五百年前の大洪水により、世界が海に沈んだ時、ドームが製造された都市の河川や湖沼は全て地下
に埋没した。
 海底に張り付くように建設され、常に高い水圧に曝されているドームにとっては、どれだけ小さな
穴であっても危険因子となり得る。例え出入りの為であっても、その透明の半球に穴を開けるという
のは自壊行為に等しい。
 ましてや河川は、水の出入りの為にドームに穴を開ける必要があるだけでなく、その河口付近は高
濃度の酸である海水と接する部分なのだ。河口付近に中和設備を置いたとしても、なんらかの不具合
により、河川が酸性の水に侵される恐れがある。また、湖沼は河川と繋がっているので、これもまた
酸に侵される恐れがある。
 これらの理由から、河川や湖沼は地下水道として埋没され、その上にドームは建てられたのだ。因
みに同様の理由から、ドームの潜水艦ドッグも全て地下にある。
 こうした構造は、この世にある全てのドームに共通するものだ。それはこのローマ・ドームも例外
ではない。
 今、真っ赤なスポーツ・カーが、羽根が生えたように駆け抜けている高速道路も、その下にはかの
有名なティヴェレ川が埋まっている。イタリア半島を横断するように走っていたティヴェレ川は、そ
の名残として、その真上に主要道路を黒光りさせながら長く伸ばしている。
 月に一回張り替えられているのではないかと疑うほど、新品の様相をしているアスファルトの上を、
エスメラルダの運転する赤いスポーツ・カー――しかもオープン・カーである――はひた走る。その
勢い、正に弾丸の如く。
 そんなスポーツ・カーを運転するエスメラルダの髪は、艶やかに翻り、時折昼の光を反射する。ハ
ンドルを握る手に黒い革のグローブを嵌め、サングラスで目元を覆うその姿は、翻る黒髪も相まって、
戦いの女神宛らだ。
 ―――ただし、これは傍目に見た場合の事である。
 明らかに制限速度を大幅にオーバーして走るスポーツ・カーの助手席に乗せられた側としては、こ
れはむしろ死神の駆る馬車という認識が正しい。
 ミヤビの脳裏に、祖国で聞いた、燃え盛る炎の車の形をしている死者の魂をあの世に運ぶという妖
怪の事が思い浮かんだ。
 潜水艦を操縦する場合はもっと丁寧なのに、何故自動車のハンドルを握るとこうなるのか―――。
 ミヤビは風圧で視界もままならぬ中、十三課の七不思議と言われるエスメラルダのスピード狂につ
いて、薄っすらと考えた。
 ミヤビが、思考によってか、それとも顔の肉を削ぐ勢いの風圧によってか、軽く意識を飛ばしてい
ると、サングラスで覆われた眼で前方を見据えたエスメラルダが口を開いた。

「ミヤビは『あの時』、トキオ・ドームにいたのよね。」

 風の所為で聞き取りづらいその言葉に、ミヤビは頷く。きっと、こんな状況で意識を失わず、尚且
つ声を聞き取るという離れ業をやってのける事が出来るのは、おそらく十三課の人間だけだろう。
 風圧をものともせず喋る事のできるエスメラルダの言う『あの時』とは、世界中が核の標的にされ
た日の事だ。ドームの奥深く、『憂いの棺』と呼ばれるシェルターの中に安置されていた核兵器が突
如動き出し、世界中を照準に合わせた、あの終末の鐘の鳴った日。
 その日、ミヤビは任務の為、博士やハインケル達と共に極東に位置するドーム――トキオ・ドーム
にいた。

「いたよ。どうしてそんな事になったのか、そしてどうやってそれを止めたのか、その辺の事はよく
知らないけどね。」

 そう、あの現場にいたのはミヤビとエスメラルダの同僚であり、派遣員の中で最も戦闘能力の高い
と言われているハインケルだ。彼のいつも憂いを帯びた顔をミヤビは思い描く。
 ボクよりハインケルのほうがよく知ってるよと、風に流されないようにかなり大きい声で言うと、
エスメラルダはサングラスの奥にある瞳を僅かに曇らせた。

「そこなのよ。」
「そこ?何処?」
「ハインケル君の事よ。今回の任務では、彼が問題視されてるの。」
「問題視?ハインケルが?」

 ミヤビの知る限り、ハインケルは確かにある種の取っ付き難さはあるが、率先して問題を起こすタ
イプではない。むしろ、問題発生率が高い場所に放り込まれる人間だ。その為、ハインケルが問題の
中心にいるように見えるが、それは正しい認識ではない。そんな事くらい、エスメラルダも司令官も
分かっているだろう。
 むしろ問題を起こす可能性が高いのは―――。
 
「君の言う、セクハラ男の方じゃないの?」

 その瞬間、何を思い出したのか、エスメラルダは物凄い勢いでアクセルを踏み込んだ。途端に身体
に重力が圧し掛かり、ミヤビは座席に一層深く沈み込む。

「あの男も十分問題よ。あいつ、この間、どさくさに紛れて胸を触ったのよ。」

 しかも会議中によ信じられると憤慨するエスメラルダに、ミヤビはこのまま座席に沈み込んで抜け
出せないかもしれないと思いつつ、エスメラルダに応答する。

「で、そのままにしといたの?」
「仕方ないでしょ、会議中だったんだから。」

 てっきり空手チョップでも喰らわせたのかと思ったのだが、意外だ、とミヤビは心の中で呟く。そ
して胸を触るという痴漢行為以外の何物でもない行為をしておいて、まんまと逃げおおせた男を思い、

「味を占めたよ、きっと。」

 そう言うと、エスメラルダは舌打ちした。
 
「ほんと、体面なんか気にせず、二、三発殴っとくんだったわ………って、今はあの男の事はどうで
もいいのよ。あんな社会の害悪の事よりも、ハインケル君の事。」

 エスメラルダはミヤビに、資料は持ってきてるでしょうと尋ねる。持ってきていると答えると、そ
れを出すように言われ、ミヤビは少し顔を引き攣らせた。

「エスメラルダ、それは無理だよ。」

 乗っている人間が座席に埋め込まれそうな速度で走るオープン・カーに乗っている最中に、いくら
ファイルに入っているとはいえ、資料なんぞを開いた日には、どんな事になるのか眼に見えている。
それに暗号化されていてもこの資料は機密書類に属する。そんなものをオープン・カーに乗っている
時に見るべきではない。

「そうねぇ………じゃあ、口頭で言うわね。」

 仕方ないと言わんばかりに口を開くエスメラルダを、ミヤビは止める。

「エスメラルダ……これは機密事項なんだろ?オープン・カーで話す事じゃないと思うけど。」

 エスメラルダの事だろうから、盗聴器を妨害する電波くらいは車に仕込んでいるだろうけれども、
やはりオープン・カーで話す事はやや躊躇われた。
 そう言った直後、ミヤビは自分の言った事を後悔する。エスメラルダが、風よ全てを薙ぎ払えと
言わんばかりに、これ以上踏み込みようがないくらいアクセルを踏み込んだのだ。
 すっ飛んで行く、周囲の景色。

「これなら、他の人間には聞こえないわよ。」
「…………乱暴すぎる。」

 ミヤビが、無茶苦茶な盗聴妨害をした同僚に対して溜息を吐くと同時に、その同僚は今回の任務に
おけるハインケルの問題点を語り始めた。

「そもそも今回、私達十三課が教皇の護衛なんて任務に就いたのは、教皇暗殺未遂が連続して起こっ
ているからよ。しかも、内部の人間しかしらない教皇の習慣や外出予定を利用したものが多いわ。」
「つまり、教皇庁内部に犯人、或いは共犯者がいるって事だろ?それくらいは任務を受けた時に聞い
たよ。」
「そう。でも、その事件一つ一つは知らないでしょう?」

 銃撃事件から爆弾予告まで、それらはこの三ヶ月間で既に二十件を越えている。そんな細かな事ま
では流石に聞かなかった。

「言っただろ、忙しかったって。そんな詳しい事までは教えてもらう暇はなかったよ。それに、一体
それがハインケルとどんな関係があるっていうのさ。」

 よもや、ハインケルがその事件の現場に居合わせたという事はなかろう。ハインケルとて派遣員の
一人。そんな場所にいくほど、暇ではないはずだ。
 拗ねたような声で紡がれたミヤビの台詞に、エスメラルダは眉根を寄せた。

「事件そのものは、ハインケルとは関係がないのよ。」
「じゃあ、何?」

 エスメラルダは少し唇を湿らせると、自動車が掻き分ける風鳴りに負けない、しかし静かな声で話
し始めた。

「三週間前、教皇を狙った銃撃事件が起こったの。もちろん、それは一連の内部犯と見られる犯行と
同じ――教皇とその周囲の人間しか知らない外出時間を狙ったものだったわ。でもね、その事件の犯
人――少なくとも銃撃したと思われる者を見たという人が、多数いたの。」

 知らず知らずのうちに力が入ってしまっているのだろう。エスメラルダの、ハンドルを握る指の関
節が僅かだが白くなっている。

「この銃撃犯と思われる人物については、ハインケルについては知らされていないわ。ハインケルに
渡された資料からも抜け落ちてるはずよ。」
「なんで――――?」 

 続けられたエスメラルダの台詞に、ミヤビは思わず絶句しかけた。
 今回の自分達の任務は教皇の護衛という事になっているが、これは表向きのもので、恐らく本当の
任務というのは、この事件の黒幕の調査及び逮捕――そして時には始末――だろう。そうなれば、犯
人達に一番接近するのは、その特性上ハインケルだ。そのハインケルに狙撃犯の目撃情報を知らせて
いないというのは、明らかにおかしい。
 そしてミヤビは悟った。
 その狙撃犯こそ、ハインケルを問題視せざるを得ない要因なのだと。
 エスメラルダは、目撃情報からの狙撃犯の容貌を口にする。

「その銃撃犯と思われる人物は、白い髪を短く刈った小柄な青年。そして衣服は白い軍用コートを着
ていたそうよ。」

 それを聞いた瞬間、ミヤビの脳裏にフラッシュ・バックしたのは、祖国で起きた、そして世界を巻
き込んだ、あの核弾頭事件だ。
 その時に、今エスメラルダが口にした銃撃犯に似た人物がいなかったか。
 いや、人物ではない。
 あれは、人形だ。
 この世で最も美しい人形。
 そしてあの日、忽然と姿を消した。
 その理由、行き先、全てを知っているのは、ハインケル以外には誰一人としていない。あの人形が
現れて、そして消えてから、元々何処か鬱屈した雰囲気のあるハインケルだったが、一層憂いの中に
沈み込んでしまったような気がする。表向きは任務に支障など全くないほど普通に振る舞っているが。
 わかった?とエスメラルダが、太陽のような顔を物憂げに曇らせて言った。

「私達は、あの日、シェルターの中で何が起こり、どんな遣り取りがハインケルとあの人形の間にあ
ったのか、知らないわ。でも。」

 それでも、と、いつもは情熱的なフラメンコの似合う彼女は、らしくない憂いを帯びた顔つきをし
ている。

「ハインケル君が、今回の任務に向かない事は分かるわ。」

 もし、銃撃犯が、あの時に消えた人形であったなら。そして教皇暗殺計画に係わっているとしたら。
ハインケルはそれに対峙した時、どんな行動を取るだろうか。果たして、いつもの乏しい凍てついた
感情のまま、無情に無駄なく任務を遂行する事ができるだろうか。
 それは全て、あの時、シェルターの中で起きた出来事に左右される。
 あの白き人形が、あの氷の美貌を持つ戦鬼に、どんな名前の付いた杭を、その心臓目掛けて打ち込
んだのか。
 それによって、ハインケルの行動は、左右される。
 しかし―――――

「でも、そこまで分かっているのなら、どうしてハインケルを投入したの?」

 危機感を持つほど、ハインケルが白い人形に囚われているというのなら、その匂いのする場所に近
 づけなければいい。あの美丈夫は確かに感情が分かりにくいが、彼の任務に支障をきたすと思われ
 るほどの揺れを、博士やあの司令官が気づかぬとは思えない
 しかし、情熱的な美女は、ただ首を横に振った。

「それは出来ないわ。教皇暗殺自体は、これまで幾度となく繰り返されてきたようだけど、今回は別
………。今回は教皇庁内部の犯行で、しかもその何れも、不自然なほど証拠が残されていない。つま
り、一筋縄ではいかない相手よ。」
「例えば、事件の後ろに大きな何かがあるとか?」

 ミヤビは溜息を吐く。
 確かに、このような裏で何かが幾重にも絡み合った事件に、ハインケルほど都合のよい存在はいな
いだろう。
 ハインケルは決して裏工作が得意なわけではない。それらは博士や自分達の役目だ。
 しかし、その何れもが失敗した時、ハインケルのように、人間離れした身体能力を持つ存在は、非
常に役に立つのだ。
 彼の、無頓着なほどにその場にある全てを叩き壊し、全てをなかった事にするという力。失敗も何
もかもを無に帰すその暴力は、限りなく重宝される。
 そして、ハインケルが重宝されるもう一つの理由は、その切り捨て易さにある。
 ハインケルには、家族がいない。大洪水により世界経済が破綻してから五百年経つが、それでも孤
児はあちこちに溢れかえっている。ハインケルもそんな孤児の一人なのだろうが、孤児など別段珍し
いものではない。しかしそれでも、この世界において、それは都合のよい労働力としてしか見られな
い。その身に何が起きても抗議してくれる者はおらず、故に切り捨て易い。
 だから、任務に失敗し、それにより十三課の存在が危ぶまれた時、司令官は他の課に対するけじめ
――即ち生贄として、躇いなくハインケルを始末するだろう。
 今回の任務に対しても、同じ事が言える。
 教皇庁という密閉空間で何らかの失敗が起きたとしても、ハインケル一人に責任を擦り付けて切り
捨てれば良いだけの事。ハインケルの私情が任務に影響を与えるとしても、その意味は変わらない。

「でも、司令官は本当にハインケルを切り捨てるつもりかな?」
「分からないわ。今までだって、十分に危険な事もあったし。でも今回は教皇庁が相手よ。任務の失
敗を何の犠牲もなく誤魔化せるとは思えないわ。」
「それだけ教皇庁の存在は大きいってわけか。」

 皮肉気なミヤビの台詞に、エスメラルダは、それともと眉根を寄せる。
 
「今回は円卓も開かれた上での任務だから、そちらへの面目もあるのかもしれないわ。何かあれば、
五年前の事件のような判断が下されるかもしれないし。」
「司令官の政治生命、引いてはその命に係るからね。」

 座席に沈みこんだままの姿勢でそう言うミヤビの口元から、皮肉が引く事はない。顔に押し付けら
れる風の所為で、表情を動かす事が出来ないだけかもしれないが。
 嘲るような響きのあるミヤビの声に、エスメラルダはミヤビの言わんとする事を正確に読み取る。

「こればっかりはどうしようもないわ。この世界はそういう仕組みになっている。私達は一般市民よ
りも多くの権利を得られているけれど、その分、何かが起きた時に払うべき代償も大きい。そして全
て自己責任の面が大きい。今後、ハインケル君が生き残るのも、始末されてしまうのも、全てハイン
ケル君の行動に委ねられるのよ。」
「そしてハインケルはその事を知らないわけだ。」

 自分の行動によって決定する自分の運命を。
 そして危険信号となる存在の事を。
 しかしハンドルを握るエスメラルダは、それに対して首を横に振る。

「大丈夫よ。ハインケル君もこの世界でずっと生きてきたのよ。自分の行動が自分の運命を決める事
くらい知ってるわ。」
「白い人形がいるかもって事は知らないけどね。」

 ミヤビは風圧で乾きかけた口で、そう素っ気なく言う。何とか唾を飲み込み口を湿らせて、同じく
風圧を受けているだろうはずのエスメラルダの顔を見る。しかしエスメラルダは、口の渇きを気にし
た様子もない。それを怪訝に思いながら、

「でも、君の言う通りかもね。」

 とミヤビは呟く。

「ハインケルは今回も無事だと思う。」

 その台詞にエスメラルダは、視線を僅かにミヤビへと向け、頷く。
 
「ええ………今回も、なんとかなるわ。」

 そう言って彼女は、これ以上踏み込めないと思われていた所から、更に深くアクセルを踏み込む。
これ以上は出ないだろうと思われていた風鳴りが、より一層、濃くなる。
 その風鳴り向こうで、エスメラルダの囁くような声が震えた。

「とにかく、くれぐれも、ハインケル君には怪しまれないように、ね。」