃弾を
地面に叩き落としながら、その車を如何に撃退するかを考える。

「スピードを落とせ。」

 ハインケルは、下で車を運転している人形に低く言った。
 弾き返された銃弾がアスファルトに食い込んで石塊を吹き上げる中、ハインケルの声は低く聞き取
りにくかったにも関わらず、車は彼の命じた通りにスピードを落とし始める。それを感じたハインケ
ルは、烈風の如き勢いで放たれる銃弾を弾きながら、ゆっくりと背後の車に近づいていく。
 車間距離が十分に縮まったその時、ハインケルの身体は、まるで重力を感じていないもののように
宙を舞った。
 正に一瞬とも言えるその時間で、ハインケルの長身は銃弾を吐き出し続ける背後の車に音もなく飛
び移り、無造作とも言える速さで、しかしその実、機械的なまでに正確に、無人の車の制御部分を屋
根の上から運転席ごと引き裂いた。
 制御不能となった車は、くるくると独楽のように回転しながら車道を逸れ、遂には横転して火柱を
高らかに上げる。
 オレンジ色の光が道路を染め上げた時には、既にハインケルは自分達の車の上に戻っていた。
 戻る際の跳躍の間に、左側に寄り添っていた車の右側面を両断するというおまけ付きで。
 稲妻のように切り裂かれた車は制御を失い、大きく蛇行し始めた。それでも尚も回転し続けるタイ
ヤからは、橙や黄色の火花が落とされ、それはアスファルトの上の所々で燻り続ける。そして徐々に
速度を落とし始め、混乱しきった鶏のような勢いで、先に火柱を上げる事となったもう一台の車にぶ
つかった。
 突風を感じそうなほどの轟音が響いたかと思うと、今度こそ本当に風を巻き起こす爆発音と、白と
黒の煙に縁取りに飾られた赤い炎が湧きあがった。
 しかしそれらは全て、上空を滑空しているヘリコプターのプロペラ音と、そこから絶え間なく放た
れる銃声にかき消されてしまう。
 尤もハインケルは、端から破壊し終えた鉄屑からは一切の興味を断ち切っていた。彼は旋風を巻き
起こすヘリコプターをその翠瞳に映すと、一旦、刀を胸の前に翳すように構え、そして手の中で回転
させると腰に引き付けた。ちょうど、抜刀する時のような構えだ。それを一気に引き抜くように、ヘ
リコプターに向かって薙ぎ払う―――が、それよりも速く、ヘリコプターから何かが投じられた。
 それを目にした瞬間、ハインケルの目が大きく見開かれた。
 ヘリコプターの下腹部に取り付けられていたそれは、対空母用ミサイルだったからだ。その軌道の
先にあるのは、間違いなく自分が乗っている車だ。空母を粉砕するミサイルに、如何に教皇庁御用達
のといえど敵うとは思えない。
 白煙を噴射しながら、ミサイルが緩やかな曲線を描きながら投下された時、ハインケルの手の中で
は魔法のように刀が回転し、その縁から渦巻くような風圧が湧き起こった。それは躊躇う事なくミサ
イルの軌道に沿って空気を割っていく。
 だが、これまた凄まじい勢いで滑空するミサイル自体を引き裂く事は出来なかった。一本の刀から
生じた残撃のような風は、巨大な銃弾を前に霧散した。
 しかし、そのまま車を撃破するかのように見えたミサイルは、刀から生み出された風により、僅か
にではあるが軌道を逸らしたようだった。
 微妙にずれたミサイルは転瞬、タイヤが挽いたばかりのアスファルトに突っ込んだ。
 轟音が空気を震わせるよりも速く、熱風が周囲に巻き上がった。
 アスファルトはただの砂のように天に吸い込まれ、地面には亀裂が稲妻のように走り回り、一気に
陥没する。車は追い風と言ってしまうには激しすぎるそれを受けて、数十メートルの距離をワープす
るかのように飛び越えた。そのまま煽られて横転するなり回転するなりしなかったのは、単に博士の
運の強さと人形のハンドル捌きの賜物である。
 しかし―――。
 
「ハインケル!」

 何時になく切羽詰まったような博士の声が響いた。
 車の屋根の上にいたハインケルは、当然の如く爆風をまともに受け、真上に吹き上げられたのだ。
その下に待ち構えているのは陥没した地面に口を開いている大穴だ。
 その時、黙々と車を運転していた人形が動いた。
 
「運転の交代を要求します。」

 人形は、短く、そして酷く素っ気なく言い放つと、車内から飛び出した。
 黒い人形は人間には有り得ない下半身の稼働によって、疾走する車の屋根を凹むほどに蹴り上げ、
今にもハインケルを蜂の巣にしようとしていたヘリコプターとハインケルの間に割り込んだ。その間
にも、ヘリコプターの腹部に取り付けられている銃口は回転し、火を噴く瞬間を待っている。
 人形は、その銃口に向かって、何時の間に取り出したのか、黒光りする厳つい物体――銃を両手で
構え、突き出している。いや、正確に言うならば、ヘリコプターの銃口ではなくプロペラ部分に祖点
を合わせようとしているのだ。
 そして、連続した銃声。
 それらは紛う事なく、プロペラの根元に吸い込まれていった。
 同じ場所に、ほぼ同時に撃ち込まれた銃弾は、プロペラを食い千切った。
 飛行体にとっては当然の事ながら、ヘリコプターにとってもプロペラへの損害は甚大なものだった。
半ば挽き千切れかかったプロペラと本体の接合部分は、プロペラ自身の回転に対して保持するだけの
力はなかった。そのままプロペラは本体から離れ、回転しながら空を切っていく。
 そして、浮力の源であったプロペラを失った事で、ヘリコプター自体は血のように火花を引いて、
落下していく―――人形とハインケルの真上に。
 その時、ハインケルの手が黒い人形の身体を引き寄せ、自分との位置を変える。自分の身体が上に
なるように。そして刀を構え、頭上に落ちかかるヘリコプターの機体に、紫電のような一閃を放った。
 ずるり、と音がしそうな勢いで、火花を散らすしかない機体は真っ二つに切り落とされる。砕け散
った金属の残骸となったヘリコプターは、もはや火花を散らす事すら止め、道路の上に飛び散った。
 雨のように機械の残骸が降りしきる中、ハインケルと人形の二つの影も、アスファルトに走った無
数の亀裂の一つに吸い込まれていく。
 暗い底に吸い込まれる瞬間、ハインケルの目に、疾走する車がタイヤを焦がすような音を立てて急
停止するのが見えた。黒い艶やかなドアが開き、誰かが何かを叫んでいる。
 それら一つ一つが、やけにゆっくりと動いている。
 どういうわけか耳鳴りによって、周囲の音が遮断された状態で、唯一、人形の拡張された機械音声
だけが耳朶を打った。

「ホテルへ先行を。我々も別ルートでそちらに向かう。」

 誰かによく似た口調。
 しかし、それが誰なのか思い出せない。
 それを最後に、ハインケルの五感はふっつりと闇に閉ざされた。