白々とした道路をどれだけ走っただろう。
 ドライに半ば引き摺られるようにして、ハインケルは箱庭と化した棺の中を走った。そこはもう、
かつてのような神秘さも、偉大さも、憧憬を抱くような風景も残ってはいない。そしてビルに囲まれ
た路地で立ち止まる。そこまで来て、ようやくドライは掴んでいたハインケルの腕を放した。それを
待っていたかのように、ハインケルは、喘ぐ息を整える事すらもどかしいと言わんばかりの勢いでド
ライの胸倉を掴んだ。

「どういう事だ………。」

 絞り出すようにして吐き出した台詞は、自分でも驚くほど熱く、怒気が込められていた。息が上が
っているのも、今まで走っていたからだけではないのかもしれない。
 ハインケルの緑色の瞳の向うに閉ざされている網膜には、先程の光景が赤い焦げ目をつけ、湯気さ
え上げて焼きついている。
 ドライの放った銃弾は、違える事なく青の腹腔を貫いていた。まさかドライに限って、別の場所を
撃つつもりで外したなどという事はないだろう。この殺戮人形に限っていうならば、有り得ない。ド
ライの大型拳銃の中に詰まっている弾丸は、象さえ即死させる事が可能な強装弾だ。それを腹腔に受
けて死なない人間はいない。ドライは殺すつもりで青を撃ったのだ。

「何故、撃った………?」

 理由の解からぬ怒りに、ともすれば、視界が赤く歪でいきそうだった。その視界の中央に、ドライ
の変わらぬ表情が映し出されている。あまつさえ彼は、いっそあどけないとさえ言える表情で首を傾
げる。そして形の良い唇が動いた。

「青は貴方に発砲しようとしていた。従って発砲した。」

 何か問題があるのか、と言わんばかりのドライの仕草に、ハインケルは平静と言う言葉を初めて忘
れた。口から出て行く声を止める事が出来ない。

「君は人間を傷つけないんじゃなかったのか?!」
「そうだ。俺には三大禁則事項が適用されている。従って人間を傷つける事は禁じられている。」
「それなら、何故?!」

 矛盾に満ちたドライの台詞に、嫌でも言葉は荒くなる。
 確かに青の行動は異常だった。身体が勝手に動くと、わけの解からない事を言っていた。そして発
砲しようとした。
 しかし、だからと言って殺す必要があったのか。武器を取り上げるだけで良かったのではないのか。
それ以前に、人間を傷つけないと言う言葉は嘘だったのか―――。
 自分でも何が言いたいのか解からない。無意味な疑問も数多くある。ただ、思い始めると止まらな
かった。

「騙していたのか?!師匠や俺が君を信じているのを見て、嘲笑っていたのか?!」

 口から飛び出す自分の声は、今まで聞いたことが無いくらい上擦り、そして必要以上に尖っていた。
 ハインケルには、何故自分がこれ程まで激しているのかが解からなかった。何に対しても無関心で、
何事にも距離を測るのが得意だった自分は何処へ行ったのだろう。
 それほどまでに自分は、青と近付いたのだろうか?
 いや。青が死んで悲しいのではない。悲しいと感じられる程、青は自分の中に割り込んではいない。
所詮、彼は未登録住人であり、共に行動していたのも、この中で自由に動く為の手段に過ぎない。家
族というものを持っていた彼に、小さな憧憬こそ会ったが、死を悼むほどのものでは決してない。
 人を殺される事に対する怒り? 
 それも少し違う。ドライの殺人行為を咎める権利は自分には無い。自分だって任務の上ではあるが
人を殺した事がある。発砲を阻止する為に撃ったドライと、自分の行為の間に、どれほどの隔たりが
あるというのだろう。武器を取り上げるだけで良いと考えたが、冷静な頭は、握り締めた武器だけを
取り上げる事がどれほど難しいのかを理解している。
 では、では―――。
 ドライが裏切った事か?
 しかし、ドライはハインケルに不利になるような働きをしていない。
 ならば、何故、青を――人間を傷つけた事を裏切りだと感じる?
 それに向かって『嘘を吐いた』と叫んでいる?
 殺戮の為の人形が謳う『人間を傷つけない』という矛盾で出来た陳腐な言葉に、何故、自分はこん
なに固執している?
 そしてそれが違っていた事で、何故、こんなにも傷ついている?
 傷つく?
 何故?
 もしかしたら、ハインケルは自分で思っている以上に、この機械人形の事を信じていたのかもしれ
ない。その信頼が、孤独に対するシンパシーから来るものなのか、それ以外の何かに起因するものな
のかは解からないが。
 ハインケルは、眦を決して声を発した。

「どうなんだ、ドライ!」

 見下ろすドライの顔は、降りかかるハインケルの声とは対照的に、相変わらず感情の片鱗すら浮か
べていない。そして、その口から出た言葉は。

「嘲笑う?俺は機械だ。機械にそのような感情は無い。」
「………っ!」

 ハインケルの神経を逆撫でするような、文字の羅列。

「そういう言葉を聞きたいんじゃない!」

 髪の毛を逆立てそうな勢いで怒鳴って、ハインケルはドライの胸倉を掴んだまま、背中を壁に押し
付ける。
 ドライに――機械に罪は無いという博士の言葉を、微かに残る理性が反芻しているが、初めて平静
というものを失ったハインケルには、いったん激情した心を止める術が見つからない。
 ドライは、そんなハインケルを薄氷めいた瞳に映す。その硝子の瞳が、何かもの言いたげに瞬いた
の事に、ハインケルは気づかない。そしてドライは、彼にしては珍しく、時間をかけて言葉を選び、
口を開いた。

「ハインケル、俺は………。」

 ハインケルが冷静であったなら、その機械音声に有り得ない事だが切ないような響きがあった事に
気づいたかもしれない。
 だが、その声は言葉となる事はなかった。
 撃鉄を上げる音が、その言葉を途中で閉ざしたのだ。その撃鉄は、ドライの大型拳銃のものではな
かった。
 背後で響いたその重々しい音に、ハインケルは振り返った。白い路地に出来た薄い暗がりに、人影
が落ちている。手に厳しい代物を構えて立っているのは、ローズだった。

「ローズ………?」

 思いもかけない姿を見て、ハインケルは言葉を詰まらせた。何故此処に、と尋ねようとして、彼女
の手に握られている銃の口がこちらを見ている事に気づく。
 必死の面持ちで銃を構えるローズが震える声で言った。

「ハインケル、動かないで………。」

 扱い慣れていない所為か、銃を握るその手は震え、目標を定められないでいる。だが、彼女を何に
狙いを定めようとしているのかは明白だ。そしてその眼に宿る憎しみも、くっきりと浮かび上がる。
 しかし、何故ドライを狙うのか。ドライは博士の作った護衛ロボという事で落ち着いている。いか
に彼女が人形を憎んでいたとしても、暴走もしていない他人の人形を破壊する事は許されない。

「ローズ………何を?」

 ドライを掴んでいた手を緩め、ローズに問い掛ける。ローズは昂然と顔を上げ、震える声で、しか
し吐き捨てるように言った。

「あの後、あなたの後を追いかけたのよ。」

 あの後とは、今日の午前中に起こった人形の暴走の後――つまり、ハインケルとドライがライミイ
を追いかけた後の事だろう。しかしどうやって追いかけたのだ。かなり無茶苦茶な行動を取ったのだ
が。

「列車で地下にもぐったのは確認できたわ。貨物列車が一台、駅に帰ってきていないから。何処かで
切り替えポイントに入ったと考えたのよ。そして、政府の持つ地下通路の地図をもとにシェルターに
向かったの。」

 そして、とローズは息を大きく吸い込んだ。

「ついさっき、博士から連絡があったわ。」
「師匠から?」

 ハインケルは通信機を忘れて来てしまっている。従って博士の指示を仰ぐ事が出来ずにいるのだ。

「師匠は何か言っていたか?」

 次に放たれたローズの声は、劇的な効果を上げるのに充分だった。

「さっき、イギリス、中国、及びその他の地域で――アメリカ、ロシア、フランス、オーストラリア、
インド、メキシコ、カナダ、スペインで、未報告の核弾頭全てが同時に発射体勢に入ったわ。」

 神勅の如く告げられた言葉は、ハインケルから声を奪う。 
 核弾頭は、ミヤビの言ったとおり世界中で発見されていたのだ。つまり、それだけの国が隠してい
たのだ。しかし、それを超える驚愕――発見された核弾頭が、このシェルターの中にある核弾頭と同
じく発射体勢にあると言う事実。それは一体、どういう事なのだ。

「ネットから何者かがコアの中枢機構に侵入して、コアとリンクしている軍事施設や科学研究施設の
中枢コンピュータから、核弾頭のシステムを作動させたのよ。」
「そんな……誰がそんな事出来るんだ………。」

 世界中に散らばるコアは、互いに繋がっている。しかし、各国の政府が自国のドームのパスワード
を管理する事によって、独立を保っている。従ってコアの中枢機構を開くには、そのパスワードが必
要で、仮にパスワードを手に入れられたとしても、そこから先に進むには、数多くのプロテクトを外
していかなくてはならない。それは専門のプログラマーでも、細心の注意力と膨大な知識を必要とす
る。しかも、核弾頭を発射させようとしている人物は、コアによって違うパスワードやプロテクトを、
核弾頭を保有するドーム全てから解除して、中枢機構に侵入した事になる。 
 そんな事が出来る人間が、この世界に何人いる?
 それに答えるようにローズの唇が震えた。

「博士が、侵入者のアクセスを解析したわ………。」

 震える唇は、次の瞬間、絶叫を発した。

「この人形よ!」
 火を噴くような声の意味が、ハインケルには解からなかった。
 何を言っているのだ?

「それだけじゃない!今日の大規模な人形の暴走は、ウイルスが原因だと博士が言ってたわ!誰かが、
何処からかアクセスしてウイルスを流したのよ!それも博士は解析したわ!結果は同じ……その人形
よ!その人形がウイルスをばら撒いていたのよ!」
 ハインケルは、ローズから視線を外し、ドライを見る。ドライはローズを見ている。その瞳の奥で
は、忙しなく演算の光が瞬いている。その光を覗き込みながら、ハインケルは尋ねた。

「本当……なのか?」

 生まれて初めて、声が震えた。
 ローズの熱い呼気は、ハインケルの激していた頭にじりじりと突き刺さる。何処かで冷静な自分が、
怒鳴ったらお仕舞いだと告げている。そんな事は解かっている。それを証明するかのように、ハイン
ケルの声は先程までの尖った声ではなく、むしろ懇願に近かった。
 しかし、ドライは答えない。ただ、瞳に演算の光が瞬いている。その光はまるで言い訳を考えてい
るようで、ハインケルの不信をひたすらに駆り立てる。 
 堪らなくなって、ハインケルは叫んだ。

「ドライ!」
「ハインケル!」

 ハインケルの声とローズの声が重なった。だが、ローズのほうが早く言い募る。

「博士の出した答えを否定するの?!その人形が全ての原因なのよ!」

 そして、ハインケルの記憶を掻き乱すような台詞を続けて言う。

「さっき、此処に来る途中で倒れてる人を見たわ!腹部から物凄い血が出てて、息はもうなかったわ。
打ち抜いた銃弾――その人形の銃の物だった気がするわ。その人形がやったんでしょう?!それが、
その事が何よりの証拠じゃないの!」

 ハインケルの脳裏に、禍々しいほど赤くフラッシュ・バックしたのは、先程の青の光景だ。
 そう。
 この白い殺戮人形は、既に一つ、自分達を欺いていたのだ。
 しかし、だとすれば、何故?
 何の為に核弾頭を発射させるのだ?
 彼の裏―――彼の製作者の思惑が解からない。
 答えは無い。

「ハインケル、その人形を破壊して!」

 答えを求めるハインケルに、ローズが叫んだ。

「私達には、その権利があるわ!その人形の所為で世界は滅んでしまう!」

 発射段階にある核弾頭。
 それらは後二時間と経たないうちに何も知らない人々の命を一瞬にして葬り去るだろう。そしてそ
の死神の牙からは自分達も免れない。

「さあ、早く!此処で破壊しておかないと、私達が死んだ後、もしもこの人形が生き残ってしまった
ら取り返しのつかない事になるわ!」

 ドライが核弾頭に耐えられる外殻を持つとは思わない。だが、そんな事はどうでもいい。ただハイ
ンケルは、ローズの血を吐くような叫びからドライを庇う術を持たない。
 普段ならば、ローズの根底に横たわる憎悪を呆れる事すら出来ていたのに。しかし青の倒れる姿は
未だに生々しく。だが、ハインケルの理性を麻痺せんばかりに縛り付けている鎖は、それだけではな
いはずだ。
 その鎖の正体は、一体何だ?
 ハインケルの感情を解き放った、それの正体は?
 それを見極める事すら出来ずに、ハインケルはドライを見つめる。

「ドライ……何とか言ったらどうなんだ……!」

 言い訳のように演算の光を瞬かせるのではなく、せめて否定してくれればいいものを、ドライはハ
インケルを見ずに、ローズを見つめたまま一言も発しない。まるで、今、口を開けば、動揺しきった
声が出てしまうのだと言わんばかりに。あるいは、ローズの言葉に補足する事などないと言うように。

「ドライ………!」

 最後の救いを求めるように名を呼ぶが、それは石の如く沈黙で返された。すると、ローズが再び叫
んだ。

「ハインケル!同じ間違いを繰り返すつもり?!」

 まるで、ハインケルに別の方法の救いを与えるような、鼓舞するような声だ。

「その人形が生き残れば、フィレンツェを壊滅させた時みたいに、そして八年間の眠りから覚めた今
みたいに、また世界を脅かすわ!」
「?!」

 何かが、縛られていたハインケルの理性を呼び戻した。咄嗟には解からなかったが、何かが引っ掛
かったのだ。
 ―――フィレンツェを壊滅させた。
 そして。
 ―――八年間の眠り。
 それは。

「何故、君がその事を知っている?」

 それは、博士が彼女の耳に―人形に対してテロリスト並みの憎しみを持つ彼女の耳に入らぬように、
そしてドライが破壊されるないように、ハインケルとドライに口にする事を禁じた事だ。ハインケル
は博士に言われたとおり、ドライの正体については、ローズはおろか、トキオ・ドームに来てからは
誰にも話していない。それは、博士も同じのはずだ。
 それなのに、何故、ローズが知っている?

「………博士が教えてくれたのよ。」
「嘘だ。」

 鎖が解ける。理性が、ゆるゆると戻ってくる。
 博士が機械にだけ責任を押し付けるような事を、無責任に言うはずがない。しかもこの非常事態に、
わざわざドライが聖家族教会で眠っていた事まで教えるだろうか。そもそもドライが聖家族教会で眠
っていた期間は、ドライ以外誰も知らない。博士も、ハインケルも知らない。それを何故八年間と断
言できる?
 ハインケルの手は、冷静に刀を探る。そして、ローズの言葉を待つ。
 ローズの顔から、一気に表情が無くなった。そして、能面のようになった顔で彼女は言った。

「おかしな所で頭が働くのは考えものだな。」

 嘆かわしそうな口調。その台詞には、先程までの憎しみや絶叫は何処にも見当たらず、ただ呆れだ
けが滲み出している。

「ローズ………まさか………。」

 悪夢のような答えをハインケルが打ち出すと同時に、ドライがようやく口を開いた。忙しなく瞬く
演算の光も静まっている。

「個体名ローズ・クーパーのスキャンを終了。照合開始―――終了。脳を含む全中枢神経、ジルビッ
ト・ラング博士と一致。ローズ・クーパーを国際重要手配人、ジルビット・ラングと識別する。」