世界人類共同連邦の本部はスイスのジュネーブに位置している。そこから約1000kmほど沖合いに、
人目を憚るように、巨大な岩陰の最も暗い部分にひっそりと沈むように建物が佇んでいた。
 細長い塔とそれを取り囲む円。その二つを組み合わせたこの建物こそ、世間からその存在を隔離さ
れた十三課の本拠地である。公には地動探査所とされているこれは、中央の塔が司令部分――即ち機
密部であり、周囲の円が職員達の寮や通常業務、その他の日用生活を補う場所となっている。
 隔絶した中でも一般の日常に近い円形部分は常ならば灯が入っているのだが、今は静まり返って闇
の中に沈んでいる。それもそのはずで、現在の時刻は午前四時半。いくら気の早い店でも、やっと準
備を始めた頃だろう。
 夜更かしの職員でもなければ夢の世界と現実世界を行き来しているそんな中、寮の一室で、バシッ
という音が響き渡った。全体的に白を基調とした質素な部屋の中で、その音は隅の方に置かれている
ベッドの枕元から発せられたようだった。
 非常灯の薄暗い明かりに照らされた白いシーツは、その下に何かを隠しているらしく不自然に盛り
上がり奇妙に皺が寄っている。一般の非常灯が放つそれよりも妙に寒々しく感じる光の所為で硬質な
見た目を作り出しているシーツの中から、そのシーツの色よりも更に白く、更に硬そうな手が伸びて
いた。
 死者よりも血の気の失せたその手が伸びる先には、てっぺんに二つのベルを付けた、ごく一般的な
目覚まし時計がある。その頭に白い手は着地している。もっと正確に言えば、目覚まし時計の頭頂部
にあるボタンを押さえているのだ。どうやら、先程の音は、この白い手がそのボタンを叩いた音であ
るらしい。
 時計が時を告げる音を鳴らす前にその行為を止めた手が、ゆっくりと離れていく。そして軋んだ音
を立てて、ベットの上で白く鍛え抜かれた上半身が起き上がった。次いで下半身がベッドから降りる。
温かみのある光の一切ない、酷く無機質でモノトーンな部屋の白い床は凍えそうな様相を見せていた
が、そこに降り立つ白い足はそれ以上に冷たい色をしていた。
 床に降り立った彼は、今にも噴き出しそうな冷気など微塵も感じていないように、淡々と着替えを
始める。その様は、この明暗色だけに照らされた、人を寄せ付けない雰囲気を放つ部屋に妙に似つか
わしい。薄く床に穿たれた影がしなやかに動く上を、別の影が大きく横切っていった。それが名も知
れぬ巨大な魚の影であると認めた双眸は、美しい翠を持っていながらも、手負いの獣が見せる暗い光
を澱ませている。
 衣類を改めて立ち上がったその顔に、すっと非常灯の光が一条、額から鼻梁を通り顎にかけて切り
込みを付けるように縦に走った。
 冷えた闇の中で、僅かな面積を照らし出された、その、顔。
 手と同じく凍えるような白さを持ち、その白に相応しい、触れれば切れてしまいそうな凍てついた
美貌。その中で見開かれている翠瞳に先程灯った暗い光は、今でもその瞳の中に存在し、消え去る気
配は何処にもない。まるで、海底に沈められた水草以上の冷たさを放っている。
 氷漬けの骨のような手が、最後の仕上げと言わんばかりに、背中まで垂れる長い緑の髪を纏め上げ
ると、それを待っていたかのように彼の耳元で女性の声が響いた。

『ハインケルさん、お目覚めですか?』

 滑らかで恭しく、しかし無機質なその声は、色のないこの部屋に誂えたかのように似合っている。
 寒気を催しそうなその声に、彼は慣れているかのように答えた。
 
「ああ……。さっき起きたところだ。」

 相手の姿の見えない事など気にするふうでもなく、低く、だが寝起きとは思えないほどの明確な声
で彼はそのまま尋ねる。

「それで……何の用だ?」

 何かがあった事は、この声が耳元で響いた時点で予想している。しかも、とびきり困難な事態が。
 そもそも、わざわざ呼びに出されなくともこの時間帯には眼を覚まし、司令室に顔は出す。そんな
彼の日常を知っているにも拘らず、こうして呼び出すからには、それ相応の事態があった事は過去の
事実に照らし合わせてみても明白だ。
 そう思いながら、眼に見えない同僚の答えを待っていると、事実だけを淡々と述べるこの同僚はす
ぐさま答えを告げた。

『ヴィンセント様がお呼びです。』

 耳朶に落とされた自身の上司の名前。それだけで、いよいよこの先に待ち構えている未来は明白だ。
そして、その未来に異論はない。
 凍りつくような美貌に何物も浮かべず、彼は短く、そうかとだけ答える。その手は、まだ離れて間
もないのに既に温もりを消し去ったベッドの下を弄り、そこに忍ばせてあった刀を取り出している。
金属特有の硬い音を響かせながら刀を腰に帯び、彼は口の中でだけ響かすように、眼に見えぬ同僚に
向けて呟いた。その声は当然、拾われるものだと確信して。

「解かった。今から五分でそちらに向かう………そのように司令官にお伝えしてくれ。」
「畏まりました。」

 恭しいが抑揚のない声はこの薄暗い部屋ではいつも以上に素っ気無く聞こえ、その声が途絶える時
もやはり突き放すように素っ気無かった。しかし彼はそれに眉を顰めたり、何らかの感情を顔に浮か
べるという事はしなかった。通信が途絶えた事を確認すると、彼はただひたすら淡々と、自分放った
言葉を遂行すべく、人間が住んでいるには質素すぎる部屋を後にした。
 このように突然呼び出される事は稀ではない。むしろ日常茶飯事だ。それ故に事務的に事を進める
同僚の声に、いちいち目くじらを立てるなど体力の消費以外の何物でもないだろう。
 ましてや自分達の所属する十三課は、その数字に与えられた迷信じみた考えに添って、明らかに不
吉な意味で特殊なのだ。呼び出し如き、騒ぐほどの事でもない。
 それに十三課の司令官、つまり自分の上司に当たる人物は昨夜、連邦総本部の会議に出席していた。
そこでどのような遣り取り、或いは駆け引きがあったのかなど知る術はないし、また興味もない。た
だ、こうして自分を呼び出すところを見ると、会議内容はさぞかし暗く、底が見えぬほど澱んだもの
であったのだろう。そしてその澱みの中から、欲望の脂に、もしくは意味のない流血に塗れた歪みを
拾い上げてきたのだろう。その歪みを正す為に、同じように歪んだ――非合法な力が必要なのだ。そ
れを行使する役割を担うのが十三課であるし、また、少なくとも彼はその為に存在している。
 しかし『円卓』が絡んでいるとなると、さぞかしこの仕事は悪臭を放つ厄介な仕事となるだろう。
外交だけでなく宗教、理念、そんな法だけではどうする事も出来ないような人の精神の寄る辺に政治
が絡み合い、仕事以外の面に気を配らなくてはならないのかもしれない。
 尤も彼にはそんな事を気にする必要はないのだが。
 面倒な仕事はいつもの事だ。しかし彼はただ歪みの原因を葬り去る為だけに在る。仕事の裏側に蠢
く事にまで神経を擦り減らす必要はない。それは他の人間――同僚達の仕事だろう。
 白く味気のない質素な扉に背を向け、彼は非常灯の明かりだけを受け止めている廊下に足を踏み出
した。




 巨大な円を描く十三課本部の中の廊下からは、円の中心に向かうように十三本の渡り廊下が伸びて
いる。その行き着く先、即ち円の中央には司令室を最上階に有する塔が聳え立っている。その塔には
エレベーターが備え付けられているが、最上階へ向かう事が出来るのは限られた人間だけであり、エ
レベーターにIDに登録する事で最上階の司令室に足を踏み入れる事が出来るのだ。
 その最上階に向けて真っ直ぐ垂直にエレベーター室内の光が昇った。今は失われて久しい打ち上げ
られる花火の尾のように天へと駆け上がるそれは、ただし花火のように花開く事はなく徐々に減速し、
やがて在る一定の場所で硬直する。最上階で止まったエレベーターは空気の抜ける音と共にその扉を
開き、その階唯一の部屋、司令室へと続く廊下と自らの空間を繋いだ。
 中で止まったその足元では、ようやく深い眠りから浅い夢へと意識を移行させ始めた職員の仄かな
生活光が揺らめき始めているものの、今だそのほとんどは暗い闇の中に沈んでいる。だが、それとは
対照的にエレベーター内はクリーム色の光に満たされている。だが、それ以上の光をエレベーターの
扉の先に続く廊下は放っている。
 ランプや蝋燭、安物の電球の光しか知らない庶民、或いはそれさえも遠巻きに見る事しか叶わない
貧民層が見れば、その眼は潰れてしまうのではないかというほどの光。厳格で冷然とした神が住まう
社は、もしかしたらこんな光で満ち溢れているのかもしれない。
 天井も壁も床も白一色で塗り潰され、更に遠くからでも解かるほど発光する廊下は、嫌でも眼に突
き刺さる。だがその先の、一瞬だけ人物識別の光を漏らして厳かに開かれた扉の内側からは、そんな
ものとは比べ物にはならないほど強烈な光が膨れ上がっていた。
 一切の妥協を許さない、正に神々しい光。人たる身では見る事さえ罪になりそうな光だが、それを
受ける白磁のような美貌は、ただ僅かに眼を細めただけだった。 そんな不遜な表情に、静かに声が
掛けられる。

「来たか。」

 女性の甘やかな、しかし命令する事に慣れた声が耳朶を打つ。その声に促されるように、彼――ハ
インケル・ゲーテは最上の光を放つ部屋の中に足を踏み入れた。
あらゆる色さえ失ってしまいそうに輝く世界。
 しかしその中にあって尚、ハインケルがその美貌に帯びる暗く濃い憂いは一向に消える気配はない。
むしろ、その対比によって更に憂いの色を濃くしている感がある。現に瞳に灯る光は、この輝かしい
部屋にあって一層澱みを深くしている。
 そんな彼に対して光を背負って執務椅子に座る女性はただ笑みを浮かべただけで、真っ先に口を開
きハインケルを咎めたのは、部屋の中にいるもう一人の人物だった。

「ハインケル、朝っぱらから鬱陶しい影を背負うのは止めたまえ。」

 ハインケルの剣の師であり十三課の頭脳でもある『博士』は、弟子の背後で立ち昇っている特殊効
果のような影を見て呆れたように言った。

「紳士ならばしゃきっと背筋を伸ばしたまえ。これから任務が下されるのに、そんなので大丈夫かね。」

 連日、わけの判らない発明をして徹夜続きであるはずなのに、朝から妙にしゃきっとしている博士
の声に押されつつ、ハインケルは己の上司であり、十三課の司令官でもある女性――ヴィンセントに
一礼する。

「……ハインケル・ゲーテ、お召しにより参上いたしました。」

 一礼した部下を見やり、ゆったりとした笑みを浮かべたヴィンセントは、やはり甘く穏やかな声で
告げる。

「朝早くから済まなかったな。だが、大方察しが付いているだろうし、博士も言っているように重要
な任務が入った。」

 よく磨かれて鏡のように光を反射している執務机の上に置いてある分厚い書類に、ヴィンセントは
眼を通しながらハインケルに告げる。

「ローマ教皇が、来月ミサを行う。」

 その声に、ハインケルは視線だけを動かしてヴィンセントを視界に捉える。
 教皇庁の大規模なミサについては小耳に挟んでいる。しかし来月に行われるとは言っても今月はも
う残り少ない。実質、二週間後の話をしているのだ。重要なだけでなく随分と緊急な任務だ。そう思
ったが、ハインケルは何も言わずに司令官の言葉を待つ。そんなハインケルの姿に何を感じているの
か、ヴィンセントは用件だけを淡々と告げていく。

「お前も知っているかもしれないが、実は教皇の命が狙われる事件が続いている。むろん、これまで
にも教皇の命が狙われる事は幾度となくあった。しかしどうやら今回起きた一連の事件は、今までの
事件とは若干、違うらしい。」
「……テロとは違う、という事ですか?」
「さて、どうかな。いずれにせよ、お前には教皇の護衛についてもらう。」

 ひっそりと声を挟んだハインケルに、ヴィンセントはただ笑う事で応じた。その笑みが、今回の任
務が護衛なとどいう生易しいものではない事を物語っている。ヴィンセントがハインケルに求めてい
るのは、教皇を守る事ではない。教皇の命を狙っている者を破壊する事だ。

「詳しい内容は書類を読め。」

 たおやかな手が差し出す書類を受け取り、ハインケルはその一番上の紙に書いてある文字を追って
いく。書類に一通り眼を通していく部下に、彼女は更に続ける。

「三日後、現地に飛べ。この任務に就くのは五人。そのうちの一人は博士だ。」

 ちらりと博士に向けた視線をハインケルに戻し、ヴィンセントは椅子に深く腰掛ける。

「今回は事が事だ。我らは全力を持って当たらなくてはならない。派遣員の中ではお前が最も護衛に
徹する事になるだろう。お前の事だ。心配する必要はないだろうが、気を抜くな。」

 気を抜くな。
 その忠告はいつもよりも重く、けれど妙に薄く響いた。いっそ、鈴の音かと思うくらいの漣しかハ
インケルの鼓膜に立てたそれを聞いて、ハインケルはいつものように退出の合図である一礼をする。
そしてその合図どおり、一言も口にせず、影を背負ったまま低い足音を立てて扉の向こう側へと向か
った。