静寂を一つの足音が破った。
  海の底のような青が映った床を、硬い足音が微かに震わせる。それ以外に、この暗い空気を伝わ
 るものはない。
  化学蛍光剤が塗られていた壁面は、役目を忘れてしまったかのように、微かな光も発する事をし
 ない。メンテナンス用の自律機械達も、床に転がったまま、動く気配がない。
  そんな濃紺色の闇の中に、柔らかな青白い光が小さく燈った。その光はゆっくりと闇に浸透する
 ように、そこかしこにわだかまった、凍えた過去の残滓に穏やかに届いた。通路に凝り固まってい
 た、人がいたという形跡は、光に触れると、まるでその光に負けたかのように、たちどころに溶け
 て消えた。
  自身が放つ優しい光とは対照的な硬質な足音は、淀みなく進んでいく。まるで、何処に何がある
 のか知っているような足取りだ。しかし、誰か知る人間がいるには、此処に在ったはずの人の記憶
 は、あまりにも溶けてなくなってしまっている。
  突然、静寂を際立たせていた足音が、止まった。青白い光の中に、一つの小さな人の形をした輪
 郭が浮かび上がる。
  年齢で言えば、二十代前後。短く刈られた髪は誰も足跡をつけていない雪を思わせて白く、同じ
 く北欧出身のような白い顔の中では、新緑の木漏れ日を連想させる柔らかな緑の瞳が、何の感情も
 持たずに扉を見上げている。身体に密着した黒いシャツの上を覆うのは、マントにも見える白いコ
 ートだ。
  彼はその雰囲気と同じくらい静かな動作で、扉の中央にある四角い手帳ほどの大きさのパネルに、
 右手を滑らせた。その右手の中にあるのは、何かの模様の描かれた小さな金属板だ。その硬いもの
 が触れると、空気の抜けるような音と共に扉が左右に開いた。
  彼は、その中に身を入れる。そして、再び顔を上げた。周囲の海底色の闇に変わりはない。だが、
 闇に浮かんでい るのは、幾つもの巨大なモニタと、それらを接続するコード、そして、コンソー
 ル・パネルとキーボードである。それらは、死に絶えたように何の反応も示さない。
  動かないそれらに、彼はゆっくりと向き直った。硬い足音を響かせながら、コンソール・パネル
 に近付く。そして金属板を持ったままコンソールに手を置く。
  すると、無機質な声が降り注いだ。

 『照合開始―――終了。管理者を宇宙連合軍大佐ティル・ラグナ。所属、管理部『第三研究所』。
  認証DTH-SAF40M-5-12-13E-3TLと確認しました。』

  今まで動かなかったのが不思議なほど、モニタに白い文字の羅列が浮かび上がった。それだけで
 はない。彼の放つ白い光を吸収したかのように、コードに光の粒子が流れ始めたのだ。総てのモニ
 タに電源が入り、闇に沈んでいた部屋は、瞬く間に彩られていった。
  彼が、初めて口を開いた。

 「システム、管理者モードへの移行を要請する。SJ-3-10XXXへ接続せよ。」

  白い項から、細いコードを出し、モニタの隅にある接続孔に穿ちながら言い放つ。接続孔の横に
 あるランプが黄色に輝く。

 『SJ-3-10XXXに接続しました。』

  姿の見えない誰かの声が終わるや否や、彼はキーボードに手をかざした。そしてピアノに向かう
 ピアニストさながらの滑らかさで、キーボードを打ち込み始めた。凄まじい勢いで、意味を成さな
 いと思われる文字の羅列が、モニタに並んでいく。
  やがて、操作板状で動いていた白い手が唐突に止まった。そして、表情のない声で告げる。

 「使用可能コマンドなものは幾つある?表示せよ。」
 『了解。検索開始―――終了。質問条件に該当する物は三十四件あります。』

  画面が更新され、三十四の項目が画面に現れる。それを振り仰いだ一瞬後には、彼は変わらぬ声
 を発している。

 「第三十四項、核弾頭のデータ・ファイルを開示。データを総て消去しろ。」

  今まで滑らかに答えていた声が、突然止まった。フリーズだろうか。しかし、別の作業は問題な
 く動いている。

 「システム?どうした?第三十四項のデータ・ファイルを………。」
 『………きません。』

  眼に見えない声が答えた。

 『このパスでは、これより先のファイルに接続する事は出来ません。もう一度、パスの入力の確認
  をお願いいたします。』
 「何………?」

  彼の声に、初めて感情が表れた。

 「そんなはずはない。このパスは最上級パスのはずだ。システム、もう一度確認を―――。」

  だが、彼はその言葉を最後まで言う事が出来なかった。システムとリンクしているコードを通じ
 て、何かが―――しかもこの上なく不快な何かが、自分の中に入ってきたのだ。彼の防御システム
 は、侵入者を阻むための防壁を瞬く間に立ち上げるが、不快感はそれを突き破って奥へと侵入する。

 「……っ!」

  彼のシステムは悲鳴を上げて、電子の海から逃れようともがいている。もし、これが知覚センサ
 に変換できたのなら、彼の視界には凄まじい量の亀裂が入っていただろう。

 「ウイルスか………!」

  体内に入ってくる異物―ネットを縦横無尽に駆けずり回るウイルス達の一つだ。しかし、自分達
 の防御壁を破ってまで入ってくるウイルスなど、いるだろうか。
  いや、今、この時代にいるはずがない。そんなプログラムは、あの時から生きている者達でなく
 ては―――。
  そこまで考えて、彼はコードを引き抜く手を止め、ウイルスのプログラム解析を始める。ウイル
 スが、嬉々として彼のプログラムを破壊していく。しかし、彼はそれの倍以上の速さでウイルスを
 解析していく。

 「まさか………。」

  彼はジャミングに耐えながらウイルスの解析を進めて、息を呑んだ。ウイルスはそうしている間
 にも、彼のシステムを侵していく。
  だがその事実よりも、彼は今、目の前に突きつけられている新事実に眼を見開いた。細いコード
 を通じて、限りなく広い電子の底から送られてくる、自分達すら破壊できるウイルス―それは紛れ
 もなく、自分達への、限りない悪意を込めたメッセージに他ならない。過去から、自分達へ向け
 られた、おぞましいプログラム。
  そして、それを送る事が出来るのは―――。
  その時、誰かが、彼の記憶回路に手を伸ばしてきた。転瞬、彼はそれが何なのかも確認せずに、
 反射的にそれを弾いた。
  それはちょうど、ウイルスが彼の行動支援プログラムの中枢部に手を伸ばそうとしてきた時だっ
 た。彼は首に繋がっているコードを、躊躇いなく引き千切った。その直前、再び者かが彼に囁いた
 気がしたが、それを確かめる事は出来なかった。
  輝きを失ったモニタに囲まれた部屋で、小さく火花が散って、消えた。やけにゆっくりと、コー
 ドが床に垂れ下がった。
  ウイルスで穴だらけのシステムを抱える彼の目の前で、モニタに映ったデータファイルは、なす
 術もなく別の場所へ転送されていく。それを見送るしかない中で、彼は呟いた。柔らかだった彼の
 眼の緑は、呆然としながらも、どこか悲しみにも似た何かを湛えている。

 「…お前、なのか?」

  光を失ったモニタは、何も映さなかった。