「ふ……ん。結局のところ、我らもあの化石のような国に住む者達と大して変わりはないだろうに。」

 司令室に戻ったヴィンセントは先程の円卓を思い出し、苦く呟いた。
 塵一つなく掃除された部屋は眩しいほど白く、壁や床それ自体が発光しているようだ。電気は一般
の家庭にはほとんど浸透していない。大抵の家ではランプや蝋燭に火を灯し、生活に必要な光に辛う
じてありついている。電気が通っているのは貴族や官僚、或いは富と財を築く事の出来た者達だけだ。
 発電所で作られる電力には限りがあり、また、発電所自体がそれほど多くはない。そして電気エネ
ルギーに変換出来る燃料――ガソリンなどの燃料も貴重品なのだ。
 それほどまでに貴重な光をたった一人の人間の為に掻き集めたこの部屋は、正に権力の象徴だ。
 その真っ白に発光する部屋の、照り返しによって同じように真っ白に見える机の上に、ヴィンセン
トは細かい字でびっしりと埋められた書類を投げ出した。

「大切な書類をそのように扱うのは感心できませんね。」

 そのまま舞い上がるかとも思われる勢いで机に叩き落された書類の束―― 一つに纏められているが
故に机に落とされた衝撃で散らばる事はなかった――の音が静まると同時に、まったりとした男の声
がした。

「今回の任務の資料なのでしょう?となると我ら派遣員の内の誰かにその書類の複製を渡さねばなら
ない。ならば、そのように乱暴に扱うのは少々戴けませんね。」

 特に非難するような口調ではなく、むしろ午後のお茶について話すように、まったりとした声の紳
士は、正に紳士らしい穏やかさをもってヴィンセントの背中に語りかける。そんな穏やかな口調に、
ヴィンセントはいつものように甘やかな、しかし何処か固いものを孕んだ声で、判っていると答えた。

「しかし、あの連中の頭の固さには呆れる……教皇庁の連中をとやかく言える権利などないな、あれ
は。」
「他者を嘲笑する者は総じて己が同じ轍を踏んでいる事に気づかないものですよ、司令官。それに権
力を持つ者ほど、そのような傾向が高い。他人と自分は違うのだ、と。」
「博士、貴方の言うとおりだ。」

 ヴィンセントは書類を叩きつけた机の後ろ側に回り、やはり権力を誇示するかの如く豪奢な椅子に
腰を下ろし、世の常を語る男を正面から見据えた。司令官の執務机の前にあるソファーに座っている
『博士』と呼ばれた紳士は、失礼にならない沈黙で応じる。その沈黙に続けて、ヴィンセントは博士
の語った世の常を肯定する。

「全くその通りだ。連中の頭の中には相手を見下ろす事と、我らを切り捨てる事しか考えてないよう
だ。それは円卓が何度開かれても変わらない。」

 五年前と全く同じだ、とヴィンセントは言い放つ。そんなヴィンセントを、博士はただ目を細めて
眺めやった。その視線に篭っているのは同情か、憐憫か、それとも他の何かなのか。
 しかし、ヴィンセントに無意味な哀れみが不要な事は、博士も良く知っているはずだ。だからその
視線の意味を問う事もせずに、ただ無視し、もう一度、五年前と同じだと繰り返した。
 十三課を除く全ての課が、表での綺麗な姿を保つ為に、絶えず裏側で醜い部分を廃棄物として吐き
出し続けている。彼らは全て同じ、権力だけを手にしてその責を負わない無責任共だ。その投げ出さ
れた責を背負うのが十三課なのだ。超法的・非合法な手段を用いて国家に接触できる唯一の課と称さ
れているが、実際は他の課が眼を背けた薄暗い部分を担っているだけなのだ。そうでなければ、何故、
この課の存在が一般の連邦職員に知らされていないのか。それは間違いなく、総司令官を含む他の司
令官達の権力への執着とその責任を背負う事を恐れる怯懦が、保身の為に責任の所在を隠そうと蓋を
しているからだ。
 権力にしがみ付き、政治の裏で吐き出される汚物の悪臭を全て十三課に背負わせ、いつでも切り捨
てられるようにその存在を公表しない。五年前にヴンセントの父親が死んだのも、表向きには自動車
事故とされているが、実際はその責を問われての処刑だろう。そしてその父を殺すように命じたのは、
父の弟でもある、あの総司令官だ。
 まるでゴミ屑か何かのように、父を葬り去った叔父。そこには恐らく、総司令官としての自分の責
を逃れる為に、父の命によってそれを贖わせたのだろう。
 しかし―――
 ―――それは私も同じか。
 ヴンセントは、十三という数を背負う事を決めた日から、自分が下してきた命令を思い出す。そし
てその際の判断も。
 一つの命令を下す時、その際に派遣員を遣わす時、切り捨てても構わないという叔父と同じ思いが、
自分の中に渦巻いていた事が多々あった。いや、むしろ常に狡猾に部下が失敗した時の事を考えてい
る。慎重、懸命といえば聞こえは良いが、所詮はその際に部下を切り捨てる事を想定しているのだか
ら、そしてその際に切り捨てても構わないような部下を先頭に立たせているのだから、これを狡猾と
言わずして何と言おうか。
 所詮は同じ穴の狢という事か。
 形の良い柘榴のように赤い唇に自嘲の笑みを浮かべながら、彼女は今再び、叔父と同じように誰か
を切り捨てるという判断を下す『司令官』という自分を作り上げる。
 今回の任務は今までの任務とは毛色が異なる。それは教皇庁という、連邦が支配する世界において
唯一、異なる法則を持つ場所である事が多大に影響している。周囲と隔絶し、独自の進化を遂げてき
たような特異な場所。 
 そう感じる理由の最たる例は、教皇庁には派遣員を後ろから支える、或いは派遣員の起こした不祥
事を揉み消す事の出来る連邦支部がない事だ。連邦は各国に支部を必ず一つは設置している。この支
部が派遣員の本拠地となり、設置されている国と協力――悪く言えば圧力をかけ、派遣員の任務遂行
をスムーズにしているのだ。
 しかし、教皇庁には本来あるべきはずの支部がない。つまり、あの国に投入された派遣員には後ろ
盾がないのだ。不祥事を起こせば間違いなく連邦の責任が問われ、ひいてはヴィンセントの首が飛ぶ。
だからこそ、この任務は慎重に、しかし全力をもって取り掛からなくてはならない。
 当然、人選も慎重に、且つ最も効果的なものを選ばなくてはならない。
 教皇庁内部に詳しく、更に彼らとの駆け引きに長けた者。更に相手の慢心を引き出し、情報収集が
出来る者。そして何より、いざとなった時に全ての罪を被り切り捨てる事が出来る者。
 ヴィンセントの眼には、先程司令官の仮面を貼り付けた時と同じくして、冷徹で冷静な硬質な光が
灯っている。そしてその視線で目の前にいる、人類きっての頭脳を持つ紳士の細められた目を射抜い
た。博士の眼からは、もはや先程まであった『情』ともとれる気配は掻き消されている。代わりにそ
こにあるのは、己と対等の存在と認めた者への敬意の眼差しだ。その視線の意味を確かめるや、ヴィ
ンセントはこの場にいる、しかし眼に見えぬ部下の名を呼んだ。

「サラ。」

 鋼鉄を思わせる声が部屋に反射すると、その残響に重なるように恭しいく物柔らかな、しかし無機
質な女性の声が何処からともなく降り注いだ。

『お呼びでしょうか、ヴィンセント様。』

 抑揚のない、そして誰よりも限りなく忠実な下僕の声に、ヴィンセントは静かに、この日第一の命
令を下す。

「派遣員ハインケル・ゲーテを此処に呼べ。」

 甘やかな、そして容赦のない色を孕んだそれには、もう一切の情が垣間見える事はなかった。