透明な何かに遮断された底から見える夜空は冷え切っていて、その中で細く長い月が、青く尖っ
 ていた。氷の精霊の化身のような光は地上に鋭く空き刺さり、古びた石造りの町並みの温度を一層、
 下げていた。重苦しい佇まいの家々からは、月と同じくらい細長く、鋭い氷柱が垂れ下がり、獣の
 牙のように地面に噛み込んでいた。
  霜の張った路上に、ぱたりと一つの影が落ちた。凍えた色をしている月明かりによって生み出さ
 れたそれは、長く伸びている。
  石畳を叩く音がして、影が動いた。影の持ち主が歩いているのだ。ゆっくりと。霜が張っている
 のだから、相当寒いはずだ。いや、相当寒いどころか、吐く息さえ凍りつく寒さなのだが、影の持
 ち主はそういった素振りを欠片も見せない。
  青白い月光が、彼の姿を淡く照らし出した。口元は黒いマントで覆い、隠しているが、それでも、
 触れれば切れそうな美貌が光の中に映える。切れ長の翠瞳と北欧特有の白い肌。輝く新緑のような
 色の長い髪を背中で無雑作に括って。この夜の冷気は、この男から放たれているのかもしれない―
 ――そう思わせるような、雪の女王に愛されているような、美しさ。
  彼の足は冷え切った石畳を叩き、陰鬱とした家々から落とされた影を噛みながら、古風な町並み
 に背を向けようとしていた。彼の視線の先では、彼に相応しい月明かりに暗く凍えた町並みとは打
 って変わった、けばけばしい色達が踊っている。氷の世界に反抗していると言うよりも、飲み込ま
 れていくのを諦めて騒ぎ立てていると言った方が、きっと正しいのだろう。破滅の予兆のような喧
 騒が、底抜けの明るさを投げかけている。
  彼が足を乗せていた石畳が突如として消え、代わりに、舗装もろくにされていないアスファルト
 が広がり、同時に周囲を喧騒と派手なネオンが包み込む。頭上高くでは、何語か解からない文字の
 羅列達が点滅している。路上に屯しているのは行き場のない浮浪者、もしくは獲物を窺う目を持つ
 連中だ。
  この世界の歓楽街。
  彼はその中を、場違いなストイックな美貌を淫らな光に染められながらも巧みに泳ぎ、目的のも
 のを探す。
  やがて彼が行き着いたのは、眠らない町から弾き出された様な、うらぶれた店だった。周囲の派
 手な彩りへの精一杯の抵抗の様に、店の窓から橙色の光が漏れている。しかしその光も、この場所
 には相応しくない柔らかな光だった。
  彼は、躊躇う事なく店内に足を踏み入れた。ドアの開く低く軋んだ音と、それと共に入ってきた
 凍るような冷たい空気に、カウンターの中にいる初老の男が顔を上げる。
  外とは対極に位置する暖かさが、ぱちぱちと音を立て、壁際の暖炉から生産されている。店内を
 照らしているのは、今時珍しいランプの光で、そのどこか懐かしく暖かい色は、入ってきた冷気さ
 えも和らげているようだ。窓の外に漏れる穏やかな光も、このランプ特有のものだったのだろう。
 壁に立掛けられていたり床に陳列されていたりしている武具が、その光を吸収し自分自身の輝きに
 している。
  冷気と共に現れた彼はカウンターの前に立ち、自分の背丈程もある布に包まれた棒状の物を、す
 っと老店主に差し出した。それを受け取った店主は、棒に被せられた布を払い除ける。その下から
 現れたのは一振りの、薄い剣。そのまま鞘を払い、息を呑む。

 「………これは珍しい。」

  店主は嘆息と共に、そんな言葉を吐く。
  目の前にある刃は、今は水の底に沈んでいる極東の島国で使われていたという、絶えて久しい剣
 だ。かつては美術品としても流通していたそうだが、今では出産国にも、ほとんど磨き上げること
 の出来る職人がいないという。この仕事を始めて三十年になるが、眼にしたのは数えるほどしかな
 い。扱った事といえば、それこそ片手で足りてしまう。
  今、自分の手の中にある極薄の片刃の剣は乱刃で、刀身に油の滴るような艶めいた煌きを持って
 いる。手入れを必要としている状態ではあるが、それでも店内にあるどの武器よりも輝き、その趣
 には無骨さは欠片もない。芸術品として飾られるべき、それでも人間を殺せるほどの鋭さを秘めた
 美しさ。慎重に扱わねばならない。

 「少し時間がかかりますが、宜しいかな?」

  丁寧にしなくては、切れ味も美しさも損なわれる可能性がある。何より、扱った事がほとんどな
 い。慣れていないのだから、ゆっくりやるしかないだろう。

 「………頼む。」

  手入れが難しい事ぐらい承知しているのだろう。店主の言葉に彼は当然のように頷き、連絡先を
 告げ、再び扉を軋ませ、店を後にする。
  暖かで心地よい光の満ちた店を出て、再び壊滅的な喧騒の中に戻った時、イヤーカフスから僅か
 にノイズ混じりの声が届いた。

 「ハインケルさん、今、どちらにいらっしゃいますか?」

  突然の物柔らかな女性の声に彼は驚く風でもなく耳に手を当てながら答える。そうでもしないと
 周りの喧騒に声がかき消されてしまう。

 「八エリア第二十七ブロックにいるんだが………何かあったのか?」

  もちろん何かあったのだろう。しかも物騒な事が。そうでなくては自分が呼ばれるなんて事はな
 い。彼は、腰に残るもう一本の刀を確認しながら尋ねる。

 「八エリア第二十五ブロックで、自動人形数体が暴走しています。」

  その言葉に、彼は溜息を吐こうとして止める。
  防護装置ドームがあっても、冬場でなくても氷点下数十度まで下がる陸地では、人間よりも機械
 に仕事をさせたほうが良いのは当然だ。しかし、機械の数が増えるに伴い、その分だけ不都合が生
 じ暴走が起こるのも、結果としてあるのだ。そして、基本的に人間を守るために造られ、それ相応
 の強さを持ちつつも、暴走したそれを止めるのは、普通の人間では不可能だ。従って、ハインケル
 のような特別な職業の者が存在するようになるのだ。

 「解かった。直ぐに現場に行く。」
 「お願いします。」

  用件が終わると、交信はそっけなく途絶え、喧騒だけが耳に取り残される。

 「最近、多いな。」

  誰に言うわけでもなく――実際、口にしたのかどうかも怪しい――美貌を翳らせ、今度は本当に
 溜息を吐く。そして身を翻すと、新しく出来た目的地へ向かう為、彼――ハインケル・ゲーテは、
 統一感の欠片も無い光の奥へ沈んでいった。氷に閉ざされたこの世界の先で、絶え間ない機械音の
 中で、何かを擦り合わせるような不快感を煽る絶叫が聞こえた気がした。その時には彼の姿は見え
 なくなっていた。

 




  ハインケルがそこに辿り着いた時、真っ先に鉄錆びた臭いが鼻腔を突き刺した。彼がよく知って
 いる臭いで、目線の先にはその臭いの源であろう赤い塊が転がっている。いかがわしい店先に作ら
 れた血の泥濘に倒れ付したそれに、息がないことは一目瞭然だった。
  そのすぐ横には、どこか無機質な顔立ちの女性達が立っている。美しくはあるが表情もなく、瞬
 きもしない。仕草は滑らかであると同時に、ぎこちない。何より、そこにいるそれらは、全部同じ
 顔をしているのだ。それらを警官隊達が取り巻いている。
  倒れている肉塊が、引き裂かれながらも警官隊の制服を着ている事に、ハインケルは気づいた。
 女性型とはいえ、機械は機械だ。人間よりも遥かに丈夫に作られ、力も強い。下手に手を出すと、
 そうなるのだ。
  警官隊を更に遠巻きに見ているのが、野次馬達だろう。もしかしたら、どこかの新聞記者くらい
 は紛れ込んでいるかもしれない。
  ハインケルは腰に残る予備の刀に手を掛けながら職種の様々な人ごみを掻き分け、警官隊達も押
 しのけ、人形達の前に出る。若い警官の一人が、突如として現れた闖入者に何か叫んだようだった
 が、ハインケルはそれを無視する。おそらく誰何の声だったのだろうが野次馬達の声に掻き消され
 てしまった。明らかに野次馬達は地味な警官隊達よりも、美貌の持ち主である闖入者のほうを歓迎
 しているのだ。
  誰何に答えて、自分の立場を明らかにする必要があったのかもしれない。だが、その暇はなかっ
 た。
  人形達も、ハインケルに気づいたらしい。彼女達は瞳にハインケルを映す事なく、何の前触れも
 なく、唐突に襲いかかる。軽い音を立てて跳躍し、ほっそりとして、男なら誰でも眼に入れたくな
 るような曲線も眩しい脚が、ハインケルに向かった。
  が、その時にはすでにハインケルは抜刀している。次の瞬間、曲線美を誇る脚は一瞬にして、金
 属特有の重い音を立てて地面に落ちていた。その横に、悲鳴一つ上げず、両足を切断された人形が
 転がる。そして、血の代わりに機械部品が気前良く散らばった。その中で両足の無い人形が、無表
 情でもがいていた。 
  それを人々が認識した時には既に、耳を塞ぎたくなるような音を立てて破壊活動が繰り広げられ
 ている。
  ハインケルの抜き放たれた刃が、白い輝きを孕んでいる。その刃は慈悲の一片もなく、美しい顔
 立ちの女性型人形を切り裂いた。
  最初の一振りで脚を切り落とすと、無駄な動き一切なく、次いで飛び上がろうとする人形の胴を
 薙ぎ払う。返す刀で、後ろに回りこんでいた一体の首を切り落とし、軽く跳躍して突っ込んできた
 一体をかわし、そのまま刀を振り下ろし、人間ならば延髄に当たる部分を貫く。金属が、血飛沫の
 ように宙に舞った。
  辺りが機械部品の溜りとなるまでに、おそらく数分と掛からなかっただろう。周りを見る余裕が
 出来た時には、人形の四肢が散在していた。
  人間であったなら、流れ出る赤から湯気が立っていてもおかしくはない光景だ。だが、彼女達は
 所詮機械の塊でしかなく、金属同士の擦り合わされる音以外、悲鳴らしき音は僅かも聞こえなかっ
 た。しかし作り物の手足だとは言っても、やはり転がるそれらは一般人には刺激が強すぎる物であ
 るらしく、警官隊の後ろにいる野次馬達の眉が顰められている。眉を顰めるくらいならば、家に帰
 ればいいのだろうが、誰一人として帰ろうとはしない。
  そして、何とも言えない輝きを放つネオンの下で、ハインケルの眼の端に一体の人形が身を翻し
 路地に駆け込むのが映った。舌打ちして、まだ動く数体に刃を突き立て、その姿を追い、路地に駆
 け込む。
  ここで逃がしてしまっては、後で何を言われるか解かったものではない。それ以前に彼女達は人
 を一人殺している。後々、誰も殺さないとは言い難い。いや、暴走した機械自体が危険物と見なさ
 れるのだ。
  凍りついた建物に囲まれた道を走り抜け、遠ざかろうとする規則的な足音を追跡する。
  霜の張ったアスファルトには、人形の足跡がついている。それを辿りながら、企画性なく造られ
 た道を駆け抜ける。
  やがて、足音が止んだ。              
  ハインケルは走る速度を徐々に落とし、遂には歩き出す。
  そして、月明かりに蒼く染まった突き当りで、彼は立ち止まった。
  緩くウェーブを描く茶色の長い髪人形は、そびえたつ壁にもたれ、霜のこびりついた両足を投げ
 出すように蹲っていた。あの哀れな警官を殺したのは彼女だったのだろう。人間の理想を形にした
 左肩から胸にかけては、真っ赤だった。
  よほど人通りのない場所なのだろうか。永久結晶のように白く古びた氷の塊が、あちこちに転が
 っている。重さに耐えかねて折れた氷柱は白く濁り、圧迫感のある壁面や地面には、蜘蛛の巣のよ
 うな氷が張り付いていた。人形の通った部分だけが、微かに色が違う。
  凍てついた冬の城を思わせる青白い路地で、その人形は密やかに佇んでいた。
  彼女の素性を知らねば、思わず見とれるか、手を差し伸べたくなるような光景――血の跡さえな
 ければ。
  だがハインケルは、その身体の中身が血と骨ではない事を知っている。その青い瞳がただのカメ
 ラレンズに等しい事を知っている。髪も腕も足も表情でさえ、作られた物である事を知っている。
 だから、彼は再び歩みを進めた。そして柄に手をかけ、鯉口を切る。
  刹那、人形が動いた。
  他の人形達と同じく、表情一つ変えず、ハインケルを瞳に映すわけでもなく、ただただ前触れな
 く唐突に。
  しかしその時にはハインケルの腕から放たれた一条の白刃が、彼女の形の良い顎に噛み付いてい
 た。一瞬、金属の噛み合う音がしたが、それはハインケルが刃を鞘に納める音で掻き消された。そ
 してその音も、女性型人形の首が地面に落ち、身体が崩れる音で覆われてしまった。
  後には、軋むような静寂と、意味を成さない機械部品、そしてハインケルだけが取り残される。
  遠くで、小さなサイレンが赤く鳴っていた。