ハインケルとドライは、小奇麗だが、どこか汚れた感じのするビルの一室に連れて行かれた。
 どうやら青と、全く口を開かない、いるかいないか疑ってしまうような子供の住居らしかった。白
塗りの五階建てで、汚れているように感じるとはいっても、太陽を浴び、眩しいまでに輝いている。
 青が、上に行く気はない、と言ったのは嘘ではなかったのだ。
 確かに、これほどまでの生活環境はドームでも揃っていないだろう。政府関係者が移り住まなかっ
たのが不思議なくらいだ。
 思ってハインケルは、いや、と首を振る。
 移り住みたくても出来なかったのだろう。
 此処とドームは離れすぎている。あのエレベーターを使えば直ぐに辿り着けるのかもしれないが、
未登録住人がエレベーターの存在を政府に教えるはずがない。仮に政府の中枢を此処に移したとして
も、今度は世論が許さないだろう。大きくはないが、政治家が優先的にドームに住める事が問題とな
っているのに、この場所まで政府が押さえれば、政権交代は免れないかもしれない。………それほど
の意地がこの国の国民にあればの話だが。
 それに、此処に住む未登録住人をどうするかも問題だろう。追い出す事が出来るかどうか、甚だ疑
わしい。この場所は、未登録住人のほうに地の利があるのだ。青の言うように、壁の開閉の主導権は
未登録住人側が持っているのだ。

「外には出ねぇほうがいいぜ。」

 質素とすら言える部屋に案内して、迷うからな、と青は言った。

「他の連中に見つかったらやばいしな。ま、俺から話しとくけど。」

 そう言い置いて、青は、おそらくハインケル達の事を説明しに出て行った。 
 青はああ言ったが、此処に来るまでの間、幾度となく未登録住人とすれ違ったが、彼らはハインケ
ルとドライを見ても何も言わなかった。青が一緒にいたからだろうか。だとすれば、青はこの中で、
かなり信頼の置ける立場だという事にならないだろうか。
 ハインケルは考え込みかけて、青のいなくなった部屋に沈黙が落ちている事に気がつく。
 何故だろう。沈黙が降りる事が嫌だ。今まではそんな事はなかったのに――むしろ沈黙と共にいる
事が多かったのに――今は何故か沈黙が嫌になっている。
 ハインケルは、何故だか解からない内に、ドライに話しかける。

「ドライ、人形は感知できないか?」

 ドライは頷く。

「此処にはいない。」
「まぁ、あのパスワードをどうにかしないと入れないからな………。」

 いかに暴走した人形といえど、核弾頭以上の兵器を持たなければ、あの壁は突き破れないだろう。
ただ、とドライが補足する。

「一箇所、俺のセンサでも感知できない場所がある。」
「何?」

 聞き捨てならない事を言っている気がする。

「どうやら、なんらかの障害が意図的に発生しているようだ。この中にはコントロール施設が見当た
 らない事から、おそらくそこが中枢機構なのだろう。機密情報漏洩を防ぐ為、あらゆるセンサをシ
 ャットダウンしていると推測される。」
「その為の障害か……。そこに核弾頭が設置されているのかもな。」
「その可能性は高い。」

 それで、とハインケルは表情を変えないドライに訊く。

「これからどうする?」

 人形――ライミイ――がいないのなら、此処にいる意味はない。それとも核弾頭を見に行くか。見
ても、どうする事も出来ないけれど。

「新聞記者と虚偽を述べた以上、核弾頭の存在を確認しておく必要がある。」

 その台詞にハインケルは苦笑する。

「青はその言葉を信じていないだろうな………。」
「核弾頭を確認しておく事が、今後、不利に働く事はないだろう。」
「………そうだな。師匠の任務に関係する事だしな。」

 それより、とハインケルは会話の終了を恐れるように話題を変えて、会話を続ける。

「この子はなんで此処にいるんだと思う?」

 ハインケルの視線の先には、あの、一言も口を利かない子供が、何やら正方形の紙を折り畳んで遊
んでいる。何をしているのか、さっぱり見当も付かない。
 耳打ちされたドライは、実に的確な言葉をハインケルに与えた。

「離れていても、その程度の音声は感知できる。」

 そして続ける。

「ここが住居なのだろう。彼女が此処にいる事に何も問題はない。」
「青と暮らしているのか?」
「本人に訊いてみるのが妥当だ。」

 俺に訊いてどうする、と言わんばかりのドライの台詞。もっともであるが、ハインケルは別に子供
と話をしたかったわけではないのだ。子供が見張りか何かだという疑いがなかったわけではないが。
ただ、それ以上に沈黙にしてしまうのが嫌だっただけだ。
 だから、再びドライに尋ねる。

「……あれは何の遊びだ?」
「あれは大洪水前からこの国に伝わる遊戯の一種で『折り紙』という。基本的には正方形の紙を折っ
 て、様々な形を作る事を目的とし………。」
「………。」

 何故この人形は、こんなどうでもいい事を知っているのだろう。彼と同じ兵器人形が、極東の島国
の遊びについてなどインストールしているとは思えないのだが。

「先程の質問は良いのか?」

 『折り紙』とやらの説明を終えたドライが訊く。

「貴方が百六十八秒前にした質問だ。彼女に訊かないのか?」
「………。」

 この機械人形は結構しつこい。
 どうでもよい質問なのだが、他にする事もない。それに、低いが見張りだという可能性――そして
ハインケルとドライの会話を聞かれている――もあるので、子供に声をかけてみる。が、返事はない。
というか、こちらを見る事すらしない。

「………。」
 ハインケルはドライを見る。ドライはそっぽを向いた。最強の機械人形も、子供の扱いに関しては
プログラムされていないらしい。それでも一言、言い放った。

「脳、脊髄を含む神経、及び身体に異常はない。」

 つまり、怪我や病気で喋れない、という事ではないらしい。

「発声しないのは、命令、拒絶、或いは心理的要因のうちのいずれかだ。」

 補足して、ドライは今度こそ黙った。

「ええと………。」

 助ける気など欠片も見せないドライと、いっこうにこちらを見てくれない子供を見比べ、ハインケ
ルは言葉に詰まる。沈黙に落ちるのが嫌なだけだったのに、何故こんな事になったのか、解からない。
これなら沈黙のほうがましだった。下手に他人に関心など持つべきではない。
 途方に暮れたまま、時間だけが無為に過ぎていく。
 博士が見れば、困りきった弟子を珍しがっただろう。自分の美貌を冒涜するような状況に陥ったハ
インケルは、最終的に、やはり傍らの殺戮人形に視線を送る。優秀なセンサを誇る彼だ。ハインケル
の憂いを帯びた熱い視線に、気がつかない筈がない。
 が、その、聖女ですら悩殺しそうな視線は、最も美しい殺戮人形には効果はなかった。
 最も美しい殺戮人形は、ただ静かに忠告した。

「そもそも、貴方の使用している言語を理解しているのか?」
「…………!」

 ハインケルは思い出す。
 最初に会った時、青はこの子供に日本語らしき言葉で話しかけいたではないか。つまり、喋れると
か以前の問題であったのだ。つまり、ハインケルとドライの会話にしても、本当にただ聞いていただ
けだったのだろう。
 己の迂闊さ加減に、ハインケルは稲妻の直撃を受けたが如く硬直する。
 どれほど固まっていただろう。
 青が帰ってきた。
 青は、石像と化しているハインケルを怪訝そうに見る。

「どうしたんだ?」
「いや………何でもない。」

 力のないハインケルの言葉に、青は、そうか、とだけ答える。

「それより、飯はどうする?俺らは今から昼飯なんだけど。」

 言われて、ハインケルは朝から何も食べていない事に気づいた。ファースト・フード店に行ったも
のの、彼の好みではなかったため何も食べず、しかもその時に人形達に襲われたのだ。
 青が、何を考えて自分達を此処に置いておくのか解からないし、何を食べさせるつもりなのか解か
らないが、ファースト・フードでも何でもいいから何か胃に入れておく事に越した事はない。

「俺には必要ない。」

 不意に、ドライが立ち上がり背を向けた。

「貴方は栄養補給が必要だろう。」

 彼はハインケルを肩越しに見て、部屋を出て行こうとする。その背に、ハインケルは当たり前すぎ
る疑問をぶつける。

「何処へ行くつもりだ?」

 返ってきた答えは短かった。

「屋上だ。」

 言い捨てて、白い背は扉の奥へと消える。硬質な足音が、閉じられた扉の向こうでドライが遠ざか
っていく事を告げていた。
 変な奴、と青は呟く。しかし、どうやら逃げるとは思っていないらしい。そう聞くと笑って答えた。

「だって、此処から出るにはパスワードが必要なんだぜ。」

 そうだった。
 ハインケルは舌打ちする。さっきからどうも迂闊すぎる。空腹の所為だろうか。
 じゃ作るか、と青が台所へ向かった。