「とりあえず、事態は収拾したようだな。」

 読みかけの新聞を無造作に机に置くと、ヴィンセントは呟いた。
 あの、世界を震撼させた、核弾頭発射のカウント・ダウンから一ヶ月。
 連邦内部は目も眩むような忙しさだった。それは十三課を統括している彼女とて、例外ではない。
むしろ、率先して事後処理に当たらなくてはならなかった。
 各国が秘密裏に所持していた核弾頭については、連邦が管理する事が決まり、所持していた国はこ
れから起こる制裁に備えて慌しく動いているようだった。最もこれは水面下の事で、たいした事には
ならないだろう。
 だが、それよりもなお深い水面下では、別の動きがとられていた。
 ローズ・クーパー、もとい、ジルビット・ラング。
 この二人が同一人物であるという事は、核の発射カウントが止まった直後に、ヴィンセントの私信
を通して伝えられていた。
 幸い公表されてはいないが、頭の痛いところだ。ラングは一体どれだけの情報を、連邦から掠めさ
ったのだろう。

「………ラングについての手がかりは何か掴めたか?」

 ヴィンセントは、宙に向かって声を掛ける。

『いいえ。』

 物柔らかな女性の声が振ってきた。

『現段階では、ラング博士の足取りは掴めておりません。ローズ・クーパーとしての情報も、いっさ
いございません。』

 八年前のデータを浚っても、ローズとしての情報からは何も残っていなかった。相当巧妙に『ロー
ズ』という存在を作り上げたのだろう。

「こちらについても手を打たねばならんか………。」

 ラングの後ろには何かあるようだと、部下は言っていた。その何か―それを暴かねば、十三課の名
折れだ。何より、手がかり一つ残さない巧妙さが、不気味だ。出来る限り早く、次の手を考えなくて
はならない。それには相談できる相手が必要だ。

「サラ………。」

 ヴィンセントは、部下に尋ねた。

「あの凸凹師弟は、いつ帰ってくる?」






 銀河を閉じ込めた透明な半球から、一つの光が流れ星のように分離した。そして暗い海底へ、真っ
直ぐと突き進んでいく。
 この、極東の島へやってきて一ヶ月。だが、その長さを感じさせないほど、目も回るような忙しさ
だった。過去を思い返す暇など、全くなかったと言ってもよい。
 いや―――思い出したくなかったのかもしれない。
 あの夜の事は、考えれば考えるほど、夢か幻のように感じてしまうのだ。だが、一ヶ月間の事後処
理は、あの夜の産物であるから、幻であるはずがない。
 幻であるとするならば―――
 極東の島を後にしながら、ハインケルは潜水艦の前の座席に座る背中を見る。そこには、博士が座
っている。トキオ・ドームへ来た時と同じ光景だ。彼が乗船している潜水艦も、来た時と同じもの―
――博士によって変形ロボにされてしまった潜水艦だ。
 違っている事は、この潜水艦に乗っている目的だろう。前回はトキオ・ドームへ行く為のものだっ
たが、今回は、帰還の為に乗船している。
 そして―――
 ハインケルは隣の座席を一瞥した。
 ―――もう一つ。
 隣の座席が空白だという事。
 その事実が、あの夜を希薄なものにしてしまっているのだ。
 あの夜―何も残さずに逝った白き人形。存在の残り香となるものは、いっさい現場には残されてい
なかった。
 ただ、彼はハインケルの黒いコートを連れて行ってしまった。それだけが、彼の存在を証明してい
る。
 そしてコートの代わりに、ハインケルの記憶の根幹に、消せない疼きを残していった。まるで、存
在を刻み付けるように。
 その、苦い疼きを感じながら、ハインケルは、ドライの最期の台詞を思い出す。あの、緑色の光を
瞬かせながら放たれた、慈愛に満ちた声を。
 それを思い出すと、疼きから苦さが薄れていく。ちょうど、何度も水に晒されて、薄れていくよう
に。
 窓の外を見ながら、ドライの台詞に頷く。
 あの夜、確かに鋭い苦味を感じたけれど。
 何を信じていいのか解からなくなるほど、自分を見失ったけれど。
 彼の姿を見失ってしまったけれど。
 彼の言う通り、今はまだ、別れを嘆いたり惜しんだりする時ではないのだろう。
 ―――この、水に沈んだ世界の光の波間に君は消えてしまったけれど。
 目の前に広がる闇は底知れず、明かりを手にしても一寸先は見えない。けれどいの道が再び交わる
事を、ハインケルは予感していた。
 いつか、必ず―――