「博士、例の人形について、何か解かった事は?」

  壁一面を窓にした向こう側で、回遊魚の群れが、ゆっくりと泳いでいる。異常発生した二酸化炭
 素を取り込み、酸性を示す海の中で泳ぐそれらは、かつては存在しなかった魚だ。
  謎の生物とも言えるそれらの魚影の見える部屋で、ヴィンセントはいつもの様に腕を組んで執務
 机の椅子に座っていた。執務室は、今はあの白い輝きを放つ明かりを抑え、研究室のような暗い青
 い照明に包まれている。彼女の目の前に座る博士は、頬を軽く撫で、答える。 

 「今回、暴走した人形は、パリのノアール社製のアンドロイド、タイプDV569。同社は事件後、
  市場に出回っている同型アンドロイドを回収。しかしながら欠陥は無し…。過去の事例と同じで
  す。」
 「いかなるアンドロイドにも欠陥なし、か。」

  ヴィンセントが呟く。それに博士は頷く。

 「商品のデータ機密の為、機体破損後、データ初期化も同じく。」
 「新種のウイルスという事は?」
 「ウイルスは検出されませんでしたが、そういうウイルスも有り得るかと。」
 「…暴走と共に死滅するウイルス、か。」
 「然り。しかし、その場合、些か不愉快な想像が出来ますが。」
 「何者かが、ウイルスをばら撒いている、か。」 

  少しのやりとりの後に辿り着いた、不愉快な仮定に、ヴィンセントは、青い眼をすっと細める。

 「確かに、愉快な想像ではないな。」

  機械の暴走の主な原因は、機械の脳である人工知能の劣化や、微生物による汚染が深刻化してい
 るが、それ以上に深刻なのが、ウイルスだ。ウイルスはネットにばら撒く事で、一気に広範囲に広
 まる。機械がネットに接触すれば、直ぐに感染する。そういうネットに接触しやすい機械は、人形
 ――愛玩用、介護用といった、人に近くで接する種類の機械が多い為、危険度も高い。ましてや、
 八年前の兵器人形の暴走という最悪の事例がある。
  以来、人形にはウイルス防御機構を組み込む事が、製造会社には義務づけられている。その後も、
 人形の主人は新しい防御機構を一定期間ごとにダウンロードしなくてはならない。ウイルス禁止法
 も確立され、ウイルスの製作は重犯罪となったが、それでも新種のウイルスは後を絶たずに電子世
 界に流れている。

 「それで、どうなさるのです?」

  不愉快な想像に黙り込んだ上司に、博士は話しかける。

 「これが組織的犯罪だという証拠は残っていない。新種のウイルスだというのも、所詮は想像にす
  ぎません。」

  博士の言葉に、ヴィンセントは何の反応も示さない。藍色に染められた顔には、表情さえ見せな
 い。しかし、それが、手の打ちようの無い事を如実に物語っている。
  一匹の回遊魚の影が床を横切る間、ヴィンセントと博士の間には、何の言葉の欠片も流れなかっ
 た。博士の顔に、淡い泡の影が当たった時、ようやくヴィンセントは、自分の手の中にあるカード
 を出した。

 「人形とは別の方向から調べてみるか。」

  その台詞に博士は眉根を寄せる。

 「別の所に繋がりがあるのですか?」
 「解からん。が、人形と全く無関係というわけでもない。」

  ヴィンセントは、固く組んでいた腕を解き、長い金髪をかき上げながら言う。

 「ジルビット=ラング博士を知っているだろう?あなたの同業者でもあるのだから。」
 「ええ。もっとも最近は会っていませんがね。」

  博士は、少々おどけた様に――その実、とても真面目に―答える。
  ラング博士は機械工学の権威であり、また、人工知能の一人者でもある。しかし、優秀な科学者
 の顔の裏には、人体実験を数多く行ってきたという一面があった。生体をモデルとしたエネルギー
 の確保の仕方は、人体実験の賜物だったのだろう。また、一年前に騒動となった、機械人形のみを
 狙った、感染するとデータが塗りかえられ、暴走するというウイルス・プログラムの作成にも携
 わっており、実際にネットに流した事もある。それを警察が突き止めた時には、ラング博士は逃亡
 した後だった。

 「なるほど、確かに彼なら何か知っていてもおかしくはない。しかし、居場所を突き止めなくては。」
 「先程、バルセロナにいる派遣員から連絡があってな。どうも、奴の尻尾(しっぽ)が?めたらしい。」
 「バルセロナ……といいますと、エスメラルダですか。彼女の情報だとすれば、信頼性はある。それ
  で、どのような内容だったのです?」

  促すと、ヴィンセントは再び腕を組む。

 「それを今から聞く。彼女は今、こちらに向かっている。……サラ。」

  彼女は、虚空に向かって呼びかける。

 「後、どのくらいで到着する?」
 「約三十分程です。」

  天井のスピーカーから、まろやかな声が降った。その声に頷くと、ヴィンセントは博士に向き直る。

 「博士、あなたの弟子の出動準備を。エスメラルダから詳しい情報を聞き次第、彼をバルセロナに
  投入する。」
 「僕も行くのですか?」
 「もちろんだ。」
 「僕には、まだやりかけの任務があるのですが。」

  博士は今、ロンドン・ドームから発見された核弾頭の調査を命じられている。
  核弾頭は当然所持してはならない物だが、隠れて持つ国は多い。それが見つかったとなっては大
 問題である。むろん、イギリスは『そんな物は知らない、存在自体知らなかった、これはきっと旧
 時代の遺物だろう』と言っているが、その言葉を鵜呑みにする事は出来ない。先程もいったように、
 隠れて核兵器を持つ輩は掃いて捨てるほどいるのだ。
  もちろん、旧時代の遺物だという意見も否定できない。核弾頭の設計図はこの世には、今のとこ
 ろは、存在していない。旧時代の遺跡からとんでもない兵器が見つかったという事は、過去の事例
 からして幾度となくあったのだ。今回、核弾頭が見つかったのは遺跡などではなく、イギリス軍隊
 のドーム地下本部だったのだが。
  この大事件の調査を命じられた人類共同連邦の頭脳は、様々な仮説を立てた。
  何処かの遺跡から核弾頭を発見し、勝手に持ち込んだところがばれた、とか。もしくは何らかの
 形で核弾頭の設計図を手に入れ、造ってみた、とか。核弾頭に使われている機械部分が新しいので
 前者は無いが、いずれにせよ犯罪に変わりはない。
  しかし、所詮は仮説であり、結局調査は暗礁に乗り上げつつある。

 「あなたの任務とも関係があるようだ。」

  口元に酷薄な笑みを浮かべてヴィンセントは言った。

 「核弾頭の取引をラング博士が行っていたかもしれない。」





  ハインケルは、そっと愛刀に眼をやる。先程、研ぎに出していたのが戻ってきたところなのだ。
 刃毀れをおこしていた部分は、以前の鋭い輝きを取り戻している。
  それを改めて確認しているところに、突然、明るい声が降りかかってきたのだ。
  声だけで誰なのか分かるのだが、それでも相手に失礼のないように、自分の手に戻ってきた刀か
 ら眼を離すと、自分の目の前に現れた妖艶な美女に、気だるげな、しかし美貌を落とす事のない視
 線を向ける。

 「何故、あなたが此処にいる?」

  バルセロナに派遣されている彼女が此処にいるという事は、何かがそこで起こったという事なの
 だろうが、それでもハインケルは視線に負けず劣らず気だるげな声で尋ねた。すると、対照的にフ
 ラメンコが似合いそうな明るい声が返ってきた。
 
 「久しぶりね、ハインケル君。」

  艶やかな声で挨拶をし、美女はウェーブのかかった黒髪をかき上げる。

 「司令官はお元気かしら?」

  相変わらずの表情で、ハインケルは自分の問いに答えが無かった事を気にする風でもなく頷く。
 派遣員は時として団結して指令を遂行する事も少なくないが、個別に下された指令について詮索す
 る事は、司令官の許可がない限りしてはならない。
  その時、二人のイヤーカフスにもの柔らかな第三者の同じ声が届いた。

 「エスメラルダさん、ヴィンセント様と博士がお待ちです。司令室に来てくださいまし。」
 「ええ、解かったわ、サラ。」

  見えぬ相手に頷くと、彼女はハインケルに手を振って背を向ける。ハインケルも一礼して背を向
 ける。しかし、サラの声が続けて響いて、二人の動きを止める。

 「ハインケルさん、ヴィンセント様がお呼びです。あなたも、いらしてください。どうぞ、エスメ
  ラルダさんとご一緒に。」
 「俺も?」

  ハインケルは戸惑った様に、見えぬ相手を見上げ、詳しい説明をを求める。

 「一体何があったんだ?」

  その問いの答えは、サラではなく、自分のすぐ側にいる美女からあった。

 「どうやら、司令官は直接、行動に出すおつもりのようね。」

  どこか穏やかならぬものを感じ取り、ハインケルは美女を見つめる。しかし、美女は口元に笑み
 を見せたまま、それ以上の事を言おうとはしない。

 「とりあえず、一緒にいらっしゃい。司令室で説明するわ。そちらの方が一度に説明できるから、
  手間が省けるわ。」