その日、マッドは背後から立ち昇る、しかし稚拙な殺気に気が付いて振り返った。
  空は暮れなずみ、西の端に僅かな錦を残すばかりで、東の空は既に星を真珠の粉のように塗した
 帳を下ろしている。一流の織物でもこうは美しくは織り込まれていまいと言わんばかりの空の下は、
 空よりも先に夜の手で浚われて青みを帯びていたが、人の波は消えてはいない。
  家路に向かう人々や、今から宿を探す旅人、または酒場に向かう陽気なカウボーイやならず者達
 が乾いた道にごった返している。彼らの熱気の所為で、少しばかり肌寒くなっているはずの夜は、
 まだまだ賑やかであった。
  マッドも良く知る、見慣れた荒野の町の夜の風景である。ちょっと人の多い町になれば、太陽が
 沈んだくらいでは人は静かにはならない。
  そんな中、唐突に向けられた殺気は、完全に人気の多さなどを無視したものであった。故に稚拙
 と言わざるを得ないのだ。
  人に紛れて命を刈り取る事は確かにある。だが、それは余程の手練れが、人ごみにあっても捕え
 られないという確証があってこそできる業だ。つまり今現在此処にいる人間が、マッドに殺気を向
 けている人間の仲間でなくてはならない。そして、そんな事は有り得ない。マッドはその事を、最
 初から分かっている。
  懐から葉巻を取り出そうとしていた手を止め、マッドは静かに人の波の中で立ち止まる。 
  唐突に立ち止まったマッドに、幾つかの衣擦れがぶつかっていくが、マッドをよろめかせるほど
 のものはない。皆、マッドを避けて、各々が行く方向へと進んでいく。誰も殺気に気づいていない。
 もしかしたらマッドがこの場で撃ち落されても、何も変わらないのかもしれないが。それを見越し
 て殺気をぶつけられているのか。
  だが、西部一の賞金稼ぎとして名を鳴らしているマッドが、こんな稚拙な罠にかかるわけもない。
 かかってやる義理もない。
  マッドは流れを遮る岩のようにしばらく立ち尽くしていたが、やがてひらりと花弁のようにジャ
 ケットの裾を翻して振り返った。夜の帳をそのまま引きずり落としたかのような双眸は、ひたりと
 殺気の主を見据えている。

 「こんなところで俺を撃ち落すつもりか?」

  人が多かろうが、世界が閉ざされていようが、マッドの声は良く通る。音楽的な響きを湛えて、
 人の渦の合間合間に流れ込み、その音が人々を一瞬振り返らせ、道行く足を止めさせる。
  波に乱れが発生した事について、マッドは興味を抱くつもりはない。マッドが見据えているのは、
 乱れた人の波の中、自分と同じように岩のように突っ立っている女だった。 
  両手で真鍮色の銃を構えた女は、やけに大きな眼をいっそう大きく見開いて、まるで何かに驚愕
 したかのような表情でマッドを見つめている。実際、女は驚いたのだろう。よもや、マッドが自分
 に気づくとは思っていなかったのか。
  だとしたら、随分とマッドという人間を見縊っている。
  色褪せた髪飾りを、色の抜けたかさついた髪に差し込んだ女は、髪飾りと同じく色褪せた茶色の
 ドレスを着こんでいた。その裾から覗くレースは、元は白かったのだろうが薄汚れて灰色にも黄色
 にも見えた。
  一目見て、堅気の女ではなかった。
  娼婦なのだろうが、マッドが相手にするような、高給取りでもない。
  器量が悪い以前に、顔色も妙に悪く見繕いも碌に出来ない、ロンドンの下町で春を鬻ぐ貧しい夜
 鷹を正に絵に描いたような女だった。
  アメリカ西部ではあまり見かけない類の娼婦だ。女の少ない西部ではある程度の見繕いさえして
 いれば、それなりに客はとれるはずなのだが、この女はそれさえも出来なかった類だろう。北部か
 東部か、もしくは移民などせずに慎ましく暮らしていれば良い部類の女だ。
  そして、いやだからこそ、ロビン・フッドなんてものに縋って、それに夢見たのか。

 「てめぇみたいなのが、人ごみで俺を撃ったところで、別の人間を撃ち落すのが末だろうよ。そん
  でもって、捕まるのが。」
 「黙りなさい………。」

  女の剥き出した牙は、夜叉のようだった。やけに骨びた指が、真鍮色の引き金にかかって、今に
 も撃ち落しにかかりそうに震えている。

 「お前があの人を殺した事は知ってるのよ……。」
 「あの人ってのは?生憎と、思い当たる節が多すぎて分からねぇな。」

  マッドと女の周りから、徐々に人が離れていく。
  女の握っている銀の煌めきが、何を物語っているのかを理解し始めたのだ。マッドとしては、そ
 の色がこんな女の手にある事が酷く不快なのだが。

 「捕まるのはお前だ、この悪魔!あたし達のロビンを、そして彼のメリーメンを殺した癖に!」
 「ロビン、ねぇ?」

  そりゃあ何処のコック・ロビンの事だ。
  マッドは笑い含みで揶揄する。
  もちろん、マッドは女が言っているのは、巷――と言ってもスラム界隈で有名になっているロビ
 ン・フッドの事だろうと分かっている。しかしマッドにしてみれば、ロビンはロビンでも、撃ち落
 された以上、それは駒鳥のほうだ。

 「あの人を愚弄するのか!」
 「てめぇこそ、俺がてめぇの言ってる奴を殺したかどうかも分からねぇくせに難癖つけるつもりか。」
 「メリーメンを殺したのはお前なんだから、お前がロビンも殺したに決まっている!」
 「メリーメンってのが、誰を言ってるのかは知らねぇが。」

  いや、もちろん知っている。知っているが、マッドはそんな輩を撃ち落したとは思っていない。
 マッドが撃ち落したのは。

 「俺が撃ち落したのは、賞金稼ぎになれるように俺がちょっとばかり狩りの仕方を教えてやった餓
  鬼共さ。」

    不始末を片付けただけの事。
  西部一の賞金稼ぎが、己の成した事の後始末もつけられないようではいけない。だから、殺した。
 それだけだ。
  マッドは、メリーメンなんぞという子供の妄想じみた正義の味方面をした連中など知らない。マ
 ッドが知っているのは、金儲けの術を知りながらも、他人の金を奪おうとした餓鬼だけだ。

 「分かったら、さっさと何処かに行きな。今なら、俺に銃を向けた事も不問にして逃がしてやるぜ。」

  ひらりと手を払い、追い払う仕草をしてみせれば、それが女の癇に触ったらしい。女は身を翻す
 どころか、銃口をますますマッドに押し付けようとしている。
  マッドはそれを嘆息して見やった。
  女がそんな素振りになるのは、端から予想していた事。そしてこの女がもはや助かる見込みがな
 い事も。他人の金で生きていける事に味を占めた人間が、再び己の脚で立ち上がるのは、酷く困難
 なのだ。

 「だったら、せめて背後から銃を向けるなんて事は止めるんだな。正義の味方面して俺を撃ち取り
  たいなら、決闘でも申し込んで見せな。」

     ただの金のばら撒きをロビン・フッドと呼び、それを撃ち落したマッドをノッティンガムの長官
 と呼びたいのなら。

 「ロビン・フッドの恋人マリアンを気取るんなら、決闘の一つや二つ、こなして見せろよ。」

  言うや否やの一閃。
  マッドの黒光りするバントラインは、その長い銃身から容赦なく炎の槍を吐き出した。炎の咢は
 寸分の狂いもなく、乙女マリアンの胸だけを射抜く。
  地面に真っ赤な花が咲いた時には、マッドは軽やかな指先でバントラインをホルスターに収めて
 いた。
  葉巻の代わりに硝煙を唇の先で吹き遊び、呟く。

 「ほら見ろよ。乙女マリアンの分際で決闘も出来ない。てめぇにはロビンの泣き女のハト役が分相
  応だったのさ。」

  ところがマッドに撃ち落されて、コック・ロビンの為に、もう喪主ですら務められない。
  マッドが撃ち落した子供達も、メリーメンなど気取らずに、精々、鳶やら鶫のふりをして棺を運
 び鎮魂歌でも歌っていれば良かった。一向に姿を見せない駒鳥を嘆き悲しんで。そうしていれば、
 マッドも雀のままでいただろうに。
  だが、彼らが己らも義賊だと信じ、金持ちの懐に手を伸ばしたから、マッドは嘆きの砦となるし
 かない。
  まして、彼らの中に、賞金稼ぎになるといって何回か共に狩りをした少年がいたとなれば、猶更。
 元賞金稼ぎの義賊など、元泥棒の保安官よりも性質が悪い。元泥棒の保安官はまだ更生したと言え
 るが、賞金稼ぎが義賊になったところで、所詮はならず者が更に悪どくなっただけだ。
  しかも彼らは、既に一人、全く罪のない一人の使用人を、無知と浅はかさから殺している。
  その時点でマッドは、雀を名乗るつもりはない。
  マッドは、狂犬だ。
  気に入らないものは全て噛み殺す。
  それが分からなかったから、彼らは殺されたのだ。