遠くで、何かが爆ぜる音がした。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 ハインケルは、ゆるゆると上半身を起こした。そして、辺りを見回す。
 赤暗い。
 周囲を見回して、彼はそう思った。
 深淵のような闇の中を、妙に毒々しい赤を放つ炎が照らしているからだろう。
 そして、見回す眼を、柱にぶつかり、へばり付き、へしゃげている列車の残骸で止める。先程の爆
ぜる音は、今だに赤く燻り続けている機関室から、時折声高に響くものだった。
 ゆっくりと身体を動かしてみる。
 着地した時に付いたらしい掠り傷は、無防備な顔や手にはあるものの、服で覆われていた部分では、
辛うじて上着を襤褸雑巾に変えるに留まり身体には届いていない。とは言え、全身が痛みに不平を述
べているのは事実で、見なくても痣が出来ている事は疑いようもない。
 そこまで考えを発展させ、ハインケルは自分に連れがいた事を思い出す。
 白い機械人形。
 痛む首を大きく動かし周囲を見回すが、光源が爆破の残滓しかないという事もあって、それらしい
姿は何処にも見えない。
 気配を探ろうにも彼は機械だ。生身の存在が放つ気配など、持つはずもない。それに戦闘用人形で
ある彼が、このように何があるか解からない場所で、下手に物音を立てる事など考えられない。
 それでも念の為、ハインケルは気配を探ってみた。
 すると、予想に反して気配があった。
 今、ハインケルがいる場所は、かつての駅だ。その証拠に埃の溜まったホームに白線が残っている。
その白線を眼で辿った先にある柱の傍らに、ぽつりと薄く影が落ちている。
 ハインケルは無意識の内に、刀を握ろうとする。
 あの影は、ドライのものではない。
 ドライが気配などを放つわけがないし、何処かで本能のようなものが、あれはドライではないと、
そう訴えている。
 が。
 探る手の先に、刀はなかった。
 ぎくりとして改めて周囲を見回すと、列車の残骸の下に棒状の物が見えた。おそらく列車から飛び
降りた時に放してしまったのだろう。
 ハインケルは、刀と影の距離を測る。相手に動きはない。
 ハインケルは、影を睨みつけていても意味がないと決断を下し、刀に手を伸ばした。身体が痛んだ
が、何故か気にならない。その間も、視界の隅には影を入れている。そして、刀を腰に引き寄せ、鯉
口を切る。呼吸を整え、影に眼を凝らした。
 影がゆらりと動いた。
 しかし、それはハインケルが予期したような動きではなく、何かに怯えるような、ゆっくりとした
動きだった。ちょうど、小動物が肉食獣の動きを探ろうとする動きに似ている。
 影の中に、小さな足が見えた。その足が、影の上に転がっていた瓦礫の破片を蹴った。かつんと音
を立てて、それは転がり、ハインケルのもとに届く。
 ハインケルは、影の上を見た。ハインケルの視線を受けて、咎められたかのように、ぴくりと動き
が止まった。
 小さな影。小さな足。そして小さな身体。その小さな表情いっぱいに、目を見開いている。大きく
潤った双眸には、ハインケルがくっきりと映っていた。

「子供…?」

 ハインケルは拍子抜けしたような、驚いたような声を上げる。そして、刀の柄を握る手をどうした
ものかと迷う。
 目の前にいるのは、泥と埃で煤けた服を着ている、まだ十歳にも満たない子供だ。ベレー帽のよう
な物をかぶり、その下の瞳は震えている。
 しかし、とも思う。このような場所に子供がいるのはおかしい、と。 
 どうしようか迷っているうちに、硬い規則的な足音が闇の中から聞こえてきた。ハインケルの、何
処か間の抜けた思考は中断された。子供も身を竦ませ、足音のする方向に視線を彷徨わせる。その表
情は怯え以外の何物でもない。
 ハインケルは迷い始めていた刀を握り直す。が、すぐに手を放した。

「ドライ!」

 規則的な足音。
 そんな歩き方をこんな場所でするのは、過去の兵隊の亡霊か、此処を秘密基地にしている軍人か、
ドライくらいのものだろう。
 案の定、闇の中に、自分が倒れている間に何処かへ行ってしまっていたドライの姿が浮かび上がる。
今更の事ながら、ドライの姿はよく映える。特に闇の中だと身体が発光して見える。
 ドライは硬直している子供の横を素通りし、ハインケルに歩み寄った。白くぼんやりとしたその姿
を見て、ハインケルは少し恨みがましく言った。

「何処に行っていたんだ?」

 言い終えてから、彼は自分の台詞と、それに込められた口調に少なからずとも驚く。
 何故そんな事を言ったのか。別に置いていかれようとも構わないはずだ。確かに博士からの命令で
ドライから眼を離さないように言われている。しかし、こうして戻ってきたのだから、特別に何か言
う必要は無いはずだ。ましてや恨みがましくなど。
 それとも、何かを期待していたのか? 
 ならば何を期待していた?
 解からない。
 自分を分析しようとしているハインケルに、ドライは抑揚なく告げた。

「人形を追跡していた。」

 ドライは淡々と、ハインケルの言葉の持つ意味のほうに答える。

「銃弾は全て撃ちつくしたようだが、それでも危険性はある。現に列車の運転手を殺害している。」

 そして、と彼はハインケルの恨みがましい口調のほうに答える。

「貴方を放置して行ったのは、目立った外傷もなく、心拍、脈拍、及び脳波に如何なる異常も見られ
 なかったからだ。従って、付き添う必要性はないと判断した。」
「俺の身体に異常は無くても、この場所が危険だとは思わなかったのか?」

 やはり、どこか恨みがましい。
 何故だ。

「だから戻ってきた。俺は貴方から五百二十六秒しか離れていない。」

 十分も離れていないのだから何を怒る必要があるのだ、とドライは言っているらしい。別に怒って
はいないが、しかし、十分以内に、子供とはいえ何者かがハインケルに近付いてきた事は覆しようが
無い。
 ………やはり恨みがましい。
 ハインケルは、自分でもよく解からない恨みがましい言い方に溜息を吐く。
 その時、ずずっと後退る音がした。ハインケルが視線を動かすと、先程の子供が怯えという文字を
顔に張り付かせたまま後退し、そのまま背中に柱をぶつけた。そのまま放っておくと逃げ出すだろう。
そして、ハインケルが声を掛けようとした途端、薄汚れたピンク色の服を翻し、子供は走り去ってい
った。
 埃が舞い上がる。

「まさか、未登録住人か?」

 ハインケルは、闇に溶け込んだ背中を凝視しながら言った。
 このドームへ来る途中、博士と話した、身分証明書を持たない住人。世界に住みながら、その姿は
過去の亡霊に等しい。過去の存在であるが故、彼らはこのような過去の空気を閉じ込めた場所でしか
生きられない。
 そうか、と、ハインケルは今だ燻る列車に眼を遣る。

「衝突の音を聞いて此処に来たのか。」

 確かに、あれだけのスピードで、ブレーキなしで突っ込んで衝突し、挙句の果てには爆破までした
のだ。音が響かないほうがおかしい。

「大人を連れてくるかもな………。」

 そうなるとやっかいだな、と呟きながら、ハインケルは立ち上がる。やはり身体は痛いが、ドライ
の言うとおり、大きな怪我はしていないようだ。ある意味、運が良いと言えるのかもしれない。こん
な所に放り出されて人形を追い回す時点で、運も何もないと思うのだが。

「此処を離れたほうがいいな。此処に住む彼らは、俺達に好意は持っていないだろう。」

 その台詞にドライは頷く。

「標的物は、この駅の地下街を通り、更に地下へ進んだようだ。」
「地下………。」

 ハインケルは呟き、そして眉根を寄せ、根本的な事を思いつき尋ねた。

「つかぬ事を訊くんだが、俺達は何処にいるんだ?」

 古びた駅のホームには、場所の手掛かりと思しき物は何も無い。駅名を告げる立て札も、大きく剥
げ落ちてしまっている。
 だが、さすがと言うべきか、ドライは短く答えた。

「旧東京湾地下だ。」

 ドライはあっさりと言ったが、その台詞にハインケルは凍りついた。

「東京湾だと………?じゃあ、この辺りは大洪水の時に作られたシェルターの近くなのか?」
「そうだ。この駅は、シェルターへ向かう人間が乗り継ぎの為に使用していたものの一つだろう。」
「そんな事はどうでもいい。核弾頭はシェルター内で発見されたんだろう?」

 核弾頭が発見されたシェルター。
 それは大洪水時に作られた物、つまり旧時代の遺跡の一つである。
 中は広く、未開の場所も多数残っており、最も重要視されている遺跡の一つだ。その中の施設の一
つである科学研究所で核弾頭は発見された。だが、未登録住人の隠れ住む場所でもあるにも係わらず、
核弾頭は今だ撤去されていない。
 その理由として、一つは核の情報が絶対的に不足しており、撤去の仕方が解からない解からないと
いう事。もう一つは、シェルター内、及びシェルターへ行くまでの道のりが入り組んでいる事にある。
どうやら、シェルターの何らかの施設のコンピュータと、トキオ・ドームのコアの制御装置はネット
上でリンクしているらしく、核弾頭のシステムを確認できるのだが、地下道については政府関係者で
すら、時折点検に行く為の道以外には把握できていないのだ。あちこちに出入り口があり、入り組ん
でいるのだ。現に、ハインケル達の入ってきた旧地下鉄が繋がっている。
 つまり、この地下通路は十本あるか解からない地下通路の一つという事だ。そして、人形は更に地
下へ向かっているという。地下の最下層にあるのは、シェルターだ。

「これは偶然か?」

 ハインケルは、嫌な想像に呻いた。

「まるで、俺達を核弾頭の場所に連れて行こうとしているみたいだ。」
「それは、あくまで推論の域を出ない。」

 ドライはハインケルの想像を一蹴した。

「人形に意志ない。意志のように見えるそれは、所詮はプログラムだ。仮に暴走した人形が何らかの
 意味を持って行動するのならば、その暴走はハッキングによる暴走であって、その行動に人形の意
 志は無く、あるのはハッキングした人間の意志だけだ。あの人形がハッキングにより暴走している
 のだとしても、ハッキングしている人間が、何の為に我々を核弾頭の所へ連れて行くのかが不明だ。」

 珍しく長い台詞を吐いたドライを、ハインケルは眼を丸くして見る。そんなハインケルに、ドライ
は一番肝心な事を告げる。

「そして何より、その人物は何故、核弾頭の事を知っている?」
「あ………。」

 言われてハインケルは気がついた。人形に意志があろうと無かろうと、ハッキングされていようと
されていまいと、核弾頭のある場所を知らなくては連れて行くも何も無い。核弾頭の事を知っている
のは政府高官の数人と、自分達しかいないのだ。

「そうだったな………。」

 つまり、これは偶然という事だ。

「いずれにせよ、嫌な偶然だ。」

 ハインケルは呟く。
 しかし、偶然であるならば、何かを勘繰る事もない。そう思って頭を一つ振り、ハインケルは再び
ドライに尋ねた。

「それで、何処へ行けばいいんだ?」
「駅地下街だ。そこからシェルター方面に向かっているようだ。」
「確かに偶然みたいだな………。シェルターに行くのなら、線路を辿るのが一番確実だからな。それ
 とも、最短距離で行ってるのか?」
「不明だ。」

 ドライはハインケルを振り返る。

「速やかに移動する事を推奨する。俺のセンサの捕捉領域から捕捉対象が外れる。」
「そうだな………急ごう。」

 ハインケルは、先程まで子供が隠れていた柱を通り過ぎ、地下街へと開いた階段に足を伸ばす。階
段の下は、黒く深い。ライトなしで行く事は躊躇われたが仕方がない。ハインケルは、ライトどころ
か博士と連絡を取り合う為の無線機も、ホテルに置いたままにしている。
 いざとなったら、ドライがどうにかしてくれるだろう。
 そんな甘い考えに、ハインケルは再び自分の行動を読めなくなる。そんなふうに、誰かがどうにか
するなどと考えた事が、今まであっただろうか。
 しかし、この時も思考には邪魔が入った。
 ハインケルは階段に踏み出しかけた足を止め、飛び退った。ドライも銃を掲げる。

「長居をしすぎたな………。」

 早く立ち去ったほうかいいと言っていたのに。
 ハインケルは長話してしまったと思い、苦く笑う。
 視線の先の、一段と濃い闇の中が丸く切り取られている。その光輪は、階段の一段一段を舐めるよ
うに揺れている。そして唐突に素早く動き、ハインケルとドライを輪の中に閉じ込めた。