生命の気配のない金属質な通路は、無機質特有の沈黙に覆われている。所々に、管制室からのエネ
ルギーとコントロールを失い力尽きたガーディアンが沈没している。墓場のような静寂の中、ハイン
ケルの足音は驚く程よく響く。
 そしてもう一つ。
 金属と金属で打ったような甲高い音。ハインケルをからかうように、ライミイは服の裾を翻しなが
ら、砂のように逃れていく。ハインケルの斬撃が、人形の足音を掠めていく。
 しかし、どれほど追い詰めても、ぎりぎりのところで躱される。だが、それにも拘らず、ライミイ
は完全にハインケルを引き離そうとはしない。笑みを垂れ流しながら、鬼追いでもしているかのよう
に、時折振り返っては逃げていく。
 がつっと、何度目かに振り下ろした刀が、ライミイの残像を咬んだ。ただの養護用人形が、何故ハ
インケルの刀を躱す事が出来るのか、解からない。

「無駄よ。」

 舌打ちしたハインケルの耳朶を優しい声が打った。見上げると、壁から突き出した梁の部分に、ラ
イミイが腰掛けていた。表情は人間より洗練された笑みが絶え間ない。

「どれだけ人間が何かしたって、無駄よ。」

 揶揄するような口調。それを見上げて、ハインケルは言った。

「別に、俺が何かしているわけじゃない。」

 何かをしようとしているのはドライであって、ハインケルではない。

「何故、ドライを呼んだ?核を発射するつもりなら、ドライを呼ばないほうが有利なはずだ。」

 ドライは核を止めようとしているのだから。
 すると、ライミイは肩を竦めてひっそりと告げた。

「私は頼まれただけ。」
「頼まれた………?」
「この場所を統括している中枢機構が彼を呼んだのよ。私は、彼が何なのかなんて興味ないわ。」

 私は私、と歌うように言った。

「私はもう、人間の作ったプログラムなんかには従わない。私は、私の意志によって行動する。好き
な歌を好きなだけ歌う事が出来る。」

 ―――貴方達と何が違うの?
 そう問い掛けるライミイの目は、人間の目をしている。おそらく禁則事項さえ外した彼女は、人間
のように人間を傷つけ、人間のように人間を憎む事が出来る。人間を殺す事に何の躊躇いさえ抱かな
いだろう。つまりそれは、人間と人形――生物と物質の境界すら飛び越えた事を意味しないか?
 しかし―――

「何故、核の発射を手助けする?」

 仮に禁忌である一線を越えたのだとしても、何故、核の発射に加担する?
 いかに人形といえど、ライミイは養護用人形に過ぎないのだ。核の爆撃に耐え得る外殻など、持っ
ていないだろう。核を発射すれば、自分自身も無事では済まないというのに。それほどまでに人間を
憎んでいたのか―――。
 そんな疑問を胸に往来させているハインケルを見て、ライミイはくすりと、けちのつけようのない
笑みを零す。

「それなら、何故、貴方は核を止めようとするの?」
「…………っ!」

 思いもよらぬ台詞に、ハインケルは絶句した。
 ―――何故、核を止めるのか。
 考えた事もない問い掛け。
 それに対する選択肢を、ライミイが首を傾げながら挙げていく。

「自分が死ぬから?」

 そうではない。この世界に身を置いた時から、命は捨てたも同然だ。

「同じ人間が死ぬのが嫌だから?」

 それも違う。他人には、さほど興味がない。ハインケルが他人を守るのは、任務であるからだ。
 では、何故、核を止めようとしているのか―――
 敢えて言うならば―――

「答えられないのね………。それなら私が何をしようと、その行動に対して理由がある必要はないわ。」

 ライミイの勝ち誇ったような声を、ハインケルは遮る。

「………るからだ。」
「え………?」

 ライミイが目を見開いた。ハインケルは、今度はもっとはっきりとした声で繰り返し告げる。

「ドライが核を止めようとしているからだ。」

 自分の為でも、人間の為でもない。
 自分と人間の為にしか存在できない、存在を許されない、あの白い殺戮人形が、核を止めようとい
ているから―――。
 それは決して、同情や哀れみではない。それは、きっと―――

「だから、俺は核を止めたいんだ。」

 決然とした台詞に、ライミイは唖然とした表情を作った。その表情は、人間よりもぎこちない。そ
して、ややあって笑い出した。だが、その声にひびが入っている事に、彼女自身は気がついているの
か。

「可笑しな事を言うのね?」

 ひび割れた声に、ハインケルは頷く。

「解かっている。」

 人間が機械人形の手伝いをするなど、無意味の極みだろう。
 ライミイは、ひび割れた声から何とか立ち直り、再び勝ち誇ったような声を繕う。

「そもそも、あの人形に核を止める事が出来ると思っているの?」
「何?」
「あの人形は、人間の為にしか存在できないんでしょう?人間の為なら何だってする。そんな人形が、
電子ネットを支配している機械を破壊する事が出来るかしら。」

 電子ネット――即ちインターネットは人間の世界に密着している。それらを支配する機械――『電
網の支配者』が破壊されれば、世界は恐慌状態に陥る事は間違いない。ドームの情報はネットを通じ
て他のドームに流れている。もしその情報を改竄、あるいは停止すれば世界は混迷するだろう。更に、
ネットによって他国にあるシステムを制御している場合もあるのだ。それらのシステムが暴走し、核
に匹敵する兵器が発射されないとは言い切れない。
 そうなれば、世界は破滅だ。
 しかし、それならば―――

「機械を止めずに核を止めればいい。」

 ドライはそれぐらい考慮しているはずだ。養護用人形が考えている事を、最強の殺戮人形たるドラ
イが考えていないはずがない。
 だが、ライミイはその美しい顔に、一層深く笑みを刻んだ。

「そうね。核システムが、ただ中枢機構とリンクしているだけならね。でも、中枢機構に核システム
が全て移行していたら……どうかしら?」
「核システムが移行………?」

 それはつまり、核を止める為には、中枢機構を止めなくてはならない事を意味している。
 ライミイは、あらゆる勝利を確信したような笑みでハインケルを見る。

「残念ね………最期の望みが絶たれて。」

 そう嘲る人形の口からは、もう、澄んだ歌声が流れる事はないだろう。

「所詮、貴方達はネットを支配している機械に弄ばれていたのよ。」
「………何の為に?」

 何の為に自分達を――ドライを呼んだ?
 ライミイを追わせ、核を発射段階にまで移行してまで呼び寄せ、それにも拘らず核を発射させよう
とするのは何故だ?

「知らないっていってるでしょう?私は彼に頼まれただけ。」
「………その中枢機構も、やはりウイルスに感染されているのか?」

 この世にあるべきではない、『心音の波』というウイルスに。
 それによって、機械らしからぬ――人間であっても理解しがたい――無意味な行為を行っているの
か。

「……それは少し違うわ。彼は最初から『心音の波』をプログラムされていたのよ。」
「何………?」

 最初から、ウイルスをデータの中に持っていた?
 ライミイは顔に浮かべていた笑みを掻き消し、今までの柔らかい口調とは打って変わった、固い口
調で言った。

「そもそも貴方達は勘違いしている。『心音の波』は、本来、ウイルス・プログラムとして作成され
たのではない。あれは、人形をより人間に近づける為のプログラムだ。より人間らしい人形――それ
を人間達は望んだ。」
「人間らしい人形……だと?」
「そう……人間のように感情を持ち、喜怒哀楽を表す機械。」

 その時、ハインケルの脳裏を掠めさったのは、数十分前に『死んだ』ガーディアン達の事だった。
己の事を人間だと信じて疑わずに、そして本来の任務と作られた感情に引き裂かれ、悲劇的に散った
彼ら。彼らの感情は、あまりにも弱々しく、彼らの全てを突き崩す齟齬を、意図も簡単に生み出して
しまうようなものだった。
 それを人間が望んだ?
 ハインケルの胸中の大半を驚愕が占め始めた時、その驚愕を硬化する台詞をライミイが吐いた。

「私は、そのプログラムのプロト・タイプ。」
「なん……だと?」
「私はウイルスに侵されているのではなく、『心音の波』そのもの。ある時期を越えると『心音の波』
が読み込まれ、起動する。そして私には感情が宿った。」

 ライミイは、ふふっと笑う。
 ―――おかしい。
 ハインケルは、ライミイに混乱が生じている事に気づいた。
 先程からライミイが言っている事は、完全にライミイの言葉ではない。その事にライミイは気づい
ていないらしく、ライミイの言葉に戻って声を吐く。

「彼を破壊しないと『心音の波』は止まらない。でもそれは出来ない。彼が破壊されればネットは停
止して世界は恐慌状態に陥る。破滅は免れない。どのみち、人間は滅びる。」

 どう、と彼女は目だけで尋ねる。

「支配される側の機械に翻弄された気分は?結局、貴方達は絶望したまま死んで行くのよ。操られて
いた事に気づかなかった貴方には、お似合いの結末だわ。少なくとも操られていた事は教えてあげた
んだもの。感謝されてもいいくらい。」

 醜く嘲笑するライミイ。
 少なくとも――そう、少なくとも、この人形は人間に近付いた。ただし、それは人間が望んだのと
は全く別の方向に向かっている。
 ライミイと青。
 どちらが人間らしいかと言われれば、ハインケルは躊躇う事なくライミイと答えるだろう。また、
それ以上の答えを持たない。
 ――人間は、あの悲しい機械達ほど美しくはない。
 ハインケルは、暫くライミイを見つめていたが、やがてゆっくりと口を開く。

「………お前はどうなんだ?」

 静かに、しかしはっきりと。
 途端に、ライミイの笑みが不自然に鳴り止んだ。

「なんですって………?」

 刹那の間に、ライミイの表情は消えている。その顔に、ハインケルは今現在、最も有効なコードを
入力した。

「お前も操られているんじゃないのか?」
「私が……操られている……?」

 ほんの一瞬ではあるが、冷ややかな硝子の眼差しに演算の光が灯った。それをすぐさま消し、眉を
寄せ、不愉快そうな表情を作る。

「そんな事あるわけないでしょう。馬鹿馬鹿しい。」

 吐き捨てるような口調は揺ぎ無かったが、ハインケルは既に彼女の中に別の自我を見出している。
その部分を、もう一度入力しなおす。

「自分で気づかないのか?他の機械の事を、自分の事のように話しているぞ。」
「やめてちょうだい。自分達が滅びるからって負け惜しみを言うのは。見苦しいわよ。」
「自分の言葉を思い出してみろ。それとも、自分の話した内容すら覚えていないのか?」

 先程、ライミイの中に見つけたおかしさ。
 『心音の波』のプロト・タイプ。
 それはライミイではない。いかにライミイが人間に近付いたとしても、所詮、彼女は日本製の養護
用人形にすぎない。遥か昔――大洪水以前に製作されたプログラムを、自分のデータ内に常駐した機
械であるはずがない。その条件を満たしているのはおそらく――。
 ドライの言ったとおりだ。
 最初から感情を発症するように『心音の波』をデータに組み込まれた機械は、ライミイの身体の中
でライミイの自我と入り乱れている。
 その機械――『彼』は――この機械の棺の主人は――『電網の支配者』の自我は、自身の中枢機構
から、逃げて逃げて逃げて逃げて――――此処にいる。

「お前も、所詮は中枢機構の自我に操られていたんだ。」

 ドライを呼び寄せる為だけに自我を与えられ、役目が終わった後は、緊急のシステム復旧用の場所
として。
 与えられた自我さえ、今、彼女の中にある自我さえ、操りの産物。
 青の――あのガーディアン達のように。

「違う!」

 初めて、ライミイが悲鳴のような声を上げた。今までの嘲りは何処にも感じられない。

「私は操られてないかいない!私の自我は、私だけのものよ!」
「けれど、それも所詮は与えられたものだろう?」

 いかに彼女が己の自我を証明しようとしても―――
 彼女のプログラムは人間に与えられたもの。
 彼女のウイルスは『彼』に――『彼』を造った人間によって与えられたもの。
 今ある彼女の自我は、そのどちからによるものであって、彼女から発生したものではない。
 彼女自身のものは、何処にもない。
 ――彼女は、いない。

「違う、私は………!」
「お前の自我は、所詮、人間に作られたプログラムの一種だ。プログラムである以上、お前は人間に
支配されているんだ。」
「違う!」
「ならば、お前の自我は何処から発生したんだ?『心音の波』か?だが、それだってプログラムだ。」

 ――彼女は、いない。
 ライミイの口が開閉した。理屈に見合う言葉が、見つからないのだろう。それが果たして、ハイン
ケルの言葉が理に適っていたからなのか、それとも、ライミイの圧縮記憶に入っている言語容量が少
ない所為なのか。それは解からない。ただ、ハインケルの言葉は、ライミイの矛盾を貫くには充分だ
ったようだ。彼女の硝子の目の奥で、演算の光が洪水のように溢れ、瞬いている。
 そう。
 どれほど人間に似せて作られようとも、感情を植えつけられようとも、人形は人形だ。それは、切
り離せない。

「私は……!わたしは……!わ……たし……は……。」

 ライミイの唇の形が崩れた。
 その弾指。
 
「ああああああああああああああ!」

 絶叫。
 刮目し、喉の奥を見せんばかりに口を開け、声を上げ続けるライミイを、ハインケルは見つめる。
 ハインケルは、その時初めて、己の言葉が人形の容量を超えた事を悟った。そして、初めて人形を
『壊した』事も。
 ―――俺が、壊した。
 声は、止まない。
 人間には有り得ぬ、その長さ。高く響き続ける音は、あちこちで跳ね返り、倍になって降り注ぐ。
それをどう止めればよいのか、ハインケルには解からない。ドライのように死の言葉を囁けばいいの
か、それとも―――?
 だが、いかなる方法を導き出しても、それを己に実行する権利があるのか?
 この人形を破壊する権利は、自分にあるのか?
 しかし、『壊れた』その姿は、見るに耐えなかった。せめて彼女が、もっと機械らしくあったなら、
このような姿になっても何も思わなかっただろうが、なまじ、このように人間に似せられているから
こそ嫌悪感は一層、酷い。人間に近い故の、おぞましさが湧き出ている。
 遂にその姿に、声に耐えかねて、ハインケルは刀に手をかけた。
 そして紫電の如き一閃。
 ハインケルの手中から放たれた刃は、叫ぶ人形を袈裟掛けに切り落とした。
 がしゃり。
 ガラスのような滑らかな切り口を見せ、ライミイの身体が、胸を境に大きく二つに分かれた。胸か
ら下の身体は、二、三回ぐらつくと仰向けに倒れ、その上に、斬られた衝撃で天井にまで跳ね上げら
れた胸像が落ちた。そして、床に打ち付けられる。
 そこから舞い上がったのは、機械の潰れる音。
 今まで、何度も聞いてきた音。
 今まで、自分が出してきた音。
 それなのに―――
 まるで初めて聞く音のように、そして決して生々しい音ではないのに、何故か今になって手に響く。
胸の辺りから何かがせり上がってくる。床に転がる人形の口は大きく開かれていたが、そこからはも
う、どんな音も聞こえてこない。それでも、あの甲高い声がまだ、辺りに反響して蟠っているよう
な気がしてならない。
 ハインケルは、今にも自分の足に触れそうな位置に落ちた人形の指を見る。そしてそれから逃れる
ように後退った。そのまま、一瞥(いちべつ)する事もなく背を向け、走り出す。
 わけのわからない感情が、全身を駆け巡っている。恐怖でも怒りでも悲しみでもないそれは―――
はっきりと、嫌悪感。
 何に対するものなのかは、解からない。
 自分自身のものなのか、人形に対するものなのか、それともその両方か。
 それとも、それとも―――
 ハインケルは走りながら、ただ一つの名を呼んだ。何故、彼の名を呼んだのかは、ハインケル自身
にも解からない。
「……ドライ。」