目の前に、白く細い腕が力無く投げ出されている。ほっそりと長い指には、形良く整った爪が貼り
付けてある。これ以上何か手を加えたら、逆にその美しさを損ねてしまうだろう。
 しかし、その完璧な理想の腕には今、鎖が繋がれている。
 休眠状態に入っているのか、瞼を閉じた白い人形は眠る人間の姿に酷似している。
 八年前の悲劇の元凶である人形、SJ-V―――ドライは、長い睫毛の縁取る瞼を穏やかに閉じて、
作業台の上に横たわっていた。
 五日前、変形した潜水艦に乗って本部に戻った後、博士はすぐさまドライを研究室に連れて行き、
その身体の修理を始めたのだ。ハインケルがつけた腹部の傷が、内部器官にかなりの損傷を与えてい
たのだ――無論、軽症であったとしても修理は必要なのだが。その時、ドライの白い身体は、流れ出
た皮下循環剤で赤く染まっていた。潜水艦内で応急処置を施しはしたが、当然の事ながら根本的な解
決にはならない。
 修理をする際、博士はその体内に感嘆していた。そして、小柄である事はこの場合、マイナスには
見られない、と言った。これだけの技術を詰め込めたのだから、と。
 博士の頭脳とハインケルの拙い手伝いによって――前者のほうが割合が多い――ドライの傷は、今
は完全に塞がっている。しかし、ドライは修理のため横たわってから、一度も動かない。

「人間に見えるわね。」

 動かない人形をみて、ハインケルの後ろに立っていたエスメラルダが、万人がそう思うであろう感
想を、代表して言った。

「壊す事を躊躇うくらい、人間に見えるわ。」

 人工皮膚であるにも関わらず、その白い肌は、赤い皮下循環剤を血管のように透かしている。毛髪
の一本一本まで克明に再現され、機体を支える軸の部分は、骨格に似せて作られている。何よりも、
その体格はバランスが良く、総てが端正、としか言いようが無い。
 この完璧な『人間』の姿を、腹部だけとはいえ修理できた博士の頭脳、及び技術は『博士』という
呼称に相応しいだろう。しかし、これを一から作り出した製作者は、神にでもなった気分だったので
はないだろうか。
 およそ、人間の望む理想の姿を与えられた人形は、作業台の上に横たわったまま、ぴくりとも動か
ない。それを黙って見ているハインケルも、微動だにしない。しかし、やがて憂いを帯びた声を口に
乗せる。

「彼は、処分されると思うか?」

 本来ならば、処分されてしかるべきだろう。過去に数千人の死者を出した惨事の原因だ。解体され
て、その中で使える物はリサイクルされ、メモリは完全に消去されるべきなのだ。

「普通の機械なら、処分は当然の事だろう。だが―――。」
「彼の生体部品の事ね。」

 ハインケルは、エスメラルダに背を向けたまま頷く。

「博士の言うように、彼の中枢演算機構に人間の脳が使われているのなら、処分以前に―彼が大惨事
を起こしたという事実以前に、その存在自体が問題視されるわ。倫理、道徳……どんな言葉を使って
もいいけれど、世間は、それらを使って騒ぎ立てるわ。」
「いずれにせよ、処分の可能性はあるわけだな。」

 宗教家や、道徳ぶっている連中は、この存在を許さないだろう。機械と人間の差は、歴然とされて
いるべき物であり、その狭間の存在など、在り得ないからだ。
 ――いてはいけないものの存在など、保証されない。
 仮に彼の存在を、機械か人間に分類したとしても、結果は同じだ。機械ならば危険視され処分され
る。人間と――まず無いだろうが――見られても、殺人、及び器物破損の罪で処刑されるだろう。
 どんな存在であったとしても、決して許されない。
 だが、エスメラルダは、はっきりとした答えを避けた。

「さあ……。どうかしら。今は私達の所にあるんだし、司令官が何と言うかに決まるんじゃないかし
ら。それに、ラング博士の事もあるし、八年前の事件の解明の事もあるし。いずれにせよ、こういう
機械関連の事では、博士の意見が重視されるでしょうね。」

 どうしたの、とエスメラルダは不思議そうに――何処かからかうように――訊いた。ハインケルは、
何が、と訊き返す。

「だって、ずいぶん彼の事を気にするじゃない。」

 エスメラルダの声からは、笑みさえ零れている。

「あなたが、何かに興味を示すなんて珍しいわ。いっつも、そうやって影を一身に背負ってますって
感じだもの。あなたが感情を表す相手は、博士ぐらいのものでしょうし。」
「彼に対する興味は、一般人が示す興味のうちさ。特別なものでもない……。」
「一般人の示す興味すら表さないのが、あなただもの。」
「……彼は八年前の事件を起こしたんだ。興味も出るさ……。いつ暴走して、俺が破壊しないといけ
なくなるか、判らないからな。」
「まあ、ね。破棄ではなくて、彼が暴走した時は、破壊に変わるからね……。その時は、あなたが破
壊しないといけないものね。いずれにせよ処分については、博士が……。」
「僕がどうかしたかね?」

 突然、部屋に立ちこめていた沈鬱な雰囲気を払拭するような声が、現れた。

「師匠………。」
「博士。」

 ハインケルとエスメラルダが同時に、声の持ち主の呼称を、それぞれ馴染んだもので呼んで、エス
メラルダは主人公の登場を待ち侘びていたかのように博士を見た。そして博士に司令官への報告につ
いて尋ねる。

「如何でしたか?司令官の見解は?」

 博士は、ひどいものだよ、と零した。 

「どうしたのです?」
「潜水艦の改造費の請求書を、僕宛にするっていうんだよ。」
「………。」

 エスメラルダは正当性の欠片も無い愚痴に押し黙る。そもそも先程の質問は、ドライの身の振り方
について尋ねたものであったのだが。
 エスメラルダが黙り込んだ後で、ハインケルが、だるそうに見えるほど優雅な仕草で博士のほうを
振り返る。

「ああ、ハインケル。彼の面倒、ごくろうだったね。」

 特に面倒など見ていないのだが――ただ見ていただけ――ハインケルは博士に対して、礼儀正しく
一礼する。
 博士は、相変わらず憂いた影を演出効果のように背負う弟子の横を通り、作業台の前に立ち、白い
人形を見下ろす。

「トキオ・ドームに行く事になったよ。」

 誰に言うとでもなく、博士はぽつりと呟いた。

「日本へ、ですか?」
「うん。アジア初の人形の暴走があったらしい。」

 君も行くんだよ、と博士はハインケルに言った。

「俺も………?」

「そう。任務内容については、おいおい話してあげるけど、最初に現地の派遣員と接触する。」
「日本の派遣員というと、ミヤビですね。」
「だけじゃない。」

 博士の口調に、微妙な変化があった。それに気づいたのはエスメラルダだった。

「確か先月、麻薬ルートの壊滅のために一人の派遣員を日本に投入しましたね。」

 博士は頷く。

「彼女が、まだ、帰ってきていないそうだよ。日本で人形が暴走してから。まあ、彼女は機械人形の
暴走に対して敏感だからね。」

 そこまで聞いて、ハインケルは誰の事を話しているのか解かった。

「ローズ・クーパーが、日本に?」
「いるみたいだね。何が何でも、暴走している機械人形を根絶やしにしようとしているらしいね。」

 そこで、と博士は人差し指を立てる。

「さし当たって、君の最重要任務は彼の護衛だ。」
「彼?」

 誰の事だ?

「彼。」

 博士は、立てた人差し指をそのまま作業台へと移す。ハインケルの眼も、それを追う。作業台の上
にはドライが横たわっている。

「何故!?」
「彼の事がばれたら、彼女は間違いなく彼を壊すよ。だからに決まっているじゃないか!」
「そうではなく、何故、彼を連れて行くんですか!?」
「彼が僕に任せられたからさ。」

 何故か胸を張って博士は言う。

「彼女は八年前の被害者だ。彼と会うのは非常にまずい。だから君が彼を守るんだ!この理論の何処
に矛盾があるのかね!?」

 最初っから矛盾しているだろう。ハインケルがドライを守るという部分から。
 有り得ない。
 くどいようだが、ドライは八年前、他の九体の兄弟機と共にフィレンツェ・ドームを壊滅させた殺
戮人形である。それを、人間であるハインケルが守る――これほどおかしな事があろうか。
 それを指摘するかのように、休眠状態にあると思われていたドライが口を開いた。

「不要だ。」

 長い睫毛が縁取る瞼が開かれ、薄氷のような瞳の奥で演算の光を一瞬明滅させ、彼は身を起こした。

「機械に護衛は必要ない。」

 感情はこもってないが、きっぱりとした機械音声に、起きていたのか、とハインケルが言う。
 
「起きる?機械は眠らない。起きるという言葉は不適切だ。」

 滑らかに上半身を起こし、ドライは眼だけを動かしハインケルを見る。揚げ足を取っているかのよ
うな台詞だが、本人はいたって真面目だ。

「不要だ、と言われてもね。」

 博士は、再びハインケルからドライへと視線を移す。

「彼にしてもらいたいのは、別に護衛というだけではないんだ。今、君を失うわけにはいかないから
ね。見張りの意味も兼ねている。」

 君が逃げるなんて思っていないけどね、と続け、博士はもう一度、ハインケルを見た。

「さあ、準備をしてきたまえ。時間は待ってはくれないよ。出発は明日だ。」
「明日!?何故、そんなに過密スケジュールなんです?」
「別に過密ではないよ。今から出発なんて事言ってないだろう?ほら、時は金なりと言うだろう。お
かしな事言ってないで、さっさと準備する。明日、午前六時に第五ドッグに集合だ。潜水艦『トリト
ン』で行くからね。」

 『トリトン』とは、先の任務で変形した潜水艦の名前だ。
 あれで行くのか、とハインケルは頭が痛くなる。今度の任務では頭痛薬を持っていくべきなのかも
しれない。