ローマへの出発は、任務が下されてから予定通り三日後に実行された。準備する暇もほとんど与え
られていないが、それはこの仕事では日常茶飯事だ。例え一時間後に南アフリカに旅立てと言われて
も対応出来る――それが十三課の派遣員に求められる事だった。
 その求め通りに、ハインケルは潜水艦が浮かんでいるドックの前に立つ。ドッグには数隻の潜水艦
が浮かんでおり、その中の一つ、白い機体に十三と赤い字で染め抜かれた潜水艦が、これからハイン
ケルが搭乗することになるローマ行のものだった。その前でハインケルは、自分と同じようにローマ
へ向かう、師でもある博士の到着を待っていた。
 ハインケルは、無機質な金属の壁に掛けられた時計を見上げる。出発時刻まで、まだ二十分もある。
 来るのが早すぎたようだ。
 尤も、博士が時間に遅れてやって来たとしても、ハインケル一人でローマに行くわけにもいかない。
どのみち現地で、召喚された派遣員全員が一度は集合する事は決まっているし、何よりもハインケル
は潜水艦の操縦が出来ない。いや、出来なくはないのだが、免許を持っていないから同じ事だ。
 その時、ハインケルが背を向けている潜水艦から、何やら音がした。その音に、ハインケルは不審
であるとかそれ以前の問題を感じ取り、眉間に皺を寄せる。
 先程ハインケルが潜水艦に入ろうとしたら、扉には鍵がかかっていた。潜水艦の鍵は、どういうわ
けか連邦の備品であるにも関わらず、博士が個人持ちしており、スペアはない。つまり、中には誰も
入っていないはずなのである。博士が中に入っていない限りは。
 そんなハインケルの思考を余所に、潜水艦の中の物音は徐々に移動し、間違いなくハッチの方向へ
と向かっている。そして、ハインケルの目の前で、勢いよくハッチが開いた。
 ハッチから顔を覗かせたのは、まだ此処に来ていないと思われていた博士である。
 博士は、ぼけっとして突っ立っている弟子を見下ろし、眉を顰めた。
 
「何故、入ってこないのかね?」

 開口一番のその台詞に、ハインケルはがっくりと肩を落とした。
 入ってこないのではなく、入る事が出来なかったのだ。中にいた人間が鍵をかけていたから。そし
て中に入っていたのは博士である。
 自分が鍵をかけた事を忘れているのだ、この師匠は。
 憮然としたハインケルを見下ろし、ようやく博士は自分の仕出かした事を思い出したらしい。ああ
そうだったね、とぼやいている。

「最近物忘れが激しくてねぇ。僕も遂にぼけたのかねぇ。」
「………。」

 ハインケルは博士の年齢を知らないが、まだ惚けるような年齢ではないはずだ。多分。
 恐らく、何故かは知らないが、昨夜から潜水艦に泊まり込み、先程眼を覚ましたばかりなのだろう。
それで、寝ぼけていたのかもしれない。そのわりには随分と身形を整えているが、そこは紳士である
博士の事だ。何か早業を使ったのかもしれない。
 しかし、ハインケルの想像通り潜水艦に泊まり込んだのだとしたら、その理由は一体何か。
 その疑問に対して、ハインケルは恐ろしい自答が脳裏に思い浮かんだ。
 もしかしたら、また、潜水艦を弄っていたのかもしれない、と。
 今からハインケルが乗り込む潜水艦は、正式名称をイージス364G−Aというらしいのだが、ある
日突然、トリトンという愛称を持つ事になった。命名者は博士である。
 そしてその名を抱くと共に、イージス364G−Aは、ミサイル搭載型潜水艦から、変形式潜水艦に
様変わりしたのである。しかも変形の仕方が尋常ではなかった。トリトンは人型――古代のアニメの
ように、巨大ロボに変形するのだ。
 この改造を知った同僚は絶句し、上司が激怒したのは記憶に新しい。そして改造費は当然の如く博
士持ちとなったのである。それを如何にして支払ったのか、それはハインケルの知るところではない。
 とにかく、このようにこれ以上改造の施しようのない潜水艦――トリトンの何処を改造しようとい
うのか。
 恐ろしい考えに身震いするハインケルの顔色を見た博士は、失敬だねぇと鼻を鳴らした。
 
「こんな時に、改造なんて出来るわけないじゃないか。」

 つまり、こんな時でなければ改造したわけだ。
 
「僕が此処に泊まり込んだのは、純粋に整備の為だよ。」

 その台詞、千人中一体何人が信じるのか。
 ハインケルの、師に対する尊敬など欠片もない心中を無視して、博士は早く乗りたまえよと急かす。
 
「ローマにいるレディを待たせるつもりかね。レディを待たせるなど、紳士のするべき事ではない。」

 上半身だけを潜水艦から乗り出し力説する博士を、半ば無視しつつ、しかし言われた通りにハイン
ケルは潜水艦に入る。
 久しぶりに乗る潜水艦の中は、最後に見た時と変わりはなかった。見たところは。操舵席も後部座
席も、とりあえず変化は見当たらない。

「ハインケル。」

 博士が、一つの座席を見つめているハインケルの背に声をかけた。
 
「なんです?」

 振り返ると、そこには不可思議な表情をした博士がいた。何かを言いかけて止めたような表情だ、
とハインケルが思っていると、博士は首を横に振る。

「いや……とにかく座席に着きたまえ。すぐに出発する。」

 そう言って、博士は操舵席に着いた。それを見習って、ハインケルはある座席から視線を逸らし、
自分も同じように座席に座る。
 それを確認して、博士は前を向く。
 
「飛ばすよ。シートベルトを装着したまえ。」