左右に開いた扉の向こうに、憂愁の美貌を持つ部下が消えると、ヴィンセントは溜息を吐いた。
そして豪奢な執務椅子の背凭れに凭れ掛かる。
「………どう思う?」
 麗しき女司令官は長い溜息を吐き終えると、部屋に控えている博士に尋ねる。硬質な声に見られる
小さな乱れに眉を顰めながら、博士ははてと首を傾げてみせる。

「どう思う、とは何の事です?」
「貴方の弟子の事だ。」

 ヴィンセントは、じろりと博士を見て指を組んだ。この壮年の男が弟子の奇妙な変化に気づいてい
ないはずがない。にもかかわらず、はぐらかそうとしているのを見てヴィンセントの視線も自然とき
つくなる。

「貴方が一番良く解かっているはずだろう。貴方は彼の一番の理解者だ。」

 そう。戦争遺児、もしくは親に遺棄された子供達が収容されている施設からハインケルを見出した
のは、紛れもなくこの紳士なのだ。彼はハインケルの師であると共に親でもある。
 だが、その博士はただ首を竦めて見せただけだった。それに対するヴィンセントの視線は更に鋭く
なる。

「気づいていないはずがない。今の彼を見れば誰でもその変化に気づく。」
「でしょうな。」

 ヴィンセントの言葉に頷きつつ、博士はハインケルが引き摺っている影の濃さを思い出す。
ハインケルが影を背負っているのは今に始まった事ではない。博士が彼を見つけた時、既にその年齢
に相応しくない、まるで老人のような諦観した暗さを瞳に宿していた。しかし、今ハインケルが背負
っている影は、彼が常に纏っていたそれよりも遥かに濃い。
 その変化の境は、あの日。
 極東の島へ行った、あの日。
 世界が核弾頭の危機に曝され、終末の鐘が鳴り響いた、あの日。
 ハインケルの中で何かが解け、そして更に硬く硬化した、あの日。
 
「大丈夫なのか?」

 ヴィンセントの眼はいよいよ険しい。しかしそれは部下を案じる為のものではない。それは部下の
鬱屈が任務に支障を来たす事を懸念している、冷酷な司令官の眼だ。

「ならばハインケルを任務から外しますか?」

 博士の問いに、ヴィンセントは馬鹿な事を、と口元を歪めて答える。
 
「今回の任務、ハインケルという駒がなければ危険すぎる。複数の派遣員をよりにもよって教皇庁の
中枢に食い込むのに、いざという時の『滑り止め』がいなくてどうする。」

 剃刀のような光を瞳に湛えてそう告げる女性の声からは、完全に抑揚がなくなっている。

「ただ、背負った影が霧散しても、それによって『滑り止め』としての役割を忘れてもらっては困る。
博士、今回の任務、ハインケルから眼を逸らすな。」

 寒々しい光をそのままに、意味深な台詞を言い放った上司に、博士は眉を顰める。
 背負った影が霧散する事で任務に支障を来たす―――どういう事だ。ハインケルがあの日以降、以
前にも増して何者にも興味を示さなくなった事と今回の任務、何らかの関係があるのか。
 不審な眼をしている部下に、ヴィンセントはしばらくの間口を閉ざし、窓の外へと視線を巡らせる。
その先を通り過ぎる黒い影を目線で追いかけ、それが消え去るのを待ってから、彼女は口を再び開い
た。

「円卓の上でも音声だけで文章化されていない事なんだが、つい先日、また教皇を銃撃する事件があ
ったらしい。」

 その時に、と彼女は世間話でもするかのような穏やかさで話し続ける。
 
「現場から逃げ去る人影が目撃されている。」

 現場から逃げ去る人影。それは十中八九、事件となんらかの係わり合いがあると見て差し支えない
だろう。しかし、それとハインケルから眼を逸らさない事と、一体どんな関係がある。

「人影という事は『人間』、もしくは『それに類する形をしている物』という事だ。つまり人形であ
る可能性もある。」

 ヴィンセントは窓の外の漆黒を見詰めたままで、博士と眼を合せようとしない。淡々と人事のよう
に人形の可能性を示唆するその様は、自然なようでいて不自然にも見える。

「その人影を目撃した教皇庁職員から情報は所々一致していない部分もあるが、ある条件については
全員一致しているそうだ。」

 そこまで話して、ヴィンセントの視線は再び博士に向き直った。そして彼女は関節が白くなるほど
指を強く組む。その顔には部下を切り捨てる時に見せる薄い表情が浮かんでいる。

「目撃者全員、その人影は白かったと答えたそうだ。白く短い頭髪を持ち、教皇のように全身を白い
衣装で包んでいた、とな。」





 
 ハインケルは手渡され資料を片手に抱え、一旦自室へと戻る。資料内容を読まなくてはならないし、
何よりもまだ朝食を口にしていないからだ。
 廊下には、ようやくぽつぽつと人の生活を表す明かりが灯り始め、早朝特有の慌しい音が所々で聞
こえ始めた。店が開き人気が往来し始めれば、窓の外の漆黒の闇も、またしばらくは成りを潜めるだ
ろう。
 だが、完全にその闇を消し去る事など出来はしないのだ。
 窓の外を自由自在に何処までも泳いでいく黒い影。ハインケルの秀麗な顔の上に魚の形をした影を
作るそれは、まるで闇の中で必死に力を誇示しようと輝く自分達人間を嘲笑っているかのようだ。不
自由に管理されたお前達が今更どんな権利を主張するのかと。居場所の線引きに拘りすぎて、もはや
居場所さえも与えられたものでしかないのに、何処にどんな力があるのかと。
 確かにその通りだ。長らく続いた戦争や資本主義の競争の所為で世界は極度の汚染に見舞われた。
しかし、それらの警鐘が幾度となく鳴らされたにも拘らず、世界は終末へと近付く事を止めなかった。
そして訪れたのは異常気象の果てに起こった大洪水。誰にも止める事の出来なかった、神話の中でし
か見た事のないその災害は、一瞬で此の世の全てを飲み込んだ。世界中の水素と酸素が結合したので
はないかと思うほどのその水はヒマラヤ山脈の一部を残して地上の全てを多い尽くし、この星をその
美称の通り、ミスの惑星へと変貌させたのだ。尤も一万キロメートル近く上昇した海面は悉く凍りに
覆われ、水の惑星というよりも氷の惑星と言ったほうが正しいが。何れにせよ世界が、人類が生きる
には不利な条件を取り揃えた事だけは明らかだった。
 そんな中、人類が生き残りを賭けて造り上げたのが『ドーム』である。海底に張り付くように作り
上げられた透明の半球は、その中に人類の生存に必要なものを取り揃えてあった。大洪水の際に失わ
れてしまったかつての文明を結集させて造り上げられたという人類の生存圏。
 だがそれは、所詮は限られた場所でしか生きる事が出来ない事を自分達に知らしめた箱庭でしかな
い。時計の針でしか朝と夜の区別は出来ず、如何に太陽に似せた光を造り上げても本物の朝の光は此
処には届かない。
 黒い影の中で金色の目が光った。反射板のような眼を持つその魚の名前を、ハインケルは知らない。
いや、この魚に限らず、ハインケルは此の世のほとんどの事に興味を持っていない。この世界が海底
に沈んでいようが凍りに閉ざされていようが、ハインケルの興味を引く事は出来なかっただろうし、
また彼にはその時間も与えられていなかった。
 世界が日の光差さぬ海の底に沈んで五百年。
 大洪水は当然の如く世界経済を直撃し、職にあぶれ住む土地を失った人々は、子供達を真っ先に捨
て置いた。そしてそれは五百年経った今でも脈々と続いている。その子供達の中にいたハインケルは、
施設から博士に拾われ、そして此処に至る今までずっと、自分の為の時間など与えられた事はなかっ
た。ハインケルの時間は常に誰かの為の時間だった。だから、ハインケルは好奇心を満たす為の興味
など示す事はできない。
 ましてや、こんな薄っぺらな透明の壁で囲まれた世界で、一体何に興味を持てと言うのだろう。い
つ壊れるとも解からないこの世界で、何に好奇心を注げと?
悲観的だと思われるかもしれないが、けれどそれは決して間違ってはいない。現に、透明な壁一枚で
構成されているこの世界は壊されそうになったのだ。こんな世界になってもまだ、水面下で起こって
いる人類の抗争と旧時代の文明から生じた産物――核弾頭に補足されて。
 固まって泳いでいた魚の群れの影が霧散する。巨大な魚影が、散り散りとなった小さな魚の群れの
間から、ぬっと現われた。おそらく、世界はこの小魚達よりも脆弱だ。一度散り散りになってしまえ
ば、元に戻る事はきっと難しい。
 そう考えれば、あの日、核弾頭が発射しなかったのは、運が良かったという言葉だけでは済まされ
ない。いや、それとも『彼』にとっては当然の事だったのだろうか。
『彼』――――。
 夜空よりも暗い海空。それさえも突き抜けるように、穢れのない白が今でも思い浮かぶ。
 ほっそりとしなやかな、理想をそのまま溶かし込んで出来たような体躯。何をしても優美といった
感想しか抱く事が出来ない、人間以上に滑らかに動く指先。銀糸のように煌く、しかしそれよりも柔
らかな、むしろ雪明りのような白い髪。そして北極星のように冴え渡る、薄氷色の眼。
 暗い氷と海の底に産み落とされた人と人を繋ぐ為に機械化されたこの世界のその中に、張り巡らさ
れた見えない光の網。終末の鐘を止める為に、その光の網の向こう側に、古き機械の亡骸と共にその
身を投じた『彼』。
『彼』が電子の波の中に消えてから、もう既に一ヶ月近く経つ。その間、幾度となくハインケルも電
子の海を渡ったが、その光の渦の中にその姿を見つける事はなかった。
 仮に見つける事が出来たとしても、触れる事など出来きはしない。『彼』の姿をしたそれは、やは
り光の渦の一つでしかなく、指の先で輝いていたとしても手が届く事は決してないのだ。
 ―――いつか、もう一度逢えると信じていたんだけどな。
 ハインケルは、そんな手の届かない光の粒に向かって小さく呟いた。
 八年前、フィレンツェ・ドームを僅か十体で壊滅した機械人形の生き残り。
 人間を、世界を守る為に、人間に代わって責任を取り、膨大な情報が錯綜するネット世界に消えた、
此の世で尤も美しき、白き人形。

「…………ドライ。」

 何処からともなく立ち昇った泡沫に、ハインケルはその名前を乗せた。