古びた石畳が軋んだ音を立てる。
 石造りの冷え切った階段は、その先に、見つめるだけで吸い込まれてしまいそうな、言い知れぬ深
淵を閉じ込めていた。
 古代より変わらぬその空気は、流れ過ぎ去っていく事はなく、ただひたすらに、その場に蟠ってい
た。しかし、それでもなお、底知れぬ深淵とは裏腹に、此処に溜まった空気はどの世界のそれよりも、
何処までも突き抜けて澄み切り、清浄だった。
 両極面に位置する顔を持ったその空間の中に、ぽつりと光が浮かんだ。
 その光は、遥か昔、まだ空に星も月も太陽すらなかった世界が混沌としていた時代に、暗闇に閉ざ
された大地の上に落とされた、一粒の種のように揺らいでいた。
 揺らぐ光に合わせて、二つの足音が響く。それに呼応するかのように、石の階段が軋んだ声を上げ
る。
 永らく誰の足跡を刻む事のなかったその石達は、久方ぶりの来訪者に、歓喜の声を上げているのだ
ろうか。それとも、静寂を突き破り、眠りに落ちた空気を動かす事に対して抗議をしているのだろう
か。
 そのいずれかであったとしても、石畳を叩く足音は、刻む事を止めない。
 他に音のないこの空間では、不揃いなその足音は時を刻む音に酷似してくる。むろん、生物がいる
時点で、何かが動いている時点で、時間という概念は生じてくるのだが。
 その規則性のない二つの足音は、徐々に階段を降下しているようだった。
 響き続ける足音の一つは、恐ろしく整然としており、ひたすらに穏やかな足取りだった。片や、も
う一方の足音は、何かに急かされているかのように落ち着きがなく、今にも走り出しそうだった。こ
れがこのような急で暗い階段でなかったなら、間違いなく走り出していただろう。
 そんな正反対の雰囲気を醸し出す足音は、たった一つしかない光だけを頼りに、静謐な社のような
奥深くに向かっていく。
 やがて、刻まれた足音は、冷たく、冒しがたい深淵へと辿り着く。
 所々、まるで光苔のような何かが、青白い光を床に投げかけている。光の落ちた床は、先程までの
ごつごつとした石畳とは打って変わって、磨かれた鏡のように滑らかな姿をしていた。
 その、あらゆる物を写し取ってしまいそうな床の行き着く先に、白くぼやけるような扉があった。
まるで、開ける事を目的としないような――ただ、そこに飾られている事だけが目的のような――扉
は、白亜の中に様々な物語が掘り込まれてあった。正しく、神の御座へ行く為の扉の如く佇まいで。
 静かな足音は、一切の躊躇いもなく、聊かの息の乱れさえなく、扉に手を掛けた。
 重々しく、何人もの大人が綱を使って開くしかないような扉は、白くほっそりとした手が触れるや、
羽根のような軽さで開いた。擦り合わされるような音などは、微塵も無い。
 ただ、僅かの風を溜息のように零しながら、長きに渡って封印され続けていた扉が開いた。
 誰にも動かされる事がなかった空気が、掻き混ぜられる。
 凍てつきそうなほどに清浄な空気が流れ始め、息を呑む者がいた。
 それは、背後で扉が開かれるのを待っていた人物だ。不安げな足音を地面に縫いつけ、今度は棒で
も呑んだかのように立ち尽くしている。
 彼の目の前に広がっているのは、神にしか使う事が許されないほどに美しい、青白い光の粒子だっ
た。
 冴え渡る月のような光が、冷然と二つの足音を照らし出す。まるで誰かの鼓動に合わせるかのよう
に揺らめくその光は、今此処に現れた愚かな侵入者を眺めているようだった。
 神々しい光を零しているのは、部屋の壁と言う壁――当然、天井や床にも――に張り巡らされたコ
ードやパイプからだった。透明な物質で作られたそれらの中を、生き物のように光が線を描きながら
走っている。
 それらの光の行き着く先は、この場にある空気をそのまま硬化したかのような、冴え冴えとした透
明な、水晶のような結晶の中だった。 その結晶の周りを、まるで護っているかのように取り囲んで
いる銀色の金属の円に、それらのコードやパイプ全てが差し込まれており、その銀色の円形物質から
更に水晶へと光が漏れなく注ぎ込まれている。 
いや、それとも、その水晶から光が放出されているのか―――。
 ふらふらと、落ち着きの無い足音が、禁じられていた部屋の中に入る。影がぽつりと、まるで穢れ
たものであるかのように艶やかな床に落とされる。
 しかし、それでも足音は止まらずに部屋の中央――水晶が安置されている場所へ――向かう。
 首を曲げて、水晶を仰ぐ。
 ちょうど、神を仰ぎ見るかのように。
 冷徹な水晶の中には、小さな人影が浮かんでいた。
 もし、この人影にコードやパイプが突き立てられていなかったなら、或いは胸部のジャック・ポッ
トが開き、青白い輝線が幾重にも走るコアが覗いていなかったなら、それは人間――いや、神のよう
に見えたに違いない。
 そこに浮かんでいるのは、人間のように――人間よりも美しい、理想の形をした白く蒼褪めた美し
い人形だった。
 その姿を見た瞬間、不安げだった呼吸音が途切れ、そこ彼処に垂れ流した不安の分子を振り払うか
のように哄笑が沸き起こった。

「やっと……やっと見つけた!これが、我々が八年前から隠し通してきた機械人形!あの、フィレン
ツェ・ドームを壊滅させた殺戮機械か!」

 男の声が、歓喜に打ち震えて上擦った。
 
「これさえあれば、ローレンツォ卿とも渡り合えよう。くく……っ!」

 独り言のように呟かれた台詞に、彼の背後にいるもう一人の人物は特に反応しなかった。また、声
を上げている男も、背後にいるその人物の事を忘れているようだった。

「しかし、実に美しい………。この身体に、どれほどの力が備わっているのやら。これは、シモンよ
りも良いかもしれんぞ……。」

 ねっとりとした視線が、シモンという言葉を刷いた瞬間に、微かに仄暗い色を帯びた。何かまるで、
他人の庭にある林檎を羨むような。
 しかし、視線は自分には手の届かないものを羨みながらも、声は目の前にある玩具に満足している。
今にも頬擦りしそうな男の声音に、背後にいる人物の代わりに、生き物のように部屋を駆け巡ってい
た光が反応した。
 まるで、何かを咎めるかのように光の動きが止まったのだ。
 それに気がついて男が水晶を見上げると、二つの海の底のような青い双眸と目が合った。

「な………っ!」

 思わず後退りしそうなほどの圧倒的な光を帯びて、人形の瞳が男を貫いている。

「目覚めたのか………?何故………?」

 瞳を開いた人形は、不遜な男を見つめたまま、水晶の中で手を動かした。ちょうど、水晶の内側の
壁を押すように。水晶の壁は突き破られる事は無く、人形の肌に張り付いているようだった。
 それに伴って部屋を走る光の色も徐々に薄れ、光が完全にパイプとコードから抜け落ちた時には、
白い形は、人間宛らの姿で、先程いた場所と同じ場所に立っていた。ただ違うのは、人形を取り囲ん
でいた水晶が消え去っている事と、人形の身体を白い軍服が包んでいる事だった。
 目覚めた人形は、男の顔に手を翳す。その掌に、赤い渦が浮かんだ。それが熱を帯びた炎だと男が
気がついた時には、人形はそれを男に投じようとしていた。
 神が、身の程を弁えぬ人間に下す、雷の炎のように。
 しかし、それが男の頭部を吹き飛ばす前に、静かな声がそれを止めた。

「お目覚めいたしましたか………ロキ様。」

 それまで扉の前で佇んでいた人物が口を開いたのだ。やや幼さの残る女の声に、白い人形は動きを
止める。そして、視線を扉の前に向ける。

「………何故、その名を知っている?」

 人形が、滑らかに口を開いた。底から零れ落ちる機械音声には、一片のひびもない。

「その名は、五百年前に地上と共に捨てた。何故、それを高々数十年しか生きていない人間が知って
いる?」

 人形の冷たい声に、その人物はたじろぐふうでもなく、恭しく答えた。

「貴方の――貴方がたご兄弟の原本となられた方を存じ上げているからです。」

 その言葉に、人形の冷たい顔に、表情ともつかない何かが、弾指の空間を過ぎ去った。その事に、
彼女が気がついたか否か。

「………何故、此処に現れた?」
「貴方のお力が必要なのです。『火の巨人』を発動させる為に。我々に協力していただけませんか?」
「何………?」
「貴方がたの原本であらせられる方が、そろそろ『時期』だ、と仰られておりまして。その為に貴方
がたご兄弟の協力を仰いでいるのですが………弟君には嫌われてしまったようでして。」
「弟…………?」

 人形の瞳に、何かが浮かぶ。そして、一瞬置いて、口元に薄い笑みが。

「なるほど………ティルに嫌われたか。」
「はい。ティル様には、今後、もう一度協力を仰ぐといたしまして………。」
「無駄だ。」

 くくっと、人形は『笑った』。

「ティルは………あいつだけじゃない。他の兄弟も、『あいつ』には協力しないだろう。『あいつ』
とは五百年前に決別したからな。」

 笑みを口元に刻みながら言う人形に、彼女は、困りました、と呟く。

「それでは『火の巨人』が発動できませんね………。『あの方』に何と申し上げればよいものか……。」

 心底、困ったような台詞に、人形は笑みを濃くする。

「俺がいる。」

 その双眸に、濃紺色の輝きが閃く。

「どうせ退屈していたところだ。ティルの奴は目覚めているんだろう?奴と戦うのも、面白い。」
「よろしいのですか?ご兄弟と戦われても。」

 その言葉を、人形は、構わん、と一蹴する。

「俺は所詮、『裏切りの神』。奴らも十分、承知しているはずだ。特に―――。」

 『彼』の瞳が、何かを懐かしむように煌めいたのは、この闇の悪戯だったのかもしれない。その声
に、小さな愛しさが込められていた事も。

「あいつは俺の片翼。俺の事は誰よりもよく分かっているはずだ。」