かつて、古代ローマの港町として栄え、最初の植民地であったと言われるオスティア港は、現在も
ローマ・ドームの港として、毎日のように貿易船や巡回船を海の中に吐き出している。壁や床のあち
こちに、貿易品をモチーフとしたモザイク画が嵌めこまれ、この港がローマの玄関口である事を伝え
て来る。
 ローマ・ドーム最大の潜水艦ドッグを有するこの港の壁は、モザイク画を引き立てるように、白塗
りの美しい壁に覆われ、無骨に見えがちな金属面を覆い隠し、居心地の良い公共性を重視した場所と
なっていた。それが、旧時代の駅ビルに似ている事を知っているものがいるとすれば、その人物は五
百年以上生きている事になる。
 旅人の憩いの場となる雰囲気を創り上げている白い建物の中には幾つもの店が開かれている。休憩
を兼ねた食事が出来るような飲食店は当然の事ながら、服やアクセサリーを扱う店もあれば、薬など
の突発的な事態に備えての日用品を売る場所もある。或いは、その土地の生産物を扱う店も並んでい
る。
 その雰囲気に甘えるように店を覗き、時には歓声を上げ、微笑を浮かべる人々の中を、まるで逆ら
うかのように、ちまちまと歩く影があった。
 何処か疲れたような足取りで、背中を押し潰しそうな荷物を背負い込んで、潜水艦ドッグから店の
立ち並ぶ通路へと向かう小さい影は、だからと言って自分に投げかけられる無遠慮な視線を気にする
ふうでもない。いや、そんなもの気にしている余裕などないのかもしれない。
 何が何でも荷物を背中から下ろす事なく歩こうとしているその背中に――と言っても背中など荷物
に隠れて全く見えていないのだが――不躾な視線を一瞬にそちらに惹き付けるほどの威力を持った、
艶やかな声が響き渡った。

「ミヤビ。」

 みやび。
 たったそれだけの台詞で、通路にいた人間全て――黒いビニール張りの椅子に凭れかかっていた老
人も、走り回っていた子供達も、大時計の下で待ち合わせをしているらしい男も、全員がそちらを向
いた。そして、向いただけの価値がある――というかそれ以上の価値があるものを見出す事ができた。
 健康的な南国を思わせる浅黒い肌。その肌は声と同じくらい艶やかで、けれど弛みは一切なく引き
締まっている。その引き締まりは身体の曲線美を損なう事無く、むしろ引き立ててさえいる。そして
ウェーブがかった黒髪の下にある顔は、ジプシーのような奔放さと女性特有の柔らかさに満ちている。
 真昼の太陽が光臨したようなその姿に、行き交う人々の視線――特に男の――を一手に引き受けた
女性は、そんなものには足先を舐める蟻ほどの関心も向けず、大荷物に押し潰されそうになっている
小柄な影に、花畑を歩くが如く軽やかさで歩み寄る。
 ミヤビ、と呼ばれたその小柄な影――どうみても子供にしか見えない――は、大荷物を背負ってい
るにも関わらず、驚くほど滑らかな動きで、近付く太陽の化身に顔を向けた。そうする事で、荷物に
隠されかけていた頭がようやく姿を現す。
 ぱかりと顔を上げたその頭を覆う髪は、艶やかな女性に向けられた視線を、再びこちらに向け直す
だけの効果があった。
 ピンク色。
 それも蛍光の。
 おまけに、全体がその色一色で染まっているのではなく、髪先に行くにつれて、最終的に黄色にな
るようにグラデーションになっている。
 しかし、この髪の色にも女性は特に驚いた様子は見せなかった。美しい黒髪を掻き揚げながら、今
にもフラメンコの音楽が鳴り響きそうな足取りでミヤビに近付き、男達を一撃で十八人ほど撃ち落せ
そうな笑みを浮かべる。

「久しぶりね、ミヤビ。伯母様はお元気かしら。」

 限りなく親しげな声音に、ミヤビと呼ばれた子供も笑った。
 
「伯母さんは相変わらずさ、エスメラルダ。」

 自分よりも頭二つ分背が高い美女を見上げながら、ミヤビは顔に浮かべた笑みを薄くして、声音も
先程よりも若干低めに呟いた。

「派遣員の一人は君だったんだね………。」

 呟きながら、今回のイタリア入りの目的を思い出す。
 ミヤビとエスメラルダ。子供と美女の二人ならば、イタリアという芸術や美術、美食で名を高める
国を訪れる理由は、普通は観光が妥当なところだろう。けれど、ミヤビの薄まっていく笑みを見る限
り、それは正解ではないようだ。いや、そもそも派遣員という言葉が、遊びでない事を示している。
だが、それ以上に奇妙な色が声音の根底にある。
 ミヤビは微かに逸らした視線を、ちらりとエスメラルダに戻した。
 
「で、他に三人の派遣員を投入するって聞いたけど。」

 三人。
 そう言った時のミヤビの顔には、微かに複雑そうな――意外そうな表情が浮かんでいる。そんなミ
ヤビの表情に、エスメラルダもその妖艶な顔に、意外そうな表情を浮かべてみせる。

「あら、資料を見てないの?」
「………命令が突然だったからね。一ヶ月前の事後処理だってあったし。」
「ああ………。」

 幼い声の、今にも溜息を吐きそうな色を交えた声に、エスメラルダは納得したと言うように頷いた。
 一ヶ月前、ミヤビの郷里である日本で大規模な事件が起こった。核弾頭による世界終末のカウント・
ダウン。世界を巻き込み、一歩間違えれば世界そのものを滅亡させていたであろうその事件に、ミヤ
ビは立ち会っている。
 その事後処理を郷里であるという理由でミヤビに任されている事を、エスメラルダは知っていた。
そして、その事を考慮して、今回の任務にミヤビを参加させるかどうか、ぎりぎりまで判断が分かれ
た事も。
 慌しく日本から掛け付けて来た子供を見て、エスメラルダは、先月の事件が今回の任務と決して無
関係ではない事を思い出す。思い出しながらも、それと同じくらい頭の痛い事を最初に口に出した。
それはミヤビの質問に答える為のものでもある。

「あの、セクハラ男がいるわ。」

 忌々しげにエスメラルダは、今回、合同で任務に当たる残りの三人のうち一人の事を、そう称した。
そしてミヤビは、それだけで誰の事を指しているのか理解した。

「なるほど……イタリアの事なら彼が一番良く知ってる。正に適任だね。」
「あいつは女のいる所なら、何処だって適任なのよ。成功率は兎も角。」

 先程まで浮かべていた、憂いにも似た複雑の表情を消し、景気良く此処にはいない『セクハラ男』
を一蹴したエスメラルダを見て、ミヤビも再び笑みを濃くする。

「元気そうだね。」

 太陽の如く煌きを取り戻した彼女と、取り戻させた『セクハラ男』を思い浮かべ、ミヤビはそう言
った。しかし、その言葉の何かがいけなかったらしい。一瞬にして、エスメラルダの体内から発せら
れていた、勢いのようなものが萎んでいく。
 その様子を見て、ミヤビは怪訝そうに、そして背中に背負った荷物に邪魔をされながらも首を傾げ
る。

「何………?なんか、あったの?『セクハラ男』が遂に誰かを妊娠させたとか?」
「そうだったら、十三課から叩き出せるまたとないチャンスなんだけどね………。」

 かなり深刻な事を言ったはずなのだが、エスメラルダはそうでない事が残念だと言わんばかりの言
葉を吐く。とりあえず、十三課の人間が女性問題を引き起こしたわけではなさそうだ。その事に安堵
すべきなのかどうなのか迷っていると、エスメラルダが溜息を吐いた。

「まあ、あの事件の後だったら、資料を見てる暇がないのは無理ないわよねぇ…………。」
「無理ないよ。」

 神妙な顔つきでそう言う子供に、エスメラルダはもう一度溜息を落とした。

「立ち話もなんだから、ホテルに行きましょ。詳しい話はホテルへ向かう途中の車の中で。」

 エスメラルダは荷物塗れのミヤビの背を押し、店の立ち並ぶ通路の突き当たりに口を開いている、
港の入り口へと足を進める。背中を押されて一瞬よろめきかけたミヤビは、怪訝な表情でエスメラル
ダを見上げた。

「……車?今回は大っぴらに職員は動かせないって聞いてたけど?タクシーでも待たせてるの?」
「違うわ。私が迎えなの。」

 誰にも聞き取られないように、唇だけを動かして話すエスメラルダの言葉に、ミヤビは、じゃあ車
って何?と尋ねる。そして何か思い当たる事があったのか、尋ねたままの口の形をしばらく維持して、
まさかと呟く。

「……エスメラルダって、車の免許、持ってたっけ?」
「持ってるわよ、失礼ね。」
「…………何年ぶりの運転?」
「あのね、どうやってこの港に貴方を迎えに来たと思ってるの?当然、車で来たに決まってるでしょ。
だから一時間ぶりの運転になるわね。」
「そういう意味じゃなくてね………。」

 多分、眼の前の美女は判っていて惚けている。
 ミヤビは、数年ぶりに――数十年と思わなかったのは勘の良い美女から身を守る為だ――車を運転
するのであろうエスメラルダが運転する車に乗る事になった己の運命を、誰かに向かって呪った。し
かし、その呪いは誰にも届かずに宙に掻き消えた。それとも、神の恩恵を一身に浴びる場所へ向かう
今、何処かに呪いを打ち消す結界でも張ってあったのかもしれない。ミヤビの呪いなど全く効いた様
子のないエスメラルダは、いまだにぶつぶつと往生際悪く呻いている子供の腕を取り、先導するよう
に歩き出した。
 ミヤビの眼には、この先に待ち構えているであろう真っ赤なスポーツカーが、色鮮やかに映し出さ
れている。見えもしないスポーツカーを想像して、ミヤビは軽い乗り物酔いを起こした。そして、必
要ないとして一度も使った事のない酔い止め薬に思いを馳せる。思いを馳せたその二秒後、薬を忘れ
たという無念を、幸か不幸かミヤビは打ち消す事に成功した。
 多分、そんな気休め程度の薬など、この先、意味がない。

「安全運転でお願いするよ……。」 

 この言葉も所詮は気休めでしかないんだろうな、と思いながら、ミヤビはエスメラルダの後にすご
すごと従った。
 エスメラルダはといえば軽快な音を立てて、車の鍵を取り出している。鼻歌でも歌いだしそうな南
国の美女の姿は、見る者の心を捕え、魅了するのには十分だろう。しかし、これから起こるであろう
惨状を知るミヤビにしてみれば、悪魔の鉤爪に捉えられた罪人の心境に近い。
 天国に近いこの都市で、もしかしたら己の魂が一番天国に近づく事になるのかもしれない。