海底には崩れかけ、泥を被(かぶ)った町並みがほぼ完全な姿で残っていた。違う事といえば、住
 んでいる種族が人間から魚に変わった事ぐらいだろう。

 『聞こえるかね、ハインケル。』

  博士特製ウェットスーツに仕込まれた、防水加工済みのイヤホンから博士の声が届く。

 『聞こえています。』

  泳ぎながらハインケルは自分の呼吸音を聞きつつ答える。耳に入るものといったら、イヤホンか
 らの声と、それぐらいしかないのだ。真の海底はそれほど無音の闇に近い。
  潜水艦のヘッドランプが照らし続けていた泥まみれの道が広がり始めた。過去は観光名所で、今
 現在は自分達の目的地である教会に近付きつつあるのだろう。

 『ハインケル、連中は侵入者にはすぐ気づくだろう。ラング博士の事だ、防犯システムは完璧だろ
 うし、彼には弟子でもあるサイボーグが数人ついている。それに機械人形だってたくさんいるだろ
 う。普通に攻めるのは無理だ。仮にすぐばれるにしても、ばれない時間を少しでも長くする必要が
 ある。』

  呼吸音に混じって博士の声が淡々と言葉を紡ぎ、海底に流れ出る。

 『最初に屋根の部分を爆破する。次に正面玄関の一つ―受難の門と呼ばれている場所を爆破する。
  そこから僕が突入する。けれど連中だって馬鹿じゃないさ。最初が囮だって事ぐらい気づくさ。
  だから、最初の場所は手薄になる。』
 『ならなかったら?』
 『知らないよ。そこから君が突入するんだから、そこは君がどうにかしたまえ。』
 『……。』
 『解かっているね。第二の爆破音と共に第一の爆破場所から突入するんだからね。それまでは見つ
  かって はいけない。けれど突入に時間をかけてもいけない。ぐずぐずしていると、警備はもっ
  と厳しくなる。だから素早く行うんだ。その為にスクリュー付きウェットスーツなんて物を開発
  したんだよ。』
 『……。』

  自分の足に装備された不恰好な代物について、今更何か言うつもりはハインケルには無い。爆破
 が始まるまで潜むつもりの建物の中で、黙り込むしかなかった。

 『では、行くよ。』

  博士の声が、なんだかとても不吉に聞こえた。
  次の瞬間、建物すぐ側から泥が舞い上がり、一直線に泥の線が教会に向かう。振動する水の力に
 耐えている時、一際強い揺れが巻き起こった。そしてたっぷり数十秒たった後、再び水の震えが辺
 りを覆った。
  視界を遮ろうとする土煙の中にハインケルは飛び出し、舞い上がる泥と共に巨大なシルエットを
 見せる教会の、おそらく二階の屋根に開いた穴の縁に一気に降り立つ。遥か下では、まだ泥が水と
 共に踊り狂っており、街はその中で姿を隠していた。
  大きく開いた穴の中にハインケルは飛び込む。しかし予想していた浮力は無く、代わりにその場
 を支配していたのは重力だった。ハインケルは中に入った瞬間、教会の床に墜落しかけるが、宙で
 一回転し、無事に着地する。

 『ハインケル君。どう?中には入れた?』

  博士の声の代わりにイヤホンから声を出したのは、唯一、潜水艦に残った同僚、エスメラルダだ
 った。

 「空気がある。」

  同僚の問いを無視してハインケルは自分の感想を述べる。どうやら自分の師匠の言ったとおり、
 ラング博士はなんからの方法で、ドームと同じ技術で此処を人間の住める環境にしたらしい。穴か
 らは海水が入ってくる気配すらない。

 『ハインケル君、それはひとまず置いておいて。気を抜かないで。あなたが中に入っている事は、
  きっと相手に知られているわ。』
 「解かっている。」

  博士特製のウェットスーツを脱ぎ、イヤホンの代わりにイヤーカフスを服に付けながら、ハイン
 ケルは監視カメラの如き視線を辺りに走らせる。その動きが僅かに止まった。
  転瞬、ハインケルは脱ぎ捨てたウェットスーツの中から愛刀を引き摺り出し―何か裂ける音がし
 たが―身体を捻って反転させ、勢いをそのままに、背後に刃を叩きつけた。硬く響く音の後、ぼた
 ぼたと赤黒い液体が、荘厳な床を伝っていく。血の臭いとは確実に異なる、何かの薬品の臭いが漂
 う。
  ハインケルは刀を引き寄せ、自分の切り倒した物を見た。それと同時に、叩き切る音でも拾い上
 げたのか、エスメラルダが尋ねる。

 『何があったの、ハインケル君?』
 「機械人形だ。」

  おそらく、見張り用のロボットなのだろう。切り口から血液に見立てられた赤黒いオイルを流し
 続ける機械人形は、行動支援プログラムが先程の衝撃で破壊されたのだろう、動かない。火花を散
 らしているその身体で刀に付いたオイルを拭いながら、ハインケルは周囲に視線を巡らせる。

 「一体だけで、何の問題も無い。」

  周囲にその他の影は見当たらない。機械の駆動音も生物の呼吸音も聞こえない。それらを確認し
 てから、ハインケルはイヤーカフスを弾く。

 「それで、俺はどうすればいいんだ?」
 『とりあえず、建物内の詮索ね。機械人形がいるという事は、ラング博士でないにしても何者かが
  此処に 潜入している可能性があるという事よ。』
 「ただの、ロボットの不法投棄だったら?」
 『ロボットの不法投棄も重大な社会問題よ。いずれにせよ違法ね。』
 「どう転んでも、機械人形が此処にいる以上、無視は出来ない、か。」
 『さ、早くそこを離れて。博士が囮になっているけれど、それも長くは保たないわ。』
 「ああ。」

  ハインケルは愛刀を鞘に納め、破壊したロボットに背を向ける。そして、足音を殺す事無く進ん
 でいく。
  此処にいる敵のほとんどが、サイボーグかロボットだろう。ならば赤外線センサなどを持ってい
 る彼らに対して、足音を消しても無駄な事だ。彼らのセンサを欺く事など普通は――博士ならとも
 かく――不可能だ。
  彼らのレーダーは、気配など感じず、ただ、そこにある物をスキャンする。
  告解室――ハインケルが入った穴が開いたのは丁度、その真上の屋根だった――を出た瞬間、ハ
 インケルは人間の第六感に従い、愛刀を掲げる。同時に機械部品がオイルと共に大量に滴る。床で、
 オイルまみれの機械屑が高い音を上げる。

 「エスメラルダ……、師匠の囮は無駄になりそうだ。」

  呟きながら、ハインケルは天井の一角を見つめる。
  金属の擦り合わさる硬質な音が、天井の角に蟠った闇から流れ出ている。その奥で、赤い光の群
 れが、一斉に花開いた。赤い光によって、暗さを所有していた天井の片隅は、不気味に赤く染まり、
 その部分をハインケルに見せ付ける。そこには、びっしりと無数の機械がへばりついていた。
  迫りくる、百足のような機械を迎え撃つべく、ハインケルは刀を構えた。





 『博士!』

  突然、イヤーカフスから潜水艦にいるエスメラルダの声が響いた。あまりの切羽詰ったような声
 に、博士は仕込み杖で監視カメラを破壊している手を止める。
  ハインケルのサポートを博士のサポートよりも優先させているはずの同僚が通信してくるのは、
 何かあったからに違いない。ハインケルに。

 「どうかしたのかね?また、ハインケルが何かやらかしたのかね?」

  幾つもの予想を立てながら、のんびりした口調で尋ねる。それとは対照的に、エスメラルダの声
 は緊張を孕んでいる。

 『ハインケルが機械に襲われました。』
 「僕も襲われたよ。此処に来るまでに一体、何回、襲われたかねぇ…。」
 『囮なんですから、当然です。』
 「そうだけどねぇ…。」

  何処か不服そうに言いながら、視線は、こちらを見つけ向かってくる警備ロボを捕らえている。

 「いずれにせよ、何者かが此処にいるわけだ。もしくは、誰にも見られたくない物が此処にあるか。
  そうでないと、こんなに機械を警備につけさせる理由が無い。ま、此処が囮だって事も考えられ
  るが。」

  自分達の囮作戦――別に成功するなんて思ってもいなかったのだが――の失敗を苦にするわけで
 もなく、ありとあらゆる可能性を博士は提示してみせる。

 「で、どんなサイボーグかね?弟子に襲い掛かったのは?」
 『サイボーグではありません、機械です。』
 「サイボーグは出てきていない?」
 『ええ。』
 「ふむ、僕もだ。」

  博士は、蜘蛛にも似た警備ロボの脚を仕込み杖で―誰も見ていないにもかかわらず――優雅な動
 作で切り落として見せた。そして、更に優雅に、迸るオイルを浴びないようにかわし、イヤホンの
 向こうにいるエスメラルダに話しかける。

 「とりあえず、僕はこのまま地下聖堂に向かうよ。ハインケルも子供じゃないんだ。自分の事は自
  分でするさ。たぶん。」