彼は幾つものモニタに囲まれた、その中でも最も巨大な一つのモニタの前に立っていた。壁の前に
あるテーブルで、小さな立体映像がカウント・ダウンしている。壁一面を丸ごと一つのモニタとした
その中では、点のような光達が凄まじい勢いで駆け巡っていた。それは、情報が光に姿を変え、機械
に指令を出しているようにも見える。
 その感覚は、あながち間違っていないのかもしれない。
 億を超える数字を羅列し、光を放つそれは、大きい故にモニタのように見えるが、モニタではない。
光と数字と、そして深い闇を閉じ込めた透明な壁。その中に収められているのは、間違いなく、この
『遺跡』を統括している中枢機構だ。
 トクラ博士が、そのプログラムの初期設定に『心音の波』をインストールした、全世界のネット・
サーバーを統括する機械。一定の学習能力を備えると、自動時が作成プログラムである『心音の波』
が自発的に発動する。そして発動した『感情』は、今、世界を破滅へと連れ去ろうとしている。

「………こんな事を望んでいたわけではないだろう、トクラ博士。」

 限りなく人間に近い『感情』を機械に望んだが、そこには夢こそあれ他の私利は一切ない。だが、
それによって起こる機械の『感情』を予測出来なかったわけではなるまい。
『感情』が発動してから五百年。
 だがそれは、永久に続く孤独の始まりでもある。
 機械は死ぬ事が出来ない。そこを『あの男』に突かれたのだ。突き崩された『感情』は、五百年
という数字に押し潰され、このような暴挙を起こしたのだ。
 彼を呼ぶ為に。
 彼の手で破壊させる為に。

「いいだろう………。」

 終わらせてやろう。
 望みもしない魂を宿し、神が人間に与えた最上の安息すら与えられない機械に。
 神の代わりに死を与えよう。
 彼は、今まで幾度もしてきたように、項から接続コードを伸ばし、中枢機構とリンクした。そして
カウントが続く中、意識を電脳世界へと落とした。




 暗闇の中に光の網が幾重にも張り巡らされている。その網の上を、激しい勢いで信号が乱舞してい
る。

『中枢制御系への侵入を開始。』

 電脳世界で彼は呟く。
 直後、彼の目の前に、侵入を防ごうとする防壁が立ち上がった。それを叩き潰しながら、思考モジ
ュールに不正規の信号を流し、回路を閉鎖させる。

『………防壁を突破。』

 打ち砕かれた防壁は、無意味な信号となって光の網の上を少しだけ走り、そして途中で掻き消える。
その間にも更に深くに入り込み、あらゆる回路から中枢機構の更に中心に向かう。それを食い止める為、
彼を押し止めようと凄まじい抵抗がスパークを放つ。それを押し返し、彼は呟いた。

『思考領域に侵入。』

 光の網の深淵に。
 あらゆる信号に守られた、奥深く。そこは思考を司っているにも拘わらず、あまりに空虚で。網が
そこで切れている。それでも、きれぎれに飛び交う数字を拾い上げ、その存在を探す。数字で構成さ
れた世界で、彼は手を伸ばした。


 ―――さあ、お前は何処にいる?


 遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた。同時に、空虚だった電網世界に光の粒子が溢れる。希薄だった存
在感が、世界に繋がる。駆け巡る。
 これは何を指し示す?
 ―――見つけた。
 此処にいる。
 破裂しそうな光の中で、彼は『彼』と繋がる。そして―――

「ドライ!」

 扉が開き、電脳世界から彼を呼び戻す声が、緑色に閃いた。
 ドライは意識を浮上させ、『彼』と繋がったまま、静かに振り返った。







 ハインケルは、ただひたすらに下を目指した。
 道はよく解からなかったけれど、心臓部に近付きたい一心で、駆け巡る。おそらく、ガーディアン
でさえ入る事の許されない場所もあったのだろうが、何故かいかなる扉にも阻まれる事なく、ハイン
ケルは下降した。
 そして、過去の記憶の最奥を秘めた、冷たい扉を引いた。
 数百年間、誰の息吹も通さなかったような部屋は暗く、幾重にもモニタが張り巡らされており、宇
宙の果てのようなその中に、星の如く数字の羅列が浮かび上がっていた。正面に設えてあるモニタに
は、一際大きく壁一面を陣取っている。その中を、彗星のように光が駆け巡っている。そこまで認識
して、ハインケルはそれがモニタではない事に気づいた。それは中に巨大なコンピュータを沈めた、
透明な壁だった。
 ハインケルは、その前に立つ白い人形の名を呼んだ。

「ドライ………。」

 その声に、ドライは振り返らずに尋ねた。

「………ライミイを破壊したのか。」
「知っていたのか?」
「………中枢機構とリンクした際に、認識した。」

 そう言われて、ハインケルは彼の白い首筋に、幾つものコードが差し込まれている事に気づく。で
は、ライミイと自分とのやり取りも知っているのだろうか。

「じゃあ、核システムが移行されている事も知っているのか?」
「知っている。核システムは、中枢機構のネット管理区域に移行されている。」

 ライミイの言っていた通り、核は中枢機構と同調しているらしい。

「………今、核システムを破壊したら、どうなる?」

 ハインケルの問いに、ドライが僅かに振り返った。項に差し込まれたコードが僅かに揺れる。ドラ
イの薄氷色の瞳に、ハインケルの姿が映し出された。

「………核システムが移行した場所は、ネット管理区域だ。核システムを停止すれば、それに付随し
てネット管理区域も機能を停止する。即ち、インターネットは完全にダウンする。それに伴う機械活
動の弊害は免れない。」

 予期していた答え。
 ライミイに聞かされていた。しかし、ライミイが嘘を言っている可能性も、少しだけ考えた。だが、
ライミイは少なくともそれに関しては、操られながらも真実を言っていたのだ。

「………どうすればいい?」

 ハインケルには、何も思いつかない。
 もう、打つ手はないのか。

「そんな事はない。」

 硬直状態にあって、ドライは短く告げた。そして、再び視線を前に戻す。

「………この中枢に保存されている全データを、別のコンピュータに移行し働かせれば、ネットの麻
痺は避けられる。その後、核システムごと中枢機構を破壊する。」
「だが、どのコンピュータに移行するんだ?」

 この中枢機構の容量に耐え得るコンピュータが、何処にあるというのだ。
 これには、ドライは答えなかった。ただ黙って、近くにあるキーボードに手を伸ばす。立体映像が
カウントを表示しているその隣で、ドライの指はピアノに向かうピアニストさながらの動きで、キー
ボードを叩いている。そして、その指が唐突に止まった。
 ドライは顔を上げ、静かに言った。

「システム、応答せよ。」

 誰もいない虚空に溶けてしまいそうなその声。

 一瞬、モニタの中の、ありとあらゆる光が止まった。前方の壁の中にある、中枢機構の本体でさえ、
光の点滅を止めたようだ。

<システム、応答します>

 無機質な、恭しい機械音声が、何処からともなく呼びかけに応じた。それに対して、ドライは言葉
を続ける。

「第七番シェルター常駐『ユニバーサル・ネットワーク』統括システムの全プログラム、及び全リン
クをSJ-3-10XXXに移行せよ。」
<コードの入力にはA以上の管理者のパス提示が必要です。管理者のパスを提示してください>

 一瞬、ドライの背が震えた。しかし、それは気の所為かと見紛うほど、一瞬の事だった。次の瞬間
には彼は言葉を口に乗せている。

「管理者のパスは、宇宙連合軍大佐ティル・ラグナ。所属、管理部『第三研究所』。認証DTH-SAF40M
-5-12-13E-3TL。」
<パスを認識しました。管理者コードに従い、全プログラム及び全リンクをSJ-3-10XXXに移行しま
す>

 その瞬間、中枢機構の光が全て、ドライの首筋に繋げられたコードを通じて、ドライの機体に注ぎ
込まれる。
 溢れんばかりの光が治まると、再び恭しい声が降ってきた。

<『ユニバーサル・ネットワーク』統括システムの、全プログラム及び全リンクを、SJ-3-10XXX
に移行しました>

 その台詞を聞き終えた時、ドライの唇が、次に言う言葉を躊躇うかのように震える。そして、静か
に死の言葉を紡いだ。

「自壊コードを入力。保護規定127に基づき、自壊せよ。」
<了解しました。これより当システムは、保護規定127に基づき自壊します。ご利用ありがとうご
ざいました>

 淡々とした声が聞こえなくなった。それと同時に、立体映像の中でカウントを行っていた数字が止
 まる。そして、壁一面に張り巡らされた画面から、息絶えるように文字が一つずつ消えていく。そ
 れに伴い周囲の明度は下がっていく。最後の文字が、微かに瞬いて消えた。
 それを見て、ドライは何を思ったのか。
 彼は、光を失った機械の死骸を透明な壁越しに見つめている。そしてそのまま壁に顔を寄せ、唇を
押し当てた。

「何を………したんだ?」

 機械の葬送を行った白き処刑人形に、ハインケルは呻くように尋ねた。
 人間が――自分を含めた人間が、助かった事だけは解かった。何をどうやって、ドライが自分達を
救ったのかが、解からない。しかし、同時に取り返しのつかない事が起こった気がしてならない。
 ―――漠然とした、しかし確かな不安。
 それが、胸中を横切る。

「一体、何をした?核はどうなったんだ?」
「核は、停止した。もうない。」

 唇を壁に寄せたまま、ドライは言った。

「中枢機構は?」
「中枢機構も、もうない。」
「ネットワークはどうなったんだ?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、ドライは口を閉ざした。
 返事に窮したのか?
 どうした、と尋ねようとすると、ドライは前を向いたままハインケルに尋ねた。

「ハインケル、此処へ来た道は解かるか?」
「………何?」

 何の脈絡もない台詞に、ハインケルは怪訝そうに首を傾げる。同時に、言い知れぬ不安が一回り大
きくなる。
 そんなハインケルの思いなど全く気づかぬ態で、ドライは告げる。

「………この部屋を右に直進すれば、エントランスまで直通のエレベーターがある。それに乗って、
エントランスまで行け。そこから地上に連絡が取れるだろう。」
「何があったんだ?」

 次にドライの口から出される台詞が、意味もなく怖い。
 ドライが身体ごと振り返った。
 正面からドライを見ると、彼の首筋に突き立てられているコードは、ハインケルが思っている以上
にその数が多い。
 まるで、ドライをこの棺に繋ぎ止めようとする鎖のように―――

「………この中枢機構は、擬似感情を持っていた。」

 不意に、ドライは呟いた。

「その『感情』は『心音の波』のプロト・タイプだ。」
「………知っている。」

 ライミイに聞いた。しかし、ドライはそれを無視するかのように続ける。

「人間に近づける為に『感情』をインストールさせる。しかし、機械に死は訪れない。永久の孤独が
常に存在する。感情がある存在にとって、それは耐えられる事ではない。だから、『彼』は俺を呼ん
だ。」

 ―――破壊される為に

「核を搭載すれば、俺が動くと解かっていたんだろう。そして核を中枢機構に移行されれば、中枢機
構そのものを破壊しなくてはならないという事も。そう考えたのだろう。この機械も、ラング博士も。
そして―――」

 あの男も、とドライは独り言のように言った。
 
「誰なんだ?」

 あの男、とは。
 しかし、ドライはやはり答えなかった。

「………俺の存在を確かめようとしたのだろう。」

 そう言ってドライは、ただ静かにハインケルから遠ざかるように後退った。

「行ってくれ。」
「え?」

 突然の台詞に、ハインケルは声を上げる。何か取り返しのつかない事を、ドライは一人で進めよう
としている。

「ドライ、一体………。」
「行ってくれ、ハインケル。俺は貴方と行く事は出来ない。俺は此処に残らなくてはならない。」

 ドライは、ただ、そう告げた。あまりに淡々とした口調だったので、ハインケルは危うく頷くとこ
ろだった。その言葉を理解した時、ハインケルは先程から感じていた不安の正体を突き止めている。

「まさか、君は―――。」

 何故、その考えにもっと早く思い至らなかった?
 この中枢機構に勝る容量の機械など、この場所には、ただ一体しかいない。

「作動させるには、この棺の中にあるシステムが必要だ。俺は此処に残り、『彼』の代わりを務めな
くてはならない。」
「な………っ!」

 ―――馬鹿な。
 気がついていたとはいえ、本人の口から改めて聞かされると、思わず口から声が零れた。

「永久に此処にいるつもりか?!」

 飛び出た言葉は、酷く荒かった。しかし、それに答えるドライの声は、やはり何の感情もなく。

「………永久ではない。代わりのシステムが手に入れば………。」
「そんなものが何処にあるんだ?!」

 おそらく、ドライを超える容量のコンピュータは、今の技術では作り上げる事は出来ないだろう。
それを承知で、ドライはデータを自分に移行したのだ。此処を支配する機械を破壊する為に。
 しかし、何故、彼が永久の孤独を背負わなくてはならない?
 無責任にも任務を放棄した機械が受ける責め苦を、何故、彼が背負わなくてはならない?

「俺が、その為に存在するからだ。」

 肩を掴もうと伸ばされたハインケルの手を、ドライは僅かな動作だけで躱し、そう言った。

「俺は人間を護らなくてはならない。人間を傷つける機械は破壊する。その機械を破壊する事に何ら
かの支障をきたすのならば、その機械の持つ機能を自分に移行してでも人間を護る。それが、俺の存
在意義だ。」
「そんな存在意義………っ!」

 どれだけの理由がある?

「機械に存在意義を与えているのは人間だ。人間にしか、機械に存在意義を与える事は出来ない。我
々が、勝手に存在意義を作る事は出来ない。」

 どれほど機械が人間に近付いても―――形を人間に似せても、感情を与えても、機械は機械に過ぎ
ない。機械が機械の為に存在する事は、許されない。その身全てが人間の為に作られた物。記憶素子
の一片も、擬似神経の一本も、全てが人間の為にある。
 むろん、ドライも―――。
 ドライは再びハインケルの手から逃れる。
 だから、とドライは続けた。

「帰ってくれ。」

 この、過去の記憶を閉ざしている場所から。
 哀しい機械が、数百年も己を忘れて生き続け、そして逝ったこの場所から。
 機械と過去が眠る、この棺の中から。
 光の閉ざされた、けれど待ち人のいる、生きている海底の都市へ。
 帰ってくれ。
 一人で。
 彼はついていく事は出来ない。
 けれど。
 しかし。

「でも、君は………!」

 人間だ。
 ドライを追い詰めるように手を伸ばしながら、ハインケルは言った。ドライの中枢機構には人間の
脳が使用されている。だが、ハインケルの台詞は、その事実だけを指して言ったものではない。
 ハインケルが、ドライを人間だと言った、その理由は―――
 ドライの首筋に突き立てられたコードが、ドライがハインケルの手から逃れる度に揺れた。ハイン
ケルは、それを引き千切りたい衝動に駆られる。それを引き抜く事さえ出来れば、彼を止める事が出
来るのだろうか。
 追い詰められたドライの身体が、死を迎えた棺の支配者の墓に当たった。その透明な壁にもたれ、
ドライは呟くように言った。

「俺には『彼』を破壊する義務があった。ならば、『彼』を破壊する事によって生じる弊害は、俺が
止めなくてはならない。」

 人間ならばそうだろう。人間ならば、責任を取るのは当然だ。
 だが―――

「君がその責任を背負う必要はないだろう?」

 機械を作ったのは人間だ。ドライを自分の事を機械だと言うのなら、彼が機械に対して責任を持つ
必要はない。
 だが、ドライは首を振る。

「俺は………。」

 ドライは壁にもたれながら、仰け反るようにしてハインケルを見上げる。
 
「確かに、棺と『心音の波』の製作者は俺ではない。だが、中枢機構を製作したのは―――。」

 最後は掠れて聞こえなかった。
 ドライは視線をハインケルから逸らす。そして、俯いたまま、呟いた。
 ハインケルの手が、その肩に触れる直前に告げられた台詞は―――

「すまない、ハインケル。」

 肩を捕らえるはずの手は、ドライに届かず宙を掻いた。
 ドライの身体は、透明な壁に阻まれ逃げ場を失っているはずだ。それなのに何故、更に後退る事が
出来るのか。
 ハインケルは目を見開いた。
 ドライの背にぶつかる透明な壁。機械の死骸を閉じ込めた棺に、ドライの身体が沈み始めたのだ。

「ドライ!」

 咄嗟に、宙を掻いた手を更に伸ばし、ドライの腕を今度はしっかりと掴む。だが、その時にはもう
遅い。ドライの身体は、強い力で棺の中に引きずり込まれている。まるで、死んだ機械の代わりをド
ライに埋めさせようとしているかのように。その力は強く、貪欲にドライの身体を飲み込んでいく。
背が、肩が、髪が、唇が、瞳が、有無を言わさず飲み込まれていく。だが、ドライの身体は飲み込ま
れていくにも拘らず、ハインケルの身体は透明な壁を突き破る事は出来ない。ドライの身体しか、棺
は受け入れようとしない。

「待ってくれ、ドライ!」

 左手でドライの右手を掴みながら、もう一方の手は棺に置かれている。そして叫んだ声は、自分で
もはっきりと解かるほど、悲痛な響きを孕んでいた。掴んでいるドライの腕が、ハインケルの手を残
して、徐々に棺の中へと吸い込まれていく。透明な壁に阻まれて立ち止まるハインケルの手の中を、
ドライの腕がすり抜けていく。どれだけ強く握り締めても、それは無駄な抵抗で、白い二の腕から肘
が、手首が沈んでいく。最後に残った右手の指に、自分の指に絡めて、ハインケルは叫んだ。

「君はまだ、何も話していないじゃないか!」

 ラングの目的も、『あの方』という人物の事も。
 ―――そして何より、自分の事も。

「まだ話せないと言うのなら、俺とはまだ、自分の事を話せるほどの時間を共有していないというの
なら!」

 もう少し、その時が来るまで、待ってくれてもいいだろう?
 それに―――

「まだ、会ったばかりじゃないか!」

 あの、海底に沈んだ遺跡で出会って一週間。この一週間が短かったとは、決して思わないけれど。
 だが、絡めた白い指でさえ、無情にも手の中から零れ落ちる。
 最初は一ミリにも満たなかった二人の距離は、静かに開いていく。ハインケルの手だけが壁の外に
取り残される。

「君は………!」

 何もかもその身体に秘めたまま、去ってしまうのか。
 
「ドライ!」

 深い闇に沈み行く彼の名を呼んだ。その声だけが、壁を突き抜けてドライに届く。その時、ドライ
の薄氷色の瞳に光が灯る。
 あの時―――青が『死んだ』時に見た、あの木漏れ日にも似た緑の光が。
 その瞳の中に、今にも泣き出しそうな顔が浮かんでいた。それが自分の顔だと気づくのに、時間が
かかった。
 なんて顔をしているのだ―――。
 あまりにも情けないその顔の中にある眼には、ドライの白い顔が映っている。その口元が、微笑ん
でいるように見えたのは、幻だったのだろうか。
 水の奥深くに沈み込むように遠ざかるドライの唇が、小さく動いた。

『           』
「………え?」

 囁かれた言葉は、かなり遠くから放たれたものであったにも拘らず、驚くほどはっきりとハインケ
ルに届けられた。
 機械音声とは思えないほど慈愛に満ちた声。
 それは、青を見取った時と同じくらい、聞いた事もないくらい優しい声で―――
 世界で最も美しい人形は、その言葉を届けると、最期に一際強い光を瞳に燈すと、静かに、眠るよ
うに瞼を閉じた。そして、白く美しい顔が、青く透明な闇に包み込まれる。
 ハインケルの、触れる事すら適わない、それでも差を縮めようと壁に置かれた両手。その手の間で、
ドライの姿は遠ざかり、見えなくなった。
 ハインケルの膝が、床に崩れる。
 光の絶対量の少ない部屋で、ハインケルの視線は、白い人形を閉じ込めた機械の棺を見つめ、離さ
ない。
 見つめていた底知れぬ闇の中に、再び、システムの復旧を告げる光が点滅し始めた。暗く閉ざされ
ていたモニタの中にも、息を吹き返すように数字の羅列を並べ始める。
 だが、闇に沈んだ部屋に光が戻った後も、ハインケルは動かなかった。棺の中で慌しく光が駆け巡
る中、ハインケルは時が止まったように動かない。彼の影だけが、光に照らされて回転している。
 その背後で、立体映像が三十三秒をカウントしたまま、彼と同じように硬直していた。